
五月の連休を前にして北から南に、サクラ前線とは逆方向で「田植え前線」が南下していきました。およそ二か月の間、どこかしらで「田植え風景」(今はほとんどが器械化されたので、風景ではなく「田植え業務」といったところ)。考えるまでもなく、実に興味のある出来事です。おそらく弥生時代以来、その田んぼはほとんど稲つくり専用にあてられてきたのです。同じ作物を、毎年植え付ける(連作)というのは、一面では望ましいことではないのでしょうが、稲の改良、あるいは田植え技術の開発向上など、さまざまな要因を動員して、このまれにみる奇現象(と、ぼくには見えてくる)は二千年も続いているのです。連作が可能であったことは島の住人にはことのほか幸いだったことになります。
田植えの時期にも念入りに、ではありませんが、ぼくは散歩をする。植えられたばかりの早苗が風に揺れ、雨に濡れている様子を見ると、高温多雨が、この劣島に様々幸運をもたらしてきたことを痛感させられるのです。今年も、一か月以上も前に、近所の田植えが終わったばかりの際に農道を歩いていて、「いやに、耕作放棄が」と、つまり稲を植えない田んぼが多いことに気が付きました。このところの傾向は本年も変わらないのだろうと、農水省の報告を読んだばかりで、いよいよ、この島は「コメ」から離れてゆくのだという思いを強くしました。ぼく自身は「米飯派」ではありませんから、この件については何とも言う資格も権利もないのです。へえ、そうなんだという感想ばかりが浮かんでは消えていく
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「一国一城」の主とは、男子の本懐にまで掲げられたお家の一大事でしたろう。徳川七百万石(親藩を総計すると)、加賀百万石、あるいは薩摩7十万石などと、諸藩の勢力もまた「石高」ではかられたものでした。もちろん物事には裏表がありますから、公表は公表、それには「裏高」「奥高」とでもいえそうなものまであって、なかなかに実相はわかりにくいものになっています。なんにしても、なかなか本当の姿は見えてこないものです。すべてが石高制で支配されてきたこの列島ですから、明治以降もそれ以前の石高順位が新政府の権力への距離を示すことになったのは当然でした。
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千葉の房総半島のごく一部に見た「耕作放棄地」の面積増大は、この島の傾向としても外れていなかった。当然といえば、その通り、作っても元が取れないものは作らない方がいい、他の作物に変える、それもかなわなければ、耕作放棄、後継者がいないから、廃業する、こんな循環が確実に劣島で繰り返されているのでしょう。いろいろな理由がありますが、人口減少が一番大きな理由かもしれない。それに従来以上に輸入に頼る構造が出来上がっているので、それに便乗して「食糧安保」もただ乗り論を実行するばかりというのかもしれません。物を作るのに高い金がかかるなら、安い製品を買った方が楽だし、いらぬ苦労もしなくていいとばかり、この島社会は「輸入国」になりきったのです。世界で何が起ころうと、国土が安全なら国民も安泰とでも考えているのでしょうか。このさき、さらに「食糧危機」はつづき「燃料費高騰は天井知らず」となるはずですが、それでも生きていけるという「安心感」はどこにあるのか。まるで「雲をつかむ」話であり、ないものをあると信じて生きるというのですから、なんともおめでたいと、われながら考え込んでしまいます。
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コメ作付け、37道府県で減少 22年産、転換進む―農水省 農林水産省が2日発表した2022年産主食用米の作付け意向調査(4月末時点)によると、37道府県で前年実績より作付面積が減少する見通しとなった。前回調査(1月末時点)の22道府県から増えた。コロナ禍による外食需要の減少などを背景に、飼料用や大豆・麦への転換が進んだ。/ 意向調査を基に試算した全国の作付面積は前年実績に比べ約3.5万ヘクタール減少する見込み。ただ、農水省はコメの消費減退などを考慮すると、22年産主食用米の作付面積を約3.9万ヘクタール減らさなくてはならないとみており、「より一層転換を進めていく必要がある」と指摘している。(時事通信・2022/06/02)
【南風録】近所の知人が体調を崩し、今月初めからしばらく入院することになった。自家用米の田植えをどうしようか心配していたが、友人が引き受けてくれることになった。 ▲<千枚の田に張る水の走り出す 鷹羽狩行>。伸び放題だった草が刈られて耕運機が入り、用水路を勢いよく水が流れ始めた。千枚には足りないが、水をたたえた一帯の田んぼが辺りの空気をじんわり潤していくようだ。 ▲そんな時季に、気になるニュースがあった。本年産の主食用米の作付面積を、鹿児島を含む37道府県が前年実績よりも減らす意向だという。4月末時点の調査結果を農林水産省が発表した。 ▲新型コロナウイルス禍で、外食を中心にコメの消費が減り、米価は下落傾向が続いている。「欧州のパンかご」と呼ばれる小麦産地で起きた紛争は長引き、穀物価格が上昇の一途をたどる。国の補助金政策がある飼料用米や麦、大豆を作るほうが有利だと踏んで、転作が進んでいるらしい。 ▲だが、食料の安全保障に備えるならコメも小麦も家畜の餌も、可能な限り国内で作るに越したことはない。耕作放棄地は里山の至るところにある。自家用米を含めて、フル活用できる仕組みがほしい。 ▲あすは1年で最も昼が長い夏至。田植えがピークを迎え、耕作放棄を逃れた田んぼの上を風が渡っているだろう。かの知人も、病室で苗の様子を気にかけているかもしれない。(南日本新聞・2022/06/20)

あらゆるデータは「右肩上がり」と言われ、それは「成長」「発展」の表れであり、指標であると固く信じられていました。ほんとにそうかどうかは疑わなかったのです。ごくは学生時代から「経済成長」という表現を使わなかったし、それはいらぬ誤解を与えると思ってきました。経済は成長もしなければ、伸長もしない。それは規模の拡大であり、あるいは規模縮小にすぎないのです。自動車生産台数が年間1千万台だったとして、翌年に千百万台生産できれば、十パーセントの「成長」だという。嘘つけと思っていたし、今でも変わりません。増えるか減るか、現状維持か、それだけです。月給が一割上がるとは言いますが、それは増えることを指しているのであって、「成長」などとは無関係なんですね。当たり前のことを言っています。いまや「右肩上がりは」「国の負債」「人身の惑乱」であり、ロシアの大統領の「右肩上がり(あるいは左肩上がりか)」だけです。ろくなことはない。ものみな「右肩下がり」とは、事態や現象が縮小化しているということです。

縮小はシュリンクを指します。いまでもときに「シュリンクフレーション(shrinkflation)」といわれることがある。内容量を少なくして値段を下げない、苦肉の策です。おそらく、この社会ではこの先に生じてくるのは、まず「シュリンクフレーション」であり、その先には本物の「シュリンク(縮小化)」でしょう。まず第一は人口減少です。出生数と死亡数の単純な計算で示されます。外国籍の人間を日本社会に受け入れて、人口数を維持しようというのは、まちがいなく「シュリンクフレーション」です。それも悪くはありませんが、若者が大激減して高齢者が大量に残される社会に、喜んで参入する人がそれほどいるとな思われません。(左写真は豊洲地区「限界集落化」:https://biz-journal.jp/2018/04/post_22939.html)
大都市への人口集中は、その過程で、地方都市の規模縮減であり、地方の山間地などは限界集落化が著しく拡大しています。今では、街中においても。どこかが大きくなれば、どこかが小さくなる、これは不可避の人口移動です。そして人口が増大した都会は、やがて、疎外地が増えてきます。田畑をつぶして老人施設をつくるのは、間違いではないでしょうが、生産性の失われた地域で生活を維持するには想定できない苦労が求められます。つまり、都市への人口集中は、都市生活を破壊し、生活困難地にすぐに変えてしまうのです。買い物難民などと、都会のど真ん中に住みながら、その非を鳴らさなければならないのは、どこかに偏りがあるからです。(右写真は新宿区営アパート)

際限がないのでここで止めておきますが、都市化(文明化)は、やがて田舎化(野蛮化・文化化)を指すでしょうということ。地方(野蛮)から都市(文明)へと、ひたすらに突き進んできたのは明治以降の高々百五十年でした。今は、流れは逆行して、文明化や野蛮化へとひたすら走り始めているのでしょう。「右肩下がり」は、あるいは人間の「正気」を取り戻してくれるのかもしれない。人間の生活範囲は「縮小」するのです。人間そのものの「縮小」を伴わないはずはない。(このところなかなか体調が軟(やわ)になって、ぼく自身も「右肩下がり」を実演中です。いづれ縮小が進んで、ぼくは消えてなくなる)
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