「屈服させられることに我慢できなかった」

 【談話室】▼▽コロナ禍が少し静まってきたことから久しぶりに仕事で東京に出かけた。都内で電車に乗ると週刊誌の中づり広告は姿を消し、デジタルの広告が目立った。昼間でも結構混雑している。大抵スマホに目を落としている。▼▽ある詩を思い出した。満員電車を舞台に乗客の娘の心模様を描いた酒田市出身の吉野弘さんの「夕焼け」。娘は立っていたお年寄りに相次いで席を譲ってあげる。また別のお年寄りが近づく。3度目は譲らなかった。だが表情は曇り下唇をかむ。美しい夕焼けも過ぎていく。▼▽この光景について吉野さんはある対談で語っている。東京・丸ノ内線で実際見たシーンが基になっているそうだ。後楽園から池袋の方へ出ると左側に富士山がパッと見えて夕焼けがきれいだったという。郊外の沿線風にして自宅ですぐ書き上げた。その娘を褒めたかったと。▼▽作者は、優しい心の持ち主を「受難者」と表現する。人の辛(つら)さに敏感な娘は席を譲るのをやめたことで持ち前の優しい心に責められたか。そんな解釈が過(よぎ)った。今は多くがスマホを使う。座って下を見ながらも、娘のように席を譲るべきか悩んでいる人もいるのではないか。(山形新聞・2022/06/14)

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 その「夕焼け」です。詩の情景を載せ走行していた「丸の内線」は、ぼくが上京以来、ほぼ毎日のように乗っていた地下鉄(電車)でした。そのほとんどは本郷三丁目から銀座・赤坂・四谷・新宿方面でしたが、ごくまれには「池袋方面行き」に乗ることがありました。後楽園・茗荷谷・池袋への乗車時間はものの十五分ほど。ぼくは、この茗荷谷あたりから江戸川に向かって、しばしば歩いたものです。東五軒町や石切り場し、あるいは大曲に賛同坂など、それなりに歴史を感じさせる街々をよく歩きました。本郷から大学まで、一時間くらいはかかったか、大塚や関口町などを通りながら、はるか新宿の高層ビル街の彼方に消えかかる日没風景は、何とも幸せな気分させてくれるのでした。今から六十年近くも前になりますから、都内といっても「長閑」なものだった。(それ以降、急速に都会の人情が荒(すさ)んでいきだしたのは「東京五輪」(64年開催)直後からで、その荒び方は一向に改まることはなかった。吉野さんの詩も、おそらく、その時期の作品ではないでしょうか。この時期、殺風景な首都高速道路建設が佳境に入っていた。よく、鴎外の「普請中」という小説を頭に浮かべていました。

 お年寄りや身体の不自由な方に席を譲りましょう ー このような「標語・運動」がいつ頃から始められたのか、記憶に残っていません。ぼくが都電(厩橋線)や丸の内線に乗り出したころはまだ始まっていませんでした。この「小さな(でも、いらない、余計な)親切運動」が導入されたとき、多くの人はあるいは何でこんなことをするんだという感想を持ったと思う。ぼくはある時期には電車に乗っても、決して座らないと決め込んでいた時がありました。「何でお前が座ってるんだよ、席を譲れ」といいたそうな人々が溢れかえっていたからだと思う。この何年間は、まず電車に乗りませんから、どういうことになっているのかわかりませんが、「どうぞお座り下さい」と席を譲られることがあるだろうか。それを、ぼくは感謝しつつ受け入れることがあるかどうか。まず、それはないと確信しています。誰だって座りたいから座っているので、わざわざ席を譲れよ、この野郎といわぬばかりの社会的分断を促すような風潮は感心しませんから。街中のいたるところに、「老人を大切にしましょう」という看板が張り巡らされている町は、いったいどんなところでしょうか、地獄の一丁目かなあ。

 八十や九十でも立っていたい「老人」もいるだろうし、若くても座ることが必要な状態にある人もいる。だから、まるで交通標識のように、立て・譲れ・座れというような指図は、実はおせっかいの極みのような気もするのです。これは「道徳」「倫理」のごく初歩問題であって、交通ルールの範疇には入らないのだ。一旦停止、左折禁止、あるいは、あおり運転禁止などなど、まるでそんな状態が社会の人間の住む中心で起こっているような気配です。やがて席を譲らなかったから、減点一の一万円の罰金だとか。いやだねえ。「相身互い身」をここでも持ち出したくなります。「お互いさま」という厚情がなくなったから「席を譲りましょう」ではなく、「年寄りや身体の不自由な者に席を譲れ」という押しつけがましい社会通念が横行したから、「お互いさま」という「厚情」は顔を赤らめてどこかに行ってしまったのだ。

 運動の初めは「席を譲りましょう」「少しばかりの善意で、他者も幸せに」程度でしたが、やがてそれは「優先席」になり、「専用席」となっているところもでてきました。そしてついには「(社会的弱者専用)指定席」となるのはお定まりです。いやな風潮と再び言いたいですね。「やさしい心の持ち主は いつでもどこでも われにもあらず受難者となる」と吉野さんは「娘」の側に立つ。どうして「やさしい心の持ち主」を「受難者」にしてしまうのでしょうか。ここまで来て、ぼくはたんに席を譲る、席を立つという問題ではなく、その根底にもっと深い、入り組んだ人間の感情がさまよっていると考えてしまいます。「優先席」と書いてるから、あるいは書いてないから、どうだというのか。たかが「座席」一つではないですか、とぼくは気持ちが昂るのを抑えられなくなりました。「年寄りは座るもの」で、若者は「立つべきなんだ」という、暗黙の了解でもあり、公然たる社会ルール(規範)にもなっている、その織り合わされた糸の目から、何かざらざらした砂のようなものがこぼれ落ちてゆくようです。

● 吉野弘(よしのひろし)(1926―2014)=詩人山形県酒田市生まれ。酒田市立商業を卒業、石油会社に勤める。1952年(昭和27)『学』に載った『I was born』で注目される。これを機に『(かい)』に参加。1957年、第一詩集消息』を刊行。以後『幻(まぼろし)・方法』(1959)、『感傷旅行』(1971)、『(ひ)を浴びて』(1983)、『夢焼け』(1992)などの詩集を出した。詩はやさしい文体で日常のなかの生の不条理、またそれへの愛を歌ってナイーブ。機智(きち)にも富む。エッセイ集『詩への通路』(1980)や詩画集『生命は』(1996)などの著書もある。1971年(昭和46)『感傷旅行』で読売文学賞、1990年(平成2)『自然渋滞』(1989)で詩歌文学館賞を受賞。[安藤靖彦]/『『吉野弘詩集(現代詩文庫12)』『続・吉野弘詩集(現代詩文庫119)』『続続・吉野弘詩集(現代詩文庫123)』(1968、1994、1994・思潮社)』▽『小海永二著『現代詩の鑑賞と研究』(1970・有精堂出版)』▽『清岡卓行著『抒情の前線――戦後詩人十人の本質』(1970・新潮社)』▽『『吉野弘詩集 陽を浴びて』(1983・花神社)』▽『『花神ブックス2 吉野弘』(1986・花神社)』▽『『詩集 自然渋滞』(1989・花神社)』▽『『詩集 夢焼け』(1992・花神社)』▽『『吉野弘全詩集』(1994・青土社)』▽『谷口幸三郎・絵『詩画集 生命は』(1996・ザイロ)』▽『八木祥光・写真『そしえて写真詩集 木が風に』(1998・そしえて)』(ニッポニカ)

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 この「席を譲ろう」運動を見ると、ぼくは一人の女性を思い出します。詳細は省きますが、アメリカの黒人女性・ローザ・パークス(1913-2005)です。アメリカにおける「公民権運動の母」とも讃えられる人でした。黒人は白人に「無条件に」席を譲らなければ、逮捕される時代があったのです。今だって、その「残滓」「名残り」は消えていないのがアメリカです。繰り返し言っているように「いかにしてアメリカを人権国家にできるか」「デモクラシーはアメリカに育たないのはどうしてか」、その問題のルーツはいたるところにあり、いまだに根を張り続けているのですね。

 「Black Lives Matter」は決してアメリカだけに生じている出来事ではないし、その問題を抱えていない社会はいまだ地上に存在したことはないのです。

 以下はWiki.からの引用です。吉野さんの「夕焼け」とは趣がまったく異なりますが、どうしても触れてみたくなったのです。「黒人だから、そこをどけ」というのと、「年寄りに座席を」という問題は趣旨は違っているようでいて、実態は変わらないんじゃないですか。ある時代の、ある社会の特定の観念や価値観の「強制」であり、「押し売り」です。制度や法律になじまないものを決めるのは「社会的多数」であり「権力側」であることは間違いないでしょう。席を譲るという、たったそれだけのものを、「権利(譲られること)」や「義務(譲ること)」にしてしまう時代や社会は貧相であり、人権感覚は皆無といってもいいでしょう。(本日は吉野さんの素敵な「夕焼け」で一丁上がりと行きたかったのですが、何よりもローザ・パークスについて語りたくなったのです)(「夕焼け」やその他の吉野さんの詩については、後日に)

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 「当時、アラバマ州はじめアメリカ南部諸州にはジム・クロウ法Jim Crow laws)と呼ばれる人種分離法が施行され、あらゆる場所で黒人と白人は隔離されていた。公共交通機関のバスでも人種隔離が実施され、黒人席と白人席は制度上明確に分けられていた。1955年12月1日18時ごろ、当時42歳のローザは、百貨店での仕事を終えて帰宅するため市営バスに乗車した。白人専用の席はバスの前方にあり、その次の列から後方が黒人の席だったが、運転手は境界を後方に移動することができた。法にはなかったが、白人の座席が足りないときは境界を移動して、黒人を立たせるのが習慣だった。ローザは黒人席の最前列に座っていたが、次第に乗車して来る白人が増え、立って乗車せざるを得ない白人も出てきた。このため、運転手ジェームズ・F・ブレークは境界を一列ずらし、座っていた黒人4名に立つよう命じる。3名は席を空けたが、ローザは立たなかった。ブレイクがローザのところにやって来て「なぜ立たないのか」と詰問し席を譲るよう求めたが、ローザは「立つ必要は感じません」と答えて起立を拒否した。(右上写真ローザ。左の男性は若い時のMartin Luther King Jr.氏)

 1987年に放送されたテレビ番組で、ローザは「着席したままだった私に気付いたブレイクがなぜ立たないかと訊ね、(私は)『立ちません』と答えました。するとブレイクは『よろしい。立たないんなら警察を呼んで逮捕させるぞ』と言ったので、私は『どうぞ、そうなさい』と答えたんです」と述懐している。/ 1992年に出版された『My Story(『ローザ・パークス自伝』』においても、ローザは「疲れていたから立たなかったのでは」との指摘を「普段と比べて疲れていなかった」と否定し、「年寄りだったから立たなかった」「若者に対する差別だったのでは」との批判に対しても「まだ42歳で若かった」と反論。「屈服させられることに我慢できなかった」から席を立たなかったのであり、単なるエゴではなく人間としての誇りを侵害されたため席を立たなかったのだと述懐している。(Wikipedia)

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 黒人だから白人に席を譲るのが当然だという理不尽さ。それに比べて「老人や体の不自由な方に席を譲りましょう」というのは、法律でも条令でもなく、各個人の「善意(というものがあるなら)」に委ねられた「親切さ」「互譲精神」だったといえそうです。しかし、やがて運動が広まれば、「席を譲らないのはけしからん」となるのは見え透いています。そこへ「標識」「表示」が掲げられているのですから、「おい、この看板が見えないのか」といいたくなる人が続出するのも肯(うなず)ける? 彼女の「屈服させられることに我慢できなかった」人間としての誇りを侵害されたため席を立たなかったのだ」という「矜持」、いや「自尊心」というべきですが、そのような「プライド」はどこから出てきたのか、彼女の中でいかにして育っていたのか。彼女は母親に育てられた。苦労して学校に通い、彼女はいつでも職業についていた。二十歳過ぎに理容師だった男性と結婚、彼の「人権」意識も大きな影響を彼女に与えたはずです。夫のレイモンド・パークスは「全米黒人地位向上協会(NAACP)のメンバーだった。(詳細は「自伝」等を参照してください)

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 このことについても、どこかで触れました。アメリカ社会で「黒人暴動」「黒人暴力」が起こり続けなければ、アメリカは今よりももっとひどい状況に苦しんでいたのではないでしょうか。「暴力」は、理由の如何を問わず認められないと、いったい誰が言うのか。暴力が事態を変えることはどこにでも見られたことだし、その暴力こそ、実は人間の「最後の砦」だともいえるのです。(あえて誤解されそうな言い方をします)力を持たない、無力な人間たちは、権力の意向に従う限りで、生きるための最低限の「生存」をしか認められてこなかった。人間らしく生きるというのは、途方もない願いであった時代は、ある種の社会層に属する人々に、いつでも認められる、尊厳を踏みにじられる状態だったのです。

 パークスは「黒人用」の最前列に座っていた。そこに白人が乗り込んで、その席を譲れと命令された。「当時42歳のローザは、百貨店での仕事を終えて帰宅するため市営バスに乗車した。白人専用の席はバスの前方にあり、その次の列から後方が黒人の席だったが、運転手は境界を後方に移動することができた。法にはなかったが、白人の座席が足りないときは境界を移動して、黒人を立たせるのが習慣だった。ローザは黒人席の最前列に座っていたが、次第に乗車して来る白人が増え、立って乗車せざるを得ない白人も出てきた。このため、運転手ジェームズ・F・ブレークは境界を一列ずらし、座っていた黒人4名に立つよう命じる。3名は席を空けたが、ローザは立たなかった。ブレイクがローザのところにやって来て「なぜ立たないのか」と詰問し席を譲るよう求めたが、ローザは「立つ必要は感じません」と答えて起立を拒否した」

 「着席したままだった私に気付いたブレイクがなぜ立たないかと訊ね、(私は)『立ちません』と答えました。するとブレイクは『よろしい。立たないんなら警察を呼んで逮捕させるぞ』と言ったので、私は『どうぞ、そうなさい』と答えたんです」「ブレイクは警察に通報し、ローザは市条例違反で逮捕された。ローザは「どうして私が連行されるのか」と質問したが、警官は「知るもんか。でも法は法だからな。お前は逮捕されたんだ」と返答した。警察署での逮捕手続きが終わると一旦は市の拘置所に入れられたが、即日保釈され、やがてモンゴメリー市役所内の州簡易裁判所で罰金刑を宣告される。」(Wiki.)

 一人のローザがいなかったら、おそらく、別の時代、別の場所で「もう一人のローザ」が現れたはずです。不条理な、あるいは理不尽な社会的決定(慣行)に対して、たった一人で「異を唱える」、その「たった一人」の存在は、その他にたくさんいることを示しています。きっと、ローザ・パークスは歴史のめぐりあわせで、注目を浴びたのでしょう。しかし、一人のローザがいたということは無数の「ローザ」がいることを明示している、それが歴史の教えるところです。「現状」「体制」にはいくつもの問題点がある、それを不条理ととらえることができるかどうか、どこに分岐点があるのか、そんな問題として、ローザ・パークス問題を、ぼくは考えてきました。「夕焼け」の一人の娘さんの「受難」につながる問題ではないでしょうか。

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投稿者:

dogen3

「上を思えば限りがないと、下を見て咲く百合の花」になれるものなら、という想いです。それこそ、「高嶺の花」ですが。「昨日は俗人 今日は僧、生涯胡乱(うろん)これがわが能」と自称した一休さんは、一面では「相当な人物」だったと、歳をとるとともに思わされています。