「女性としてつらい」 “性暴力”判明のフォトジャーナリスト 沖縄の写真展に抗議相次ぐ

性暴力加害が判明しているフォトジャーナリストの広河隆一氏(78)が7月5日から写真展を開くことが明らかになり、会場の那覇市民ギャラリーに抗議の電話が相次いでいる。ギャラリー側は広河氏と対応を協議したい考えを示している。/ 写真展に関する電話は6月29日午後6時までに9件あった。「女性としてつらい」「開催は絶対に許さない」「反省が見られないのに活動再開を認めるのはどうか」などの批判や、開催の事実確認があった。/美底清順館長は取材に対し、展示作品自体が公序良俗に反しない限り通常は利用を許可しており「特別扱いしたわけではない」と説明。抗議の動きを受けて「広河氏に連絡し、協議することも含めて対応したい」と述べた。/抗議の電話をした「基地・軍隊を許さない行動する女たちの会」の高里鈴代共同代表は「写真撮影と同時並行で性暴力を重ねてきたことが分かっている人物。写真展の開催は、全ての被害者を傷つける」と批判した。(編集委員・阿部岳)(沖縄タイムス・2022年6月30日 )(ヘッダーは:https://gendai.ismedia.jp/articles/-/96260?page=6)
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本日は何か涼しくなるようなテーマがないかと、昨日からいろいろと探りを入れていました。沖縄ならさぞかし、と沖縄タイムスをみて、「私のウクライナ」写真展開催に対する抗議の記事に遭遇しました。非難の的である広河隆一氏に関してはささやかな因縁もあり、早い段階から注目していたし、彼の作品も、それなりに観てきたのでした。ある時期から、いろいろと「噂話」も耳にし、それはホントかと疑念を持ったことは事実でした。ちょうどそのころ、高名なジャーナリスト(ルポライター)とかかわる一女性と知遇を得た。というか、「この女性をどうにかしてくれ、付きまとわれて困っている」という先輩ジャーナリストの言い分もあってのことで、ばかな役回りを買って出たという塩梅でした。以後、彼女とは何度かあった(話を聞きました)。ぼくの話がうまくいったかどうかわかりませんが、それ以降、彼女のつきまといはなくなったと聞いています。激しい時は、どこで講演会(集会)をやろうが、かならず先に待ち伏せしていたとも聞いた。実際に、二人の間に何があったか、ぼくには関心がなかったから、話はそれで済んだと思っていたところ、昨年、広河氏(から見れば)の「醜聞」が大々的に報道された。こういうことをやりながら仕事をしていたのか、仕事をしながら、こういうことを繰り返してきたのか。いったい、どっちが仕事なんだ、と訊きたいね。

よく知っていた報道(戦場)カメラマンだったが、その「醜聞」は確かだろうとぼくは直感したのでした。詳しいことは省きますが、当初訴えられた「内容」を彼は全否定したし、あろうことか、「相手も喜んでいた」などというたぐいの言辞も漏らしていたとされます。伊藤詩織さんのケースでも、訴えられた側の男は「全否定」「合意」などと言っていたが、裁判では伊藤さんの訴えが認められています。ぼくはきれいごとを言う人間ではないし、他人の問題を、これ見よがしに非難や批判をしようとは思わない。しかし、「言っていること」と「やっていること」が背反していれば、それは悔しいけれど、やっていることは認められないこともないけれど、人間として「信が置けない」と、ぼくは考えているのです。「男と女の関係」「男女の情交」などといいますが、どんな関係であれ、嘘を言い募り、相手をさらに辱めることになるなら、それは何をおいても、まず人間として認められないのではないか。人間である以上、いろいろと間違いや過ちを犯します。ぼくなども、その繰り返しだったと白状しておきます。しかし、自分がやってしまったことを「なかったこと」にはしたことはないといえる。つまりそのことに関しては「嘘はつかない」ということを「掟」のようにして生きてきたといえるからです。
自分の間違いや過誤を棚に上げて、広河氏を糾弾するのではないのです。彼が、報道された段階で話したことが「弁解」ではなく「虚言」であったということに関して、まことに残念としか言えないし、自分がしたことを「反省し」「謝罪し」たから、活動を再開しますという、その厚顔さに、ぼくは「人間を舐めている」「不真面目そのもの」男の顔つきを見るのです。謝罪したふりをして、二、三年謹慎した格好を取れば、あとは好き放題(無罪放免)と考えているなら、度し難い悪漢だと思います。優れたカメラマンだったとしても、それは別の問題であり、誠意とか誠実というものが無ければ、人として欠けていると、はっきりというべきでしょう。仕事がよければ、すべて免罪という、そんな「世界」にぼくは住みたくないな。







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以下に、この問題に関して、同じ写真家でもある長倉洋海氏の記事が出ていました。アフガンその他のすぐれた作品に大いに啓発された人間として、ぼくはこの問題に関してまっとうな、いや当たり前の発言をされているのに大いに首肯したのです。広河氏は、侮辱した女性ばかりでなく、取材の対象になった人々まで裏切ったのではないかという長倉氏の指摘は正鵠を得たものと、ぼくな真正面から受け止めています。
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広河隆一氏“性暴力”に写真家が直言 「カメラの前に立った人々の思いを踏みにじった」 ~フォトジャーナリストを目指す人へ~ (長倉洋海)

今回、広河隆一氏が引き起こした一連の問題について、写真で伝えることを仕事としている者として感じたことを記したい。/ 昨年末に週刊誌「週刊文春」で7人の女性が広河氏を告発した。その記事内容に「そんなひどいことをしていたのか」と驚愕した。ただ、そのことについてコメントを求められることもなかったし、自分からしようとも思わなかった。その、ほぼ1カ月後の1月末、同じ週刊誌で別の女性からの告発記事が発表された。広河氏が海外取材に女性を連れていき2週間にわたる性的虐待を加えていたという内容だった。そのあまりのおぞましい内容がにわかには信じがたかったが、広河氏と彼の弁護士からいまだに反論がないということは、内容がほぼ真実だと判断していいだろう。
■自らのゆがんだ欲望に負けたのか 当初は氏の資質の問題と考えていたが、事件は広がりを見せ、ジャーナリストとは何なのか、雑誌編集部や編集長はどうあるべきなのかということも含めて、私たちも問いを突きつけられている。世間では、フォトジャーナリスト、あるいはジャーナリストは表では正義を叫びながら、その裏で何をやっているかわからないという目も向けられているように感じる。/ ただ、この事件によって、「フォトジャーナリストを目指したい、そのような仕事をしたい」と願っている人たちがフォトジャーナリズムの世界に不信感を持ったり、将来への不安を覚え、道を閉ざしてしまうことのないように念じている。/ 最初に言いたいのは、氏の行為は多くの人を傷つけたが、そればかりか、パレスチナやチェルノブイリ、福島などの地で、「この地の問題に光を当ててほしい」と願い、彼のカメラの前に立った人々の思いを踏みにじってもいる。さらには、「大手メディアが伝えない真実を伝える」という姿勢に共鳴し「DAYS JAPAN」の購読・寄付を続けた人々、そして、実際にフォトジャーナリズムに触れてみたいと集ってきた人々の思いをも裏切った。(以下略)(アエラ・2019/02/12)(https://dot.asahi.com/dot/2019020800082.html?page=1)
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どんないいことを言ったり書いたりしても、やっていることがその反対だったら、その人をぼくは信じられない。世間(他人)を騙せるなら(他人に知られなければ)、それでいいじゃないかという人もいるかもしれない。ぼくたちは、ほとんどの場合、他人を知るのは書かれた本を読んだり、話された内容を知ってからでしょう。だから本や話に「真実味」があれば、この人は「いい人」だと簡単に判断してしまうかもしれない。でももし、その当人が何かのきっかけで、やっていることが、それとは正反対だったとしたら、その段階で「これはアカン」となるのではないか。ぼくはいつでも、他人を騙すのは難しくはないけれど、自分を騙すのはかなり難しいと考えてきた人間です。でも、それはぼくだけであって、他者は、いとも簡単に自己を偽れるのかもしれない。なんだか淋しいというか悲しいことですが。
広河氏が「謝罪」して、直後に(間を置かず)活動開始というのはどうでしょう。彼は自分のしたことをその程度の「つまずき」ぐらいにしか認めていないからかもしれない。つまりは「人の噂も七十五日」とね。あるいは「謝罪してほしい」「謹慎しろ」「反省しなさい」と、あちこちから言われたから、自分なりにそうした(ふりをした)だけで、心底、自身の犯した行為を受け止めていない、たぶんにその懼(おそ)れが強いと、ぼくは勝手に判断している。だから、広河氏は許せないとか、何にしても彼にも生活があるとかいうのではなく、人生の途次で、大きく傷つけられた「被害者」の痛みや苦しみを知れば、もっと違った「再生の道」があったのではないでしょうか。自分がしたことを「矮小化」というんですか、まちがって肘が当たったという程度の捉え方だったかもしれません。「痛かったとしたら、御免なさい」ねと、済ましてしまう。生まれ変わる覚悟など、そんなことを期待しているから、君はダメなんだと、誰かに言われているような気がしています。「ダメ」で結構、でも自分を偽らず、もちろん他者にも気を配りながら、ささやかな生活を送っていきたいと願うばかりです。

一人を殺せば、殺人犯として断罪される。 しかし何千、何万の殺戮を敢行すると、その人は「英雄」「名宰相」となるという。ホントかね、ぼくはそんなものは断じて認められないですね。一人や二人の女性を犯せば、「性的加害者」、あるいは「性犯罪者」となるだろうが、たくさんの「凌辱された女性」を生みだすなら、その人は「名カメラマン」となるんですか。繰り返します。「アホか」と言いたい。人間は間違いを犯す、しかもなん度でも。でもそのたびに、自らを生まれ変わらせるという「覚悟」「態度」がなければ、それは失敗や過ちではなく、それ自体が、当人の生活になっているんですね。女性を「凌辱」しておきながら、いい作品を生むというのは、何なんですか。この問題については、さらにていねいに言わなければならないことがありすぎますので、稿を改めて。(本日も「酷暑」に見舞われています。ネコも人間も、生きとし生きるものは)