「同調強制」は新型コロナの政治力学ですか

 もう半世紀以上も前に勤め人をしだしたとき、勤め先の学校が「ロックアウト」という事態に陥りました。その前に学生たち(全部が在学生だったかどうかは疑わしいが)がバリケードを築いて、「検問」なるものをやりだした挙句の当局の処置(措置)でした。職員は出入りの際には「身分証明書」を提示しなければならなくなった。ぼくはその当時も「身分証明書」なるものを携帯していなかったので、いつでも「検問」に引っ掛かり、その都度、「面通し(顔認証)」を事務職員にしてもらい、仮入構証を発行してもらっていた。(ある時には、フェンスをよじ登って入ろうとして、ガードマンに捕まったこともあった)大変に煩わしかったが、しばらくはそれを通していた。(名刺を持つ習慣にはついになじまなかった)「それが当たり前」であることが通用しなくなるのが気に入らないし、ある時、一方的に、こうするんだと法律や当局の決定でなされることにも大いに含むところがありました。その思いは、今だって少しも変わっていません。

 新型コロナがこの島ではやりだしたころはまだでしたが、やがてそれが感染力の大変に強いウィルスによるとかなんとか言われだしてから、島全体が一気呵成に「規制劣島」「同調群島」になりました。まるで「驚天動地」という大騒ぎになった。まずは「アルコール消毒」の強制的実施、加えてマスクの着用の「義務化」でした。それ以前はもちろん、感染が起こりだしても、ぼくはかみさんと何時だって頻繁に食事などに出かけることにしていた。週一、二度の「蕎麦屋」や、あるいは「スパゲッティ屋」さん通いは楽しみの一つでした。酒はやめていましたが、近間の「寿司屋」にも頻繁に出かけていた。そこは房総の天津小湊出身のマスターが経営していて、何時だって新鮮なネタがうまかった。

 ところが、さらに時間が経つにつれて、「マスク着用」と、店頭に張り紙が出され、テーブルにはアクリル板が立てられだした。ほとんどはかみさんといっしょでしたから、まるで「孤食」を強いるような「姑息」な塩梅には抵抗感が強くなり、仕方なしにそれらの店に行くのを止めてしまった。「食事中以外はマスクをしてください」などと店員に言われ、食べたものを吐き出し、「なんでや」と言いたくなったのですが、ぼくのモットーの一つは、何業であれ「営業妨害」は断じてしないということでしたから、それでは行くのを止めればいいだけと、以来、もう二年以上は「寿司屋」も「イタリアン」も「蕎麦屋」などにもまったくいかなくなった。外食はしなくなったのです。店の問題というよりは「保健所の指導」がうるさいということでしたから、なおさら、行政や政治は何を考えているかという、ある種の怒りが蓄積されてきました。 

 さらに時を経て「ワクチン接種」の大号令です。役所からも「接種券」なるものが届いたが、ぼくたちは関心を示さないままに、今に至るまで「接種」はしていません。それなりの理由はあっての、ぼく個人の判断です。さすがに食料品を仕入れに行くにはマスクなしでは入店は不可能なので、否応なしに着けますが、それ以外は「当たり前の生活」を続けているのです。もちろん現下の状況がわからないわけではないが、あまりにも素っ頓狂な方策が強制されるような事態だけは拒否したいのです。マスク、ワクチン、検査などなど、それを一つでも欠かすと、日常生活に支障をきたすような、短兵急な「同調過多」「過同調」に、いまだに大いなる抵抗を覚えている。娘たちの接種しなままでいます。

 ①マスクをしたい人はどうぞ! ②ワクチン接種もやりたい方はぜひ! ③「抗体検査」「抗原検査」も自らのご判断で、どうぞ! ④アクリル板はいらないと思う人には強制しないでほしいなどなど

 「新型コロナ」は、当たり前の生活を中断するような「感染症」なのかどうか、ぼくはいまだに疑っているのです。例年「インフルエンザ」に罹患し、亡くなる方々が二~三千名を数えていました。すべてが「感染」で亡くなったかどうかは定かではありません。(今回もそうで、死亡と感染やワクチン接種の因果関係を明らかにしていないのが、関係当局です)ぼくの基本の立場は「死亡」は統計(数)ではないということです。だから死亡者の多寡が問題になることはあっても、それを材料に「検証なしの理屈」を垂れないでほしいと何時だって願っているのです。「ワクチン」を接種したから感染しなかったのか、「接種」したのに感染もしたが、亡くならなかったのは「ワクチン」のおかげかどうか。死亡したのは「接種」したkらだったか、そんなことは役所も誰も「口を拭っている」のだ。もっと初歩的に言うなら、連日の劣島の感染者数が報道されますが、それを一度として実証的に、検証した機関がないのも不思議というものでしょう。最近では「検査数」から推し量ると、感染率が五十パーセントなどと肝をつぶすようなデータが、さりげなく、当然の如くに流されています。ぼくは最初から、政府や官庁の、多くの「統計」「数値」には「まゆつば」でしたが、それをさも真実であるかのごとくに報道する「ゴミ報道」には涙も出ない。

(総務省:新型コロナウイルス感染症陽性者数(2021年5月23日時点))

 そのような恣意的なデータいじりから打ち出される「政策」や「対策」にどれほどの信ぴょう性があるのか、これもどこかの団体や組織が調べましたという報告がありません。官民挙げて、とにかく「新型コロナ」は千載一遇の好機と、まるで商売や儲け話のように、なりふり構わずにごり押し政策・方針を打ち出し続けてきました。この間、コロナ対策と称して、いったい何兆円の税金が予算化され、その何割が「闇に消えた」のか、これもまるで雲をつかむような話です。国家がやることは「国民の安心安全」を守ることなどではなかったことに、目が覚めないかな。そんな「人民愚弄政治」を支持するという、その愚弄されてきた「人民」はそもそも、政治や政治家に何を願っているのかしら。

 例によって、この「駄文」に結論はない。マスクをするべきだと思う人はすればいい。だからと言って、しない人・したくない人を「危険視」も「異物視」もしてほしくないし、してはいけないと思う。なぜしたくないか、理由があるはずです、問題はそこから始まるんだ。ワクチン接種も、その判断はご当人に委ねるべきで、それは例年のインフルエンザ(流行性感冒)に処するのとまったく変わりない。ワクチン接種の有無で、決定的に分断される何かが、この社会にあるんですか。「黒人VS白人」というのは、アメリカ全体ではないにもかかわらず、その社会の大きな歴史的・人権的問題になり続けています。あるいは、瞬間的ではあれ、ワクチン「接種派VS非接種派」という色分けを政府や行政がやりたがっているのでしょうか。これまでに費やされた特定企業への「ワクチン」資金は膨大なものになります。薬品記者は史上最高の売り上げを誇っている。特定の企業に、これだけの金額が動くというのは、まるで「軍需産業」への莫大な軍事費納入と似ていないかどうか。(ワクチン接種証明書」なるものが言い出され、図らずも半世紀前の「身分証明書」不携帯を思い出しました、詰まらん話やね)

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 「右に習え」と、いたるところで号令が掛けられています。おのれの一声で、全員が操作できたら「さぞ気持ちがよかろう」というのでしょうか。このなれの果てが、「独裁主義」ですね。でも、この「号令に」に背く人間は必ずいます。ぼくは小学校時代から「右へ!」と命じられたら、「左」に向きました。その都度こっぴどく叱られた。教師は「命令を聞かない子どもを懲らしめる人種」だと悟りました。「今日から、このように決まりました」と、自分も参加したところで決められるならまだしも、一片の紙切れで「ああしろ」「こうするな」と言われれば、一家言も一家行も持ち出したくなります。「なんでや」「その理由は?」と、ぼくはいつだって質問していた人間です。もちろん、自らの誤解や受け止めそこないによる間違いはある、だから、それに気が付けば直せばいいのです。問題は「有無を言わさず」「みんながそうだから」という、全体主義を騙(かた)る態度です。それは無条件では認められませんでした。付和雷同の強制、群集心理の悪用ですね。

 この二年半、世界全体が「大騒ぎ」しました。それだけの根拠があったからだと思う反面、事態を少し冷静に判断する余裕があれば、もっと違った社会の一面が見いだせたような気もします。まだまだ混乱は続くでしょうが、なにも「新型コロナ」だけではなく、いろいろな問題で、はしなくも、多くの人間たちの「無定見」「無思慮」が白日の下に晒(さら)されることになるのではないですか。用意できるだけの「データ」というか「材料」を持ち寄り、それを間に置いて、互いに話し合いができないことの不幸は、その問題を超えて生じつづけるのです。なんだって、眼前の問題を解くのは、次の課題への準備でもあり、不幸を防ぐための不可欠な作業です。どんな人も、一人で生きてはいないし、生きてはいけないということの理由や背景を、さらに深めて知る必要がありそうです。「マスクをしなさい」「ワクチンを接種しなさい」といわれたから、「はい、そうします」という「愚図」は嫌だな。これを「唯々諾々」というらしい。

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 外科医が食堂の同僚たちのところにやってきて、溜息をついた。「ちょうどいいときに手術をした!もう一時間おそかったら、患者は手術しなくても助かるところだった!」(多くの専門職業人は、この外科医と同類じゃないかな。何を考えて「医者」「専門家」をしているんだか。なんとも恐いねえ!)

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投稿者:

dogen3

 語るに足る「自分」があるとは思わない。この駄文集積を読んでくだされば、「その程度の人間」なのだと了解されるでしょう。ないものをあるとは言わない、あるものはないとは言わない(つもり)。「正味」「正体」は偽れないという確信は、自分に対しても他人に対しても持ってきたと思う。「あんな人」「こんな人」と思って、外れたことがあまりないと言っておきます。その根拠は、人間というのは賢くもあり愚かでもあるという「度合い」の存在ですから。愚かだけ、賢明だけ、そんな「人品」、これまでどこにもいなかったし、今だっていないと経験から学んできた。どなたにしても、その差は「大同小異」「五十歩百歩」だという直観がありますね、ぼくには。立派な人というのは「困っている人を見過ごしにできない」、そんな惻隠の情に動かされる人ではないですか。この歳になっても、そんな人間に、なりたくて仕方がないのです。本当に憧れますね。(2023/02/03)