「核兵器」を弄ぶのは、狂気の沙汰だ

【水や空】締約国会議閉幕 ウィーンには日本の大使もいるんだから、今からでも来ればいいのよ-。会議の様子を伝えるテレビの画面が外国人女性のこんな言葉を伝えていた。“唯一の戦争被爆国”の政府に対する世界の「?」をそのまま物語っている気がした▲ウィーンで開かれた核兵器禁止条約の第1回締約国会議が閉幕した。日本政府はこの会議に背を向けたままだ。〈会議の前日に広島出身の大学生が現地で直談判しても、日本政府はかたくなに拒否した〉と、現地発のリポートにあった▲広島・長崎の市長が被爆地の声を発信した。被爆者たちは核の恐怖を証言し、核なき世界への願いを切々と訴えた。日本の若い世代も決意を語った。それらが印象的であればあるほど際立つ日本政府の不在▲オブザーバー参加した非加盟国の発言が興味深い。「条約には加盟できないが、核なき世界の実現という目標は完全に共有する」と述べたのはドイツの担当者。ノルウェーは「すべての国と建設的な対話を模索する」▲リポートはこう伝えている。〈…考え方やアプローチに違いがあっても、オブザーバー参加各国のスピーチにも変わらぬ拍手が送られた〉。さぞ歯がゆい思いでキーボードをたたいたに違いない▲日本はこの先も橋渡し役を自称していられるだろうか。77回目の夏が来る。(智)(長崎新聞・2022/06/25)

(左写真は西日本新聞・2022/06/25)

 この主題については先日も触れました。屁理屈をこねてはいたが、初めから日本政府は不参加を決め込んでいた。アメリカからの差し金であり、アメリカへの忖度です。「戦争による唯一の被爆国」を「常套句」「接頭辞」として、言い続け、使いまわしし続けてきた政府がだんまりを決め込んだのでした。言うに事欠いて「核保有国と非保有国の橋渡し」に徹したいと、ぬけぬけといい抜けてもきた。核兵器禁止への方向に「異論」のあろうはずがないと言いたところですが、世界はそんな段階にまで、賢明な階段を昇りきってはいない。国連の常任理事国はすべて核保有国であり(このこと自体が、国連のまやかし性を明示しています)、それぞれが後押しをして、何時しか核保有国はすでに十か国に増加しています。(「世界の核兵器保有数」:https://hiroshimaforpeace.com/nuclearweapon2021/)この先、どこまで核開発に走る国が増え続けるのでしょうか。核を保有すれば、それを使いたくなる、使うチャンスをうかがっている国々も後を絶たない。ロシアは言うに及ばず、北朝鮮しかり、インドやパキスタンだって、何時だってその準備に怠りがない。イスラエルもイランもと数あげれば、やがて、核開発どころか、核保有国同士の軋轢がにっちもさっちもいかないところにいきついてしまうでしょう。

 今回の締約国会議には多くの条約未承認国の人々や国の機関がオブザーバー参加しました。また個人の資格等で大勢の「市民」が参加し、大いに議論を重ねていました。ぼくにはいくつかの疑問が「核保有」にかかわる問題についてあります。確かに核開発や核保有は「国の専権事項」なのかもしれません。当たり前のように、それを認めてしまっています。しかし、開発や保有の判断は政府の一存で決めていいはずはないし、そこに国民の参加する道が閉ざされているのはなんとも解せないのです。核兵器を使用し、戦争を始めるのは「国家(権力)」です。国民の意向など一切無視して戦争を始める、その戦争に否応なしに国民は参加を強いられる。兵士として、あるいは銃後の守りとして、その他有形無形の「戦争協力」を強制されるのです。そして、犠牲になるのは、そんな人民であることには間違いない。権力者は戦地に赴きもしなけれな、戦時中にも拘わらず、普段通りの「ノー天気」ですごしているのだ。ロシアとウクライナの現下の「戦争」が如実にそれを示している。「戦争は相撲で勝負を決める」あるいは「あみだ」だと、ぼくは言い続けている。その程度の値打ちもないのですから。国境は、一日も早く消えてほしいし、消すための方法も考えている。(上の図は中日新聞・2022/06/19)

 今回の国際会議では日本からも多くの市民が参加していました。それぞれの目的や役割があったことでしょう。これまでのように「核問題」は国家・政府の専権ではなく(これまでも専権事項ではなかったと思うが、それを無視してきたのが政府です)、国民(人民)がそれぞれの判断で決めるべき事柄ではないでしょうか。まずは地域レベルから、核保有に対する意見を表明すべきだし、最終的には国民の「投票」などによって意思決定すべきでしょう。その意味では、今回の会議には多くの課題も残されましたが、核開発問題に関して、一人一人の人民がいかなる役割を果たすべきか、その方向性が明らかにされたとも思われるのです。(下の図は毎日新聞・2018/08/06)

 中国が初めて核実験をした時、時の一政党は「核(原爆)には美しい核(原爆」もある」と、狂気の談話を宣わった。その政党は、戦後は保革の一翼を担ったこともありましたが、現在は絶滅寸前の状況にあります。(絶滅種に急接近)(「原子力の平和利用」と言い出したのアメリカであり、オウム返しにこの島国も使いだしました。いまでは「核の平和利用」とマジで考えている国々があるのです。冗談じゃないぞ)

 自らの政治的な都合で「核」を云々するというのは許せないし、いまどき「核保有」とは言わず、「核共有(シェア)」と、寝言を、目を明けて言っている元ソーリがいる。恥ずかしい段階を通り越して、一日も早く消えてほしいと、ぼくはひたすら願う、そんな存在だ。その昔、山形有朋が死去したとき、経済ジャーナリストの石橋湛山は「死もまた、社会奉仕」というような意味のことを雑誌に書いた。亡くなるのが少し遅すぎたとも書いていた。今だって、早く「社会奉仕」を果たしてほしいと切望している「セージカ」が、ぼくにとっては、まだまだいます。ただいま参議院議員選挙中です。選挙の時だけでも賢くなることはできないものかと、現下の政治・経済状況を見ながら、「ないものねだり」をしているのです。(ヘッダーの写真は「オカトラノオ(岡の虎の尾の意)」です。散歩道には、今を盛りに咲いています)

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