小さな星の小さな光が ささやかな幸せを

 天の川、山里にふわり 高知県安芸市畑山 

 川のせせらぎとカエルの鳴き声が心地よい高知県安芸市畑山の夜。6月末、夕方まで山を覆っていた雲が晴れ、天の川が稜線(りょうせん)からふわりと浮かび上がってきた。/ 標高180メートル。山に囲まれた集落に人工の明かりはほとんどなく、懐中電灯を消すと、すぐ隣を歩く人の姿も見えなくなった。/ 目が慣れてくると、空に瞬く無数の星に気づく。その中を悠々と流れる天の川。まばゆい光の帯に圧倒され、時の流れを忘れて見とれていた。 / 「夜カーテン開けて寝よったら、星の明かりで目が覚めることもある」と、畑山で宿泊施設を営む小松圭子さん(39)。「この時季にこんなに見えるのってなかなかない。もう夏が来たね」と空を見上げた。(宮内萌子)(高知新聞・2022/07/05)

 いつの季節に限らず、夜空を見上げなくなって久しい。永六輔さんの詞に「見上げてごらん 夜の星を」というのがありました。今は亡き坂本九さんが歌っていました。ぼくは永さんはそれほど好きではありませんが、この詞(詩)はとてもいいですね。テレビ草創期の寵児でもあった人でした。ともかく高知新聞の、この記事に出会って、いろいろなことが思い出されてきました。

 「見上げてごらん夜の星を 小さな星の 小さな光が ささやかな幸せを うたってる」「見上げてごらん夜の星を 僕らのように 名もない星が ささやかな幸せを 祈ってる」 ぼくにはいくつも好きな「ことば(単語)」がありますが、中でも、特に好んで使うのが「ささやか」です。この「見上げてごらん」をいいなあと感じてきたのも、くりかえし「ささやかな」というフレーズが使われているからでした。「ささやかなねがい」「ささやかなおもい」「ささやかなあこがれ」など、いかにも、ぼくは自分の小ささを忘れないためにもこの「ささやかな」を大事にしてきたようにも思います。夏目漱石が熊本時代に作ったとされ、子規に宛てた一句があります。「菫程な小さき人に生れたし」です。ぼくはこの句が若いころからことのほか好きになりました。もちろん第一義は漱石自身がそうありたいと願っていたのでしょうが、「生まれたし」というのですから、すべからく、人は「菫程な」人として生まれ、そして生きてほしいという、漱石の願いでもあったと受け取っています。実に「ささやか」であり「さわやか」でもあるではありませんか。

 「天の川(河)」です。誰でもそうでしたでしょう、一番星を探したり、流れ星を見つけたりと、小さいころは何とか言っては夜空を見上げていたものでした。「悠久」とか「遥かな彼方」「無限」という印象を強く刻み付けられたのも夜空でした。数学者の遠山啓さんの本に、「つらくなったら、夜空を見るといい、自分はとても小さな存在だけれど、この宇宙でたったひとりしかいな存在(人間)であることを実感するだろう」というような意味のことが書かれていたのを、懐かしさを込めて思い出しています。「生きる意味」について、遠山さんは「かけがえのない自分」ということを繰り返い述べられています。誰とも比べることもできなければ、交代することもできない、そんな存在である自分に思いを寄せると、愛(いと)しくなってくるんじゃないか、とやさしく、子どもたちに語られている。大学教授であり高名な数学者でもありましたが、ことのほか「子どもの教育」に大きな関心を寄せ、また実際に大きな貢献をされた方でした。また詩人であり評論家でもあった吉本隆明さんの恩師ともいうべき人でした。「彼は教えた、だから私は学ばなかった。彼は教えなかった、だから私は学んだ」という経験を静かに、尊崇の念を込めて、ご葬儀で語られた吉本さん。その彼とは、言うまでもない、若い日の遠山啓さんでした。

● 遠山啓とおやまひらく(1909―1979)=数学者。数学教育運動家。熊本県に生まれる。1938年(昭和13)東北帝国大学数学科卒業。海軍航空隊の教授を経て、1949年(昭和24)東京工業大学教授。1951年数学教育協議会を結成、数学教育の改革運動に着手し、「水道方式」による計算体系を樹立、学校現場に大きな影響を与えた。主著は『数学入門』上下(1960)、『競争原理を超えて』(1976)など。(ニッポニカ)

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(坂本九「見上げてごらん夜の星を」1960年初演のミュージカル「見上げてごらん夜の星を」主題曲、1963年リリース。:https://www.youtube.com/watch?v=3hNQsRmAAC0

「見上げてごらん夜の星を」歌:坂本九 
 作詞:永六輔 作曲:いずみたく

見上げてごらん夜の星を 小さな星の
小さな光が ささやかな幸せを うたってる

見上げてごらん夜の星を 僕らのように
名もない星が ささやかな幸せを 祈ってる

手をつなごう僕と 追いかけよう夢を
二人なら苦しくなんかないさ

見上げてごらん夜の星を 小さな星の
小さな光が ささやかな幸せを うたってる

手をつなごう僕と 追いかけよう夢を
二人なら苦しくなんかないさ

見上げてごらん夜の星を 小さな星の
小さな光が ささやかな幸せを うたってる

見上げてごらん夜の星を 僕らのように
名もない星が ささやかな幸せを 祈ってる
ささやかな幸せを 祈ってる

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● 天の川
あまのがわ=天球上を大円(天球面上に描くことのできる最大の円)に沿って淡く光る帯をいう。英語ではミルキー・ウェイMilky Way。いて座付近でもっとも明るく幅も広い。七夕(たなばた)の牽牛(けんぎゅう)星(アルタイル)と織女(しょくじょ)星(ベガ)の間を流れ、カシオペヤ座からオリオン座の北を通り、みなみじゅうじ座に至る。天体望遠鏡で見ると銀河系を構成する微光星の群れであることがわかる。天の川は天の河とも書き、天の戸河(あまのとかわ)、天の安の河(あめのやすのかわ)ともいう。いずれも文学的名称で『古事記』『万葉集』にすでにあり、七夕伝説は『万葉集』『竹取物語』など多くの作品にみられ、中世文学の好題材となった。(ニッポニカ)

● あま‐の‐がわ〔‐がは〕【天の川/天の河】= 晴れた夜空に帯状に見える無数の恒星の集まり。地球から銀河系の内側を見た姿で、夏から秋に最もよく見える。中国の伝説に、牽牛星けんぎゅうせい織女星しょくじょせいとが7月7日にこの川を渡って、年に一度だけ出会うという。銀河。銀漢雲漢。天漢。河漢。《 秋》「荒海や佐渡に横たふ―/芭蕉」(デジタル大辞泉)

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 文月(「ふづき、ふみづき」)は早くも五日です。旧暦「文月」は「秋」ですから、今や「初秋」ということになりますか。暦の上では「立秋」は八月七日、まだ一か月も先のことですが、ぼくの感覚ではすでに「秋の愁い」に浸されているような気がします。明後日は「七夕」ですが、旧暦では一か月先のやはり「立秋」に当たります。「笹の葉さらさら 軒端にゆれて」と、これも小さいころには唱って、短冊に「菫程な」というささやかな願いを書いていたのですから、ぼくも殊勝だったなあと、郷愁に振るえるばかりです。新型コロナ化も収束の気配がないどころか、いよいよ盛り返してきたような状況です。ウクライナを巡る「東西の熱戦」はさらに緊張と熱度を増しながら佳境を迎えようとしています。「短冊」にどんな願いを託すのか、それぞれが、自己流の(有るか無きかの)「短冊」に思いをこめて、さて、どんなことを書くのでしょうか。

 高知新聞の「天の川」の記事と写真に触発されて、久しく見上げなかった夜空を望み、あるいは何十年ぶりかで「七夕」に思いをかけてみようかしら。「ウクライナでの『謂われない戦争』が、一日も早く終わるように」「殺戮者、Pが消えていきますように」「自然災害という名の『人為災害』が発生しませんように」、それぞれに祈るや切ですね。

 名もないぼくたちのように、「名もない星が ささやかな幸せを 祈ってる」ささやかな願い、ささやかな幸せが、どなたにも届きますように。コロナ禍に負けず、熱中症にもならずに、秋冷の候、やがて咲く「萩」や「コスモス」の涼やかさにいのちの洗濯がしたいものです。いささか気が早いのですが、「ふけゆく 秋の夜」になり、ぐっすりと安眠できますように、いまから待望しきりです。

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投稿者:

dogen3

 語るに足る「自分」があるとは思わない。この駄文集積を読んでくだされば、「その程度の人間」なのだと了解されるでしょう。ないものをあるとは言わない、あるものはないとは言わない(つもり)。「正味」「正体」は偽れないという確信は、自分に対しても他人に対しても持ってきたと思う。「あんな人」「こんな人」と思って、外れたことがあまりないと言っておきます。その根拠は、人間というのは賢くもあり愚かでもあるという「度合い」の存在ですから。愚かだけ、賢明だけ、そんな「人品」、これまでどこにもいなかったし、今だっていないと経験から学んできた。どなたにしても、その差は「大同小異」「五十歩百歩」だという直観がありますね、ぼくには。立派な人というのは「困っている人を見過ごしにできない」、そんな惻隠の情に動かされる人ではないですか。この歳になっても、そんな人間に、なりたくて仕方がないのです。本当に憧れますね。(2023/02/03)