豪雨にも負けず酷暑にも負けず

 何事によらず、ぼくはかなり物持ちがいい方だと自認しています。一方では、これは大事だと思われているようなものは、ものでもことでも、ほとんど行方不明になってしまっているのですから、物持ちがいいのか悪いのか、判断のしようがないともいえます。記憶の中にしまい込んであるものを、七十年も待ち続けるというのも、さぞかし、記憶細胞には負担この上ないことだろうと推測しますが、これは実にうまく働くようで、忘れていいものはどんどん記憶を呼び戻せなくなるし、中には大事な事柄でさえも思い出せない始末ですから、いったい大事か大事でないかを測る尺度は、どこにあって誰が差配しているのか。半世紀の昔から、授業をする際の参考資料にと、まず手にしたのが新聞でした。三、四十年ほど前は、まじめに新聞を購読していたんです。まだ、それなりに読めたんですね。

 その新聞記事から、主として「三面」というのでしょうか、あるいは「社会面」に掲載される、十年一日のような「人事」「人情沙汰」をかき集めては切り抜いていました。ある時期からは、ニュースをパソコンに取り込むようになり、かなり手間が省けるようになった。一面ではなく、三面というのは、大文字よりは小文字であり、建前などではなく、本音で任がんが顔を出す、そんな事件や記事ばかりが掲載されていたのです。今では、一面か三面かわからぬことが新聞記事のメインになっているようですな。

 そんな埒も意味もないような遊び事をひたすら重ねてきて、痛感するのは、当たり前のことですが、「人間」も、その集団である「社会」も、引き起こす出来事は実に変化がないということでした。ちっとも賢くならないんですね。個々人は賢くなるのかもしれませんが、その集合体はやはり、「バカのまま」で存在しているのです。人間のすることですから、驚天動地も破天荒もなく、何時だってどこでだって、同じようなことの繰り返しであることが判明します。いいことも悪いことも、千篇一律というべきか、同じことが繰り返される、まるで寄せては返す波の運動に似ています。

 しかし、少し冷静にその出来事を見ていると、おそらく「地殻変動」が生じているのではないかと感じられるような出来事が多くなった気もします。おかしいことはさらにおかしく、えげつないことはさらにえげつないことに、凶悪さは度を増し、すべてがだんだんとエスカレートしているのではないかという、異様な風潮を強く感じるのです。本日は、暑さしのぎになるかどうか、古証文(旧聞)を引っ張り出して、昔日の感にひたるのか、あるいは、日に日に人情や人智が劣化している様子を認めることになるのかどうか。十五年ほど前の「ばかばかしいにもほどがある」出来事のルポです。現状はさらに悪化していないかどうか、ぼくにはもう手に負えない時代社会になっているとしか言いようもありませんね。人間が自らの生命力(人間力)を使って存在しようとする以上に、いろいろな道具が人間力を援助し、あるいはその本来の力を奪っていく、そんな存在の仕方が、ますます拡大強化されていくにつれて、人間本来の自立心が弱体化し、その半面で本能的獣的部分が、もろにむき出しになっているのだと言ったらどうでしょう。

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 若い男から110番、出てみれば「ゴキブリが気持ち悪い」

 害虫駆除の依頼、恋愛相談……。警察に舞い込む様々な電話に、首をかしげたくなるような内容が目立つようになった。/ 地域住民と向き合う警察にとって、モラルに欠ける要求でも無視するのは困難。非常識な通報に追われることで、警察力の低下を招くのではないかと 危惧 ( きぐ ) する声も出ている。

 「ゴキブリが家の中に出てきて、気持ちが悪い」

 昨年夏、大阪府内の警察署に、若い男性から電話がかかってきた。対応した署員は「自分で駆除できるはず」と考え、この依頼を1度は断った。

 しばらくして再び同じ男性から「本当に困っている。来てくれ」。最寄りの交番にいた50歳代の男性警部補が男性宅を訪ねると、おびえた目つきでゴキブリを見つめる若いカップルが待っていた。警部補はゴキブリを駆除し、 死骸 ( しがい ) をビニール袋に入れて持ち帰った。/この警察署の副署長は「市民が助けを求めてきた以上、むげに断ることはできないと判断したが、ゴキブリの処理は警察の本来の業務ではない」と語る。

 今年2月中旬、千葉県内の警察署に女性から「恋人に振られてしまった」と電話があった。女性は約20分間、相手の人柄や交際の経緯を話し続け、翌日から連日のように電話をしてくるようになった。夜の当直体制で人手が少ない時間帯にかかってくることも多かった。

 山口県警では、110番を使って電話番号を尋ねる人に、県庁など主な公共機関の番号は教える場合もあるが、個人宅や民間企業の番号は答えていない。「110番は緊急の事件・事故に備えています。不要・不急の電話はご遠慮下さい」と、電話番号案内「104番」の利用を促すと、「104番を使うとお金がかかるだろ」と不満をぶつけてくる人もいたという。/全国の警察本部は1990年から110番とは別の電話番号「#9110」で「不急の相談はこちらへ」と呼びかけているが、#9110も業務と関係ない個人的な要求や苦情は想定していない。/ある警察の広報担当者は「緊急性がなくても警察が役立てる内容であれば相談に乗りたいが、個人的な要求も増えており、対応に苦慮することも多い」とため息をついている。(読売新聞・08-05-06)

 中には「雨が降ってきたので家に送って欲しい」「公衆トイレの紙がないので、届けて」という、臭い要求まであったそうです。お巡りさんは「公僕」だったかしら。「みなさまのNHK」ならぬ、国民・国家の警察ですから、お客さんの要求はむげには断れない。それにしても、凋落の一途ですね、この社会の「ボン・サンス」(良識・教養)は。はたして、「道徳教育」が欠けているのか、それとも、そもそも、「道徳教育」なんかしていないということか。身体が膨張して、精神までメタボリック状態*を来したということかもしれません。

(*〔代謝症候群の意〕肥満・高血糖・高中性脂肪血症・高コレステロール血症・高血圧の危険因子が重なった状態。複合することによって糖尿病・心筋梗塞(こうそく)・脳卒中などの発症リスクが高まる。高カロリー・高脂肪の食事と運動不足が原因。メタボリック症候群。シンドローム X。)(大辞林)

 地に落ちた「教養の程度」は、与えられる「教育」過剰で、精神の運動不足が原因と見るのですが、いかがでしょう。いまやこの社会は「非常識」列島、「複雑骨折」群島になったようですが、当時よりさらに劣化の度は加速しているというほかないような事態が頻発しています。「教養の程度」というのは、自制心であり、思いやる心であり、自らを少しでも賢くしようという「向上心」そのものです。高まりたくも、賢くなりたくもないという、そんな不精な、ものぐさ人間に、何をすればいいのか、ほんとに手がないというか、薬はないんです。

 「雨の日にはパトカーなんか呼ぶな」というのはアラン

 《本物の不幸もかなりあるにはある。そうだとしても、人々が一種の想像力の誘惑によって不幸をいっそう大きくしていることには、依然としてかわりない。自分のやっている職業について不平を言う人に、あなたは毎日、少なくともひとりぐらいは出会うだろう。そして、その人の言い分は、いつでも十分もっともだと思われるだろう。どんなことでも文句はつけられるものだし、なにも完全なものなどないからだ(アラン『幸福論』)
 「一種の想像力の誘惑によって不幸をいっそう大きくしている」と彼はいう。〈道徳〉あるいは〈道徳教育〉とはなにか、ぼくにはむずかしくてよくわからないのですが、アランの文章でいわれていることにはおおいに思い当たる。彼にならっていえば、道徳の問題というのは幸福の追求だといっていいんですね。「本物の不幸」ではなく、「偽物の不幸」から解放されるための方法が〈道徳〉であり〈教育〉のねらいじゃないでしょうか。

 《小雨が降っているとする。あなたは表にいる。傘をひろげる。それで十分だ。「またしてもいやな雨だ」などと言ったところで、なんの役に立とう。雨滴も、雲も、風も、どうにもなりはしない。そんなことを言うくらいなら、「ああ、結構なおしめりだ」と言わないのか。私はあなたの口からその言葉をきいたとする。そのように言ったからとて雨滴はどうにもなるまい。それは事実だ》《しかし、そのように言うことはあなたにとっては好都合なのだ。体全体がふるい立ち、本当に暖まるだろう。ほんの少しのよろこびによる体の動きでも、こういう効果があるのだ。そして、雨にあたって風邪をひかないようにするには、こうすればいいのだ》 

 「ああ、いやな雨」と想像しただけで気分が塞(ふさ)ぐし、それを声にだしていえばきっと憂鬱になってしまう。でも、反対に「ああ、久しぶりにいい雨だな!」と口にだせば、自分のなかでどんなことがおこるのか?いくらいっても雨は止んでくれないかもしれないが、憂鬱な気分からぬけだせるんじゃないですか。

 《それからまた、人間たちも雨同様にみなすがいい。それは容易じゃない、と言うかもしれない。ところが容易なのだ。雨に対してよりもずっと容易なくらいだ。なぜかといえば、雨に対しては微笑は役に立たないが、人間たちに対しては大いに役立つからである。そして、微笑のまねをしただけで、もう人々の悲しみや悩みは弱くなる》

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 以下の記事も十数年前のものです。今日はいかがでしょう。数日前には二歳の「孫」を放置して、USDJとかいうところで遊んでいて、その間に熱中症で亡くなったなどという事件が報じられています。人間が人間にとって「最大の狂気・危険物」である時代は、今も昔も変わらないでしょうが、それはどういうことを指しているのでしょうか。三歳児と同じような過ちを二十歳がする、あるいは二十歳代の若者同様に「乱痴気」をする六十代などというと、実は同じことが起こっているのではなく、人間能力の急転直下の「墜落現象」が群発しているということではないでしょうか。

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 生後3カ月の長男殴る=肝臓破裂し死亡、父親逮捕-宮城  宮城県山元町で生後3カ月の長男の腹を殴って死亡させたとして、宮城県警亘理署は5日、傷害致死の疑いで、同町大平、会社員佐藤隆也容疑者(29)を逮捕した。容疑を認めているという。/調べによると、佐藤容疑者は4日午後7時半ごろ、山元町の自宅で、長男の隆喜ちゃんの腹部をこぶしで殴り、肝臓破裂による腹腔(ふくこう)内出血で死亡させた疑い。(時事通信・08-05-06)

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 みずからの「情念という怪物」をうまくに飼いならす人間は、それだけで立派な人です。なぜなら、他人が幸福になろうとするのを邪魔しないように、可能なかぎりで注意深くあろうと意欲するからです。でも、悲しいことに現実は「情念という怪物」をのさばらせ、わがまま放題に無軌道三昧の落花狼藉状態です。

 パトカーも救急車も、あるいは消防車もという、ことごとく人民のための「援軍」が呼び出しに応じられないで混とんとしている二千二十二年の盛夏。マスコミは「最高気温更新」の期待を胸に、なんとあほらしい報道まがいに明け暮れていることか。盛夏は猛暑となり酷暑となり惨暑となる、加えて、さらにまた大型台風や集中豪雨の攻撃を受け続けるのでしょうか。あまりの豪雨には、アランの言うように「雨の日には笑え!」とはいきません。ひたすら、酷暑のみぎり、事なきを得て、暫時の間とはいえ、秋冷の候まで、生き延びようではないですか、ご同輩!くれぐれも事故や事件や熱中症にはご注意を。

 豪雨にも負けず酷暑にも負けず 他人の足手まといにもならぬ そういうものに私はなりたい(房総半島在住の高齢者の「独り言」です、賢治さんに導かれつつ、ですね)

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投稿者:

dogen3

「上を思えば限りがないと、下を見て咲く百合の花」になれるものなら、という想いです。それこそ、「高嶺の花」ですが。「昨日は俗人 今日は僧、生涯胡乱(うろん)これがわが能」と自称した一休さんは、一面では「相当な人物」だったと、歳をとるとともに思わされています。