広河隆一氏の写真展が中止 性加害への謝罪なし 抗議の動き受け決定 那覇市民ギャラリー

フォトジャーナリストの広河隆一氏(78)が5日から計画していた写真展は1日、中止が決まった。広河氏が性加害を謝罪しないまま活動を再開することに抗議の動きが広がり、会場の那覇市民ギャラリーが中止を申し入れた。/ 美底清順館長は1日、広河氏と面会して方針を伝えた。取材に対して「商業施設内にあり、ギャラリーの他の利用者もいる。混乱が生じる恐れがある」と説明した。広河氏も中止を受け入れた、との認識を示した。/ 広河氏は長期間にわたり、複数の女性に対して性暴力やパワーハラスメントの加害をしたことが有識者による検証委員会で認定された。今回の写真展は加害が報道された2018年末以来3年半ぶりで、ロシアに侵攻されているウクライナの現状がテーマだった。(沖縄タイムス・2022年7月1日 18:42)
IIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIII
広河氏の「性暴力」事件が発覚した段階においても、沖縄の糸満市だったかが「写真展」開催を決定し、その姿勢を批判されて、開催が取りやめになったことがありました。その時の、反対する側の理由は「広河氏は、自らの犯した性暴力事件の被害者に対して、真摯な謝罪をしていない」というものであり、主催者はその批判を受け入れて中止したという経緯がありました。今回も同じ沖縄の、場所は那覇市でしたが、反対理由は「真面目に謝罪していない」「犯した事件を認めていない」という同じ理由だったし、主催者側は、何かと御託・理屈を並べているが、糸満市の時と同様に「軽率」「軽薄」な行為だったと、中止を決めたのでした。両市以外でも、沖縄では、他にも同様のケースがありました。どうして行政は「批判されたから、やむを得ず中止」という、同じようなプロセスを取るのでしょうか。おそらく、自治体には独自の判断能力がなく、誰かに決めてもらって、批判や反対の声が小さければ、あるいはなければ「開催」という段取りだったのでしょう。どこを見て、政治や行政をしているんですか。

展示されるべき「作品」が何であり、それは誰が創造したのか、このことに関して行政は、一体どれだけの見識・関心を持っていたのか、大いに疑わしい。それ以上に問題だと思われるのは、写真展を開催しよう(したい)という側の意図です。「性暴力」を犯した高名な「写真家」であっても、本人は事実を否定しているし、開催を持ちかければ行政は受けるに違いない、いったん「開催」が決定されて、実際に展示された暁には「禊(みそぎ)」は済んだという、浅はかな魂胆ではなかったか。まるで、どこかの島の、腐った「政治家連中」の屁理屈のようですな。あるいは開催を持ちかけた側も、それを受け入れた側も、「性暴力」に対して、ほとんど無関心だったのかもしれません。残念ながら、むしろこちらの懼(おそ)れが強いと、ぼくは見ています。「合意によるもの」と、本人も言っているのだから、あれは「男女関係」なんだから、「民事不介入」などというふざけた姿勢を持っていたのかもしれない。
個人的に、広河氏に対する非難や批判を言うのではありません。彼とはまったく利害関係はないし、個人的なつながりも、さいわいにして、ありませんから、あくまでもごく当たり前の平凡な人間の感覚・感情として、この問題にどういう態度が取れるか、それだけです。広河氏の「性暴力」はまだ未解明の部分があり、すべてが明らかになっていません(それは、裁判においても明らかにされない部分は残ります)。ぼくが考えたいのは、一人の人間の職業(公的な部分)と、あくまでもプライベートな部分(私生活)との関係です。この「公・私」が明確にされていれば、ことはそれほど混乱はしないでしょうが、自らの仕事上の地位や力を利用(悪用)して、「性暴力」に及んだのではないか、広河氏自身も、あいまいなままで「それ(暴力)を認知した」かの発言があります。ぼくはこの部分についても、いかなる材料も持っていないので、これ以上のことは言えない。真相は「藪の中」ではないとも思われますが。

今回の件で、被害者が告発をしなければ、この問題は「なかったこと」になっていました。にもかかわらず、広河氏はさらに「優れた写真」を生み出し、社会的に大きく受け入れられたことでしょう。あるいは「文化勲章」「国民栄誉賞」などという「ご褒美」を受賞されるということになったかもしれない。(実に笑うべき、あるいは深刻に嘆くべき事態になったでしょう)彼が亡くなった段階で(悪い冗談ですが)、ようやくにして「被害者」が名乗り出て、こんな「性暴力」があったと告発し、おおいに彼に対する非難や批判がなされたところで、当の本人はいないとなれば、さて、事態はどうなるのか。このような事例は、この国においては、昔もあったし、最近もあった。その問題の根はいまだに引きずっているのではないでしょうか。(いい事例ではなさそうですが、「従軍慰安婦」問題、「強制連行」問題、「徴用工」問題などなど)
責任の所在は明らかだとしても、その責任を背負うべき当人がいなければ、「性暴力」事件の存在がうやむやにされてしまいます。国家と個人の違いはありますが、事件の類似性は疑いようもありません。植民地支配にかかわる「戦争犯罪」に類することは、時の政府や軍部がやったことだから、現政府には関係がない、責任を問われてもそれに応じようがないというとしたら、その「言い逃れ」は通用するでしょうか。国家・政府が消滅するまでは、否でも応でも「連綿と継続」しているのですから、どの段階であれ、国家犯罪が明らかにされたなら、それを認めるのは「明らかにされたときの政府」であることは否定できません。(下の写真・記事は朝日新聞・2018/01/15)

IIIIIIIIII
個人の場合はどうでしょうか。ぼくが言えるのは、「加害者と被害者の関係」の外にいる人間として、何をどこまで言いうるのかということです。もちろん、少なくとも今回の事例では、広河氏は被害者(現段階では十七名とされます)に対して、誠実に応じるべきであり、誠意をもって「暴力の咎(とが)」を認めるべきでしょう。それは問題解決への、最初の糸口でしかありません。しかし、みていると、広河氏はその糸口にさえ立っていないようです。むしろ、告発を受けたことで、逆に自分は「被害者」だといわぬばかりの詭弁を弄している。無責任であり、不誠実だというほかないようです。この人が世のため他人のために善なる仕事をなさるという、その志(こころざし)や如何に、そんな疑問は残り続けるでしょう。
この広河氏が創造した「作品群」に対して、ぼくたちはどう向き合うことになるのでしょうか。あるいはできるのでしょうか。眼前の「戦争告発写真」を、おそらく虚心に見入ることはできないでしょう。彼は人間的には許せないことをしたけれど(それはどれだけ償っても償われるものではないようです)、これらの作品は「卓越」している、だから、人間の間違った部分から切り離して「作品の価値」を見るべきだとでもいうのでしょうか。それで「免罪符」になるのかどうか。これまでの歴史において、このようなケースはいくらでもあったと思われます。真相が明らかにならないままのもの(ケース)、当事者が亡き後に状況が明らかになったもの(ケース)、あるいは今も活躍していて、その作品は称賛の的である、というような場合(ケース)はいくらでもあります。いちいちの事例は掲げない。その「賞賛の的」が、「批判の的」になっても、作品は残り続けるのか(称賛され続けるのか)どうか、それはわからないし、ぼくには、それはどうでもいいことのようにも思われてきます。

「人と作品」といいます。人間は悪いけれども作品は優れている、あるいは反対に、人間としては素晴らしいが作品は平凡に過ぎる、そんことはいくらでも、どこにでもあるでしょう。ぼくなら「素晴らしい人間の、平凡な作品」を受け入れたいと思っている。作品の良さを左右するのは、どこまで行っても作者の「人間の質」ではないでしょうか。作品を通して人間を観察し、人間を通じて作品を理解するということができるなら、まず人間の「姿勢」「態度」をこそ、ぼくは評価(判断)したいですね。広河氏の場合、果たしてこれまで通りに彼の残した写真(作品)を見ることができないとしたら、それは見る側に問題があったからでしょうか。どんな人間であれ、作られたもの 写真や文学あるいは音楽や映画など、それらの創造活動が優れているなら、一向にかまわないという立場もあるでしょう。しかし、ぼくはそう言う立場に立つ気のない人間です。
たくさんの映画作品を残して評価の高かった映画監督(東京五輪の記録映画も作った)がいましたが、彼の、主として映画女優に対する「性暴力」を知った段階で、彼の作品は一切認められなくなった(観ることさえできなかったのだ)し、こんな高名で破廉恥な「芸術家」は腐るほどいます。作家などにも嫌になるほどいました。もう駄目ですね、わかった以上は、作品は平気では読めなくなりました。もちろん、このような反応はぼくだけの話ですから、これを誰彼に強制しようという気持ちは毛頭ありません。
広河氏が今後どうされるか、ぼくの関心の外であり、「お好きなように」というほかありません。でも、二度と「性暴力」だけはしないでほしい。しかし、このような事態があったからには、「戦争を告発する」姿勢も、「弱者の側に立つ」根拠も、それで?と、ぼくは思うばかりです。自らの「獣性」と言おうか「暴力性」の発露が、異性に「牙をむいて突進する」ということに、彼はどこまで向き合えているのか、向き合おうとしているのか、ぼくは「今でも大いに疑問である」とだけ言っておきます。
● 参照記事=広河隆一氏の「性暴力」を認定 性行為要求、ヌード撮影……7人の女性による核心証言 「週刊文春」編集部(2019/12/27(https://bunshun.jp/articles/-/22842)

こんなものは、例によって、無責任報道に走る「週刊誌」の記事じゃないかという向きもあるでしょうが、今の劣島では最も優れたジャーナリズムの一つ(ある部分においては)といえるんじゃないかと、ぼくは考えることがあります。全国紙や地方紙の、どこが、このような「性暴力被害者の告発の声や言」を集めることができているのでしょうか。もちろん週刊誌には、かなりひどい(捏造や誤報の類)記事もかなりあるでしょう。「名誉棄損」で敗訴したケースも相当数あります。今から三十年以上前、ぼくは一週間で三~四誌の週刊誌を購読していました。俗悪とか、悪趣味とか物好きとか、何かと愚弄されながらも、そこにはある種の「真実らしさ」「的を射た指摘」があり、「判官びいき」や「勧善懲悪」的な姿勢もあったと、大いに気を強くしたことがありました。
今では新聞やテレビが、大々的に「高名な報道写真家、凶悪な性暴力」などという記事やニュースを、まともに報道するでしょうか。せいぜいが「週刊誌報道によると、…」が関の山でしょうね。ぼくは新聞もテレビも遠ざけていますから実態はわかりませんが、テレビは、いまだに吉本興業的なマンネリのどぶ(溝)にハマっているんじゃないですか。新聞はどうか、ほとんど「旧聞」に堕しているという感想しか持てなくなりました。今日の永田町の数ある野党と同じで、一見「与党」を批判している風を装っているけれども、実態は「一党」がいくつかに偽装分党しているばかりで、すべて「与党」なんですな、たった一つの「政党」を除いては。ぼくの見立てです。かくして、限りなくこの島は「黄昏テイク」ようです。
________________________