
【筆洗】石垣りんさんの詩『ランドセル』。新一年生に語りかけるように<あなたはちいさい肩に/はじめて/何か、を背負う>と始める▼<机に向かってひらく教科書/それは級友全部と同じ持ちもの/なかには/同じことが書かれているけれど/読み上げる声の千差万別/入学のその翌日から/ほんの少しずつ/あなたたちのランドセルの重みは/違ってくるのだ>。重みが違ってくるのは、子どもも年相応に何かを背負いながら生きていくためだろうか▼比喩的な「背負うもの」でなく、現実のランドセルも重いようだ。キャスター付きフレームに取り付け、キャリーケースのように運ぶ新商品「さんぽセル」が人気という。小学生が発案した▼教科書が厚くなって荷物が重くなり、文部科学省は四年前、一部を学校に置くなど工夫し、負担を減らすよう各教育委員会に通知したが、改善したのだろうか。最近はタブレットを持つ子もいる。体育用品を扱う企業「フットマーク」が昨秋に発表した小学一〜三年生千二百人対象の調査では、約九割が重いと感じ、ランドセルの重さは平均約四キロ。肩や腰などが痛くなった子もいた▼先の詩はこう続く。<手を貸すことの出来ない/その重み/かわいい一年生よ。>▼独り立ちを願う言葉だろうが、現実の重さ軽減には手を打たねばなるまい。子どもに限らぬ話だが、何でも背負うとつらい。(東京新聞・2022/06/17)
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ランドセルの記憶はまったくありません。通学時、教科書などはどうしていたのか、ほとんど覚えていないのですから、どうかしています。肩掛け鞄は、もちろん中学校に入ってからでしたから、きっと「風呂敷」だったのではないかと想定します。時には「紙袋」などを利用していたかもしれない。ぼくは割合に風呂敷はよく使った方で、いまではまったく利用しませんが、戦後すぐの時期は何かと便利にしていますた。風呂敷大好き人間だったと言ってもいいほどですが、「大風呂敷」だけは嫌いでした。学校では必ず「ランドセル」と決まっていたわけではないでしょう。小学校を卒業するまで、ぼくは三つの学校に通いましたが、いずれにもランドセルを背負った記憶はくっついてはいないのです。ようするに、通学には「ランドセル」というのは「みんながランドセル」という全国を席巻した迷信が「習慣化」「伝統化」されただけであって、よほどの事情がない限り、何を使用しても構わないということです。その慣習化になじまなかった人間もいたのです。でも、ぼくの小学校時代でも風呂敷派はほとんどいませんでしたね。その理由はよく変わりません。こんな便利は堤物、隠しものはないと思っている。落語には「風呂敷」そのもののネタがって、夫婦の喧嘩のタネまでも隠してしまう。

「みんなランドセル」という背景には何が考えられるのか。「制服」「制帽」「制鞄」(制靴)、この三点セットなら、まずは陸軍でしょう。もちろん、これは自己負担ではなく、天皇からの賜わり物です。すべてが規格化され、均一化されていました。軍靴を配られたが靴が小さかったので、「履けません」と申告したら、「踵(かかと)を削れ」と言われたなどという話がかなり残されています。学校は軍隊と双子というか、弟分に当たりますから、きっと(自己負担して)、背嚢(軍隊用ランドセル)が全員にたいして使用が義務付けられた(のではありませんが、使わねばという、忖度や意向を受けたのでしょうか)。いわば「同調圧力」の証明のような決められ方、これは今でもまったく同じではないでしょうか。ランドセルでなければだめというところはなさそうですが、みんなの気持ちがランドセルに向いてしまっているのです。「一億一心」で、まるで教育委員会と鞄業者の共同作業のようでもあります。これは、学校教育においても、あらゆる場面に垣間見えてきますね。癒着というか、結託というか。

石垣さんの「ランドセル」の内容も、「詩」として吟味したものですが、ぼくの自分の経験からなるほどという合点はありませんでした。詩の内容には、本当に納得させられるというか、「その通り!」と手を打ちたい気がします。「教科書」はみんなに同じものですが、「同じことが書かれているけれど 読み上げる声の千差万別」は、入学以来、日が経つにつれて大きくなる。そうであってほしいし、そうであるのが学校における教育の「いい方向」なんだと願いながら、さて、石垣さんの考えらる・感じられるような道を学校は取ろうとしてきたか。それぞれが鞄の中身を自分流に図っていくのが学校であり、それを重くも軽くもするのが「生自分らしくきる」ということ(左写真は自衛隊の「背嚢(はいのう)」)
「手を貸すことのできない その重み」と詩人は語られています。誰も介入できない貴重な仕事に「手を貸すものが、後を絶たず」で、「重み」も「経験」もあったものではなくなってしまいました。学校教育のかすかながらの「よりどころ」、「貴重な経験」の「その重み」は、今では一編の詩の中にしか、痕跡を残していないとすれば、何とも悲しいことではないでしょうか。ああ、ランドセルよ!、おまえもまた、商いの餌食にされてしまったのだなあと、古典的風呂敷派は悲嘆することいくばくか。

ランドセル 石垣りん あなたは 小さい背中に はじめて 何か、を背負う 机に向かってひらく教科書 それは級友と全部同じ持ちもの なかには 同じことが書かれているけれど 読み上げる声の千差万別 入学のその翌日から ほんの少しずつ あなた達のランドセルの重みは 違ってくるのだ 手を貸すことの出来ない その重み かわいい一年生よ






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「さんぽセル」開発の小学生 大人の批判に“新たな反撃”…総理や校長らにプレゼント(https://news.yahoo.co.jp/articles/020a01f6481ced11362cd72405a54213df3d259)
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ぼくはランドセル無用派です。そんなものはいらない。だからそれに代わる「さんぽセル」こそ、今の子どもに必要なんだとも思いません。毎日重い荷物を背負わされるという苦行、それはまるで学校教育の現実をいやおうなく示していると思われます。「人生」そのものを表していると、高村光太郎なら見ていたでしょうね。中学校に入ってから、ぼくは「手ぶら」で通学することにしました。教科書は別の組の友だちに借りる。それで「何不自由あろう」ということでした。「宿題など、どこ吹く風」の時期でしたから、この「てぶら登校」「手ぶら下校」は快適でしたが、やがて教師の癇に障ったと見えて、ぼくはきつく仕返しをされました。それでも「手ぶら通学」の精神は衰えず、高校でも大学でも続けていましたね。(重たい荷物は個人ロッカーを用意して、そこに保管しておけばいいんじゃないですか)

みんな同じ教科書だったら、一冊(大きなモニター)あれば、それで十分ではないでしょうか。教育のIT化とか、ICT化とかいう割には、旧態依然というか、古色蒼然としている、この学校教育の「だれも手を貸すことの出来ない 内容のないその重み かわいくない教育界の兵(つわもの)どもよ」と、学ぶことの大事さをこそ、君たちは問いたださなければならないのだ。長田流に「世界は一冊の本」ならば、「教科書は一冊(世界)の漫画(本の本)(硬軟両様あり)」(であってほしい)であるのが本来の姿なんでしょうな。
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