
「レッテル貼り」ということ Aさん(八十五歳、男性) 「べらぼうめ!東京大学へ行ったら、若い男 ― ありゃあどう見たって医者じゃないよ ― が出て来やがって、今日は何月何日だとか、春夏秋冬のどれだとか、100から7引けだとか、たてつづけにいばった口ききやがって、あっしゃあ腹が立ったから、はなっからずーっと黙っててやったら、どうでえ、先生、あとでかかあを呼びつけやがって、相当ボケが進んでいる。もうなおらねえ、なんてぬかしやがったとさ。あのすっとこどっこい!ひでえ野郎だ!なにが東大だ!火でもつけてやりてえよ。あっしゃあ、もうあんなところはもうまっぴらだよ」(中略)/ 医師はしばしばこの種の過ちをおかす。一個の人格をもった人間を、対象化し、そこから「一般的な症状」を抽出しようとする。その過程で、「患者」を傷つけていることへの医師の反省はない。痛みがない。

「まず患者を傷つけないこと」から、医療ははじまる ― と古人は教えたが、それは画餅と化している。/ 今や、現代医療は、患者を一人の人間としてさえ捉えようとしない。(浜田晋『老いを生きる意味 精神科の診療室から』岩波現代文庫版)
この部分は、すでにどこかで触れています。今日も実態は少しも変わっていないですね。最近、ある病院でその「実際の光景」を見ましたから。以前よりもひどい扱いをするようになっているんじゃないですか。一〇〇から七を引け、さらに七を引け、そこからまた七を引けと、理学療養士(あるいは検査技師)の女性がすました顔でやっていた。こんな滑稽な戯画を真面目にやるのですから、被験者以上に検査をする側をぼくは疑ってしまいました。
浜田さんは、以前には東大病院や松沢病院に勤務され、その後に台東区上野で精神科の医院を開業されてきた医師です。ここに浜田さんの言葉を引用したのは他でもありません。医療・病院と教育・学校はともに、近代産業社会が成立したときに生みだされたもので、しばしば両者の同質性が指摘されているからです。産業と工場、処罰と監獄、武力と軍隊。これらも同じように近代化にともなって導入された、万人のためのマニュアルに基づいたシステムでした。すべてを「平均化」し、偏差の範囲で人間の行動の「正常性」を限定するという手法ではなかったでしょうか。

浜田さんの診療室にやってきたAさんが語る医者らしい人(「あのすっとこどっこい」)とは老人にとってどのような存在だったか。一個人よりも症状のほうに興味をもつ、そしてともかく病名を判断することになによりも重きを置いている、そんな姿がみえてきます。そして、この患者は何々病だというレッテルをはるわけですね。それさえできれば、あとはマニュアル通りに投薬や治療に専念するという具合でしょう。これは個人を「一般」「平均」という底なしの海に放り込むようなものです。「現代医療は、患者を一人の人間としてさえ捉えようとしない」というのも道理で、人間をタイプや症例に置き換えることが彼/彼女の仕事となってしまっているからです。(要するに、「この人」はどんな人か、それをいろいろな角度から図る(観る・)診るのではなく、偏差値が高いか低いか、血糖値が高いか低いか、そのように本人の外表とは言いませんが、数値化できる部分で、「本人」を判断してしまう。それでいいはずがないと、ぼくは思うのですが。
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●浜田晋(はまだ-すすむ)(1926-2010)= 昭和後期-平成時代の精神科医。大正15年10月23日生まれ。都立松沢病院,都立精神衛生センター勤務をへて,昭和49年東京上野に浜田クリニックを開設。外来の精神科医療をおこない,地域にひらかれた診療をめざした。平成22年12月20日死去。84歳。高知県出身。東北大卒。著作に「老いを生きる意味」など。(で示達版日本人名大辞典+Plus)
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教育と医療、学校と病院。この両者はとても似ている、というだけでは足りない。根本の思想というか原理はいっしょだといいたいんです。それぞれの業務(教育と医療)を独占していること。人間(個人)を制度にあわせて作りかえてしまうということ ― 例えば、B君を〈生徒〉に、Cさんを〈患者〉にというように ―。さらにそのなかに収容された者を観察・管理し、マニュアルにしたがって加工(矯正)を施すこと。そして、さらに…。
教師と医者についてもこのようなことがいえます。「まず患者を傷つけないこと」から医療は始まるという古人の言が教育の世界にもあったかどうか知りませんが、「生徒を傷つけないこと」から教育が始まるのだというべきでしょう。そして、生徒を傷つけない教育とは? こんなことをていねいに考えていけば、もう一つ、従来とは別種の「教育の流儀」がみえるんじゃないですか。

ぼくは、これまでにも精神科や心療内科といった医療についていろいろな経験をしてきました。医学の素人ではありますが、人一倍、それには関心を持ってきました。今ではほとんどが「薬物投与」「薬物療法」で、それ自体に問題があるというのは控えますが、おしなべて、薬剤効果は著しいものではないのは確からしい。それにはいろいろな理由が考えられますが、似たような「症状」を示していても、その個体固有の特性に支配されていることがほとんどですから、ある患者に効果があるからと、他の患者にも効くとは限らない。ぼくは医者は好きではないし、可能な限りそれを避けてきました。風邪を引いたかなと思えば、何をおいても「睡眠」という方法にすべてを任せるのです。熱が出るということは、体内に侵入した細菌やウィルスと身体の細胞が戦っているという緊張関係の表れであり、熱を下げるという手法は、素朴ではあるけれども、もっとも肝要な療法ではないでしょうか。
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上に出できた「Aさん」の事例は、 内科ではあっても心療あるいは精神科の領域に入るものとされ、通常の医療とは異なった処方がとられることがきめて多い。近年、「認知症」「認知機能低下」など、老人性の記憶障害が大きな社会問題となっています。しかし、それはあまりにも深刻に受け取られているきらいがあるようにも、ぼくには見えます。年を取れば「記憶力は衰退する」のは当たり前で、だからといって、必要以上に「衰退」「喪失」を過大に評価するのはどうかと思うのです。今日は何月何日か、あるいは何曜日か、それを知らないことは通常の社会生活では、あるいは障害(差しさわり)があるかもしれませんが、致命的であるのかどうか。もちろん、勘違いや度忘れと、記憶装置の喪失とは根本的に異なります。何月何日ということの意味すら理解できないことは、あるいは何らかの脳内細胞の欠損に起因していることは否定できないからです。

今日は何月何日か。今は春夏秋冬のどれか。ぼくなどは日時の感覚はいちじるしく麻痺しています。今日は何曜なんていつも失念しているし、計算はしょっちゅうまちがえている。それに今日のような季節感が以前ほどには感じられない時代にあって、それを正確にいいあてるのは至難じゃないですか。小春日和は春?それとも冬?こんなことをいってると、「相当ボケが進んでるな、もおなおらねえ!」といわれそうですが、あらためて医者ってなんだ、教師って何者か、と自他に尋ねたくなる。個人を劣等生にし、老人をボケの患者にしてしまう教育や医療とは、いったいなんだろうか?
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ここまでは前置きです。来月の初めに、ぼくは「後期高齢者免許更新」にかかわる「認知機能検査」と講習及び実査訓練を受けることになっています。この手の更新講習と認知機能検査は今回で二度目です。この制度が始まったのは、2009年から。認知機能の低下と運転技能とに密接な相関関係があるかどうか、ぼくは大いに疑っています。高齢者に運転ミスや交通事故が多いことは認めます。それは、しかし、「認知機能低下」と直接結び付くかどうか、十分に証明されていないようです。もちろん、とっさの判断や操作が年齢とともに衰えることは十分の想定されるし、だから運転は限られた範囲でということは理解できます。でも、いかにも高齢になったから免許証を「返上」するのが当然であるという社会の風潮にも納得がいかないこともあります。いろいろな理由(事情」から、運転を続けざるを得ないという人がたくさんいます。ぼくのように山中に住んでいればなおさら、狭い坂道、車と同じ道路を五キ八キロもと歩くのは至難なこと、そんな事情ももちろん配慮されたうえで、「免許所持の有無」を考えていきたいものです。(何月何日を忘れることと「アクセル」「ブレーキ」を踏み間違えることは連動していないでしょう。曜日を失念することは、逆走につながらないのではないですか。
この「認知機能検査」が導入されようとしている段階で、つぎのような記事がでていました。もう十五年も前になります。
認知症:高齢運転者に検査、イラスト見せ質問 免許取り消し、専門医の診断経て

警察庁は12日、高齢運転者の認知症の有無などを判定する簡易検査の実施概要をまとめた。高齢者の免許更新時に年月日や時間を尋ねる簡単な質問やイラストを使った記憶力テストなどを行い、本人の過去の事故歴などを参考にして認知症の有無を検討、専門医の診断などを経て、認知症と断定されれば、免許取り消し、停止などの処分を行う。今月18日に初会合を開く有識者懇談会で検査の対象年齢など細部を詰めたうえ、年内に結論を取りまとめる。/ 検査は20分間のペーパーテスト式で、年月日や時間を答えさせたり、イラストを見せて一定時間経過した後に再び尋ね、記憶力を問うなどの内容。検査には免許試験場の職員などが立ち会う。
検査の総合得点により高齢者を「認知症の疑いのある者」「認知症に至らないが認知機能が低下している疑いがある者」「認知機能が低下している疑いがない者」の3区分に分類。さらにこの検査と過去の事故歴などから認知症の疑いがあるとされた高齢者には、専門医の診断などを経て、道路交通法に基づき、免許取り消し、停止などの処分を行う。また、認知症に至らなくても、認知機能が低下している疑いがある高齢者には、更新時の講習で本人が認知機能が低下していることを自覚したうえで安全運転を行えるよう徹底する。【遠山和彦】(毎日・06/10/12)
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● 認知機能検査(にんちきのうけんさ)=2009年(平成21)から、日本では75歳以上の後期高齢者は運転免許更新の際、講習予備検査という名目で簡易な認知機能検査を義務づけられた。記憶力や判断力をみる30分程度の筆記検査で、「時間の見当識」(検査当日の年月日、曜日と時間)、「手がかり再生」(16種類のイラストを記憶し、何が描かれていたかを答える)、「時計描写」(時計の文字盤を描き、そこに特定の時刻を表す針を書き入れる)の3項目検査がある。検査を受けると「認知症のおそれあり」(第1分類)、「認知機能低下のおそれあり」(第2分類)、「認知機能低下のおそれなし」(第3分類)のいずれかに判定される。2017年3月に認知機能検査を強化した改正道路交通法が施行され、認知機能検査のあと、それぞれの分類に応じて計2時間程度の高齢者講習を受けることになる。第1分類と判定された人は医師受診が義務化され、認知症を発症していれば免許取消し、または停止処分となる。第2、第3分類でも指定場所一時不停止、信号無視、逆走などの18の違反(特定の違反)をすると、次回更新時をまたずに臨時認知機能検査を義務づけられ、医師が認知症と診断すれば免許取消しなどの処分を受ける。警察庁の統計によると2018年に認知機能検査を受けた人は約216万5000人で、このうち約5万4700人が第1分類と判定された。2017年から2018年にかけて第1分類と判定され免許の扱いが決まった人のうち、約5%が免許取消し・停止処分、約45%が自主返納、約15%が免許失効となり、継続して免許をもっている人は約35%であった。(ニッポニカ)
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