I want to be an umbrella on a rainy day

 雨の日の友達「雨の日の友達」という言葉がある。好調な時は多くの人が周りに集まってきてくれる。だが、何かにつまずいてうまくいかなくなると、潮が引くように離れていく人もいる。「雨の日の友達」とは晴天から一転、突然の雨に降られた時、そっと傘を差し出してくれる友のことをいう◆きのうの本紙の地方面で、橋の欄干から飛び降りようとしていた男性に声をかけ、人命救助に貢献した女性に感謝状が贈られた、という記事が目に留まった。男性は20代。事情は想像するしかないが、「孤独」を感じていたのかもしれない。女性の言葉の中身より、心配してくれた行為そのものがうれしかったのだと思う◆ポジティブ思考は大切だが、落ち込んでいる人や悩みを抱えている人に、ポジティブを押しつけてはいけないという。悩みへの理想的な答えは「一緒に解決策を考えよう」という言葉。つまりは「寄り添う」こと◆誰の心にも涙はつきもの。でも、一緒に泣いてくれる人がいれば、不思議と悲しみが和らぐ。つらい時、「誰かのために」と思ったら頑張れるし、「誰かに思われている」と感じた時も希望が生まれる。女性の声かけはきっと、「雨の日の傘」になったのだろう◆人生山あり谷あり。晴れの日ばかりではない。できれば、雨の日にさりげなく傘を差し出せる人になりたいと思う。(義)(佐賀新聞・022/06/08)

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 このコラムを読んでいて、さて、ぼくは小さいころ、傘はどうしていたのかが気になりだしました。もちろん雨の日もあったわけで、そんなとき、ぼくは傘をさしていたのだろうか、それとも雨合羽を着ていたのだろうか。とんと思い出せないのです。ひょっとしたら、雨の日だって、ぼくは傘をさしてはいなかったのではないかと疑ったりしているのです。土砂降りならいざ知らず、少しくらいの雨なら「濡れても平気」と決め込んでいたのだと思う。戦後間もない時代でしたから、西洋風の雨傘なんかは珍しく、ほとんどが「唐笠」「番傘」だったと思います。それでも、ぼくには学校の行き帰りに番傘(蛇の目傘)をさしていたという姿が思い出せない。ぼくには、小さいころに「長靴」というあだ名がありました。おそらく、何時だって長靴をはいていたからだと思います。川あり、山ありの遊び場には事欠かなかったから、何時だって長靴で飛び回っていたのでしょう。(左上は七尾市熊木小学校・ぼくがしばらく在学していた学校。七十年以上も前になりました)

 「あめふり」という唱歌はよく覚えていますし、何時でも歌っていたような気がします。しかし、この歌で描かれている親子や「柳の根方で泣いている」子どもなどは、いませんでした。ということは、雨が降ったら、学校は休みだったのかもしれませんね。そんなノドカというか、思い切って、子どもの興味中心の学校生活だったようにも思われている。ぼくの性分として、傘はまず持ち物ではなかったから、何時だってなくしていたし、いよいよなら、濡れネズミでもかまないという覚悟があった。

 百円ショップ時代が来ると、まず最初に「ビニール傘」が思い出されます。これまでに何本か買いましたが、三日と保存・保持していたことはないほどに、どこかに忘れることがほとんどでした。だから、小学校時代はもちろん、中学生になってもレインコートに長靴が、雨の日の定番だったようです。いつのころからか、レインコートが見られなくなり、長靴姿も、特に都会では見られなくなりました。それにはいくつかの理由もあります。水はけがよくなり、雨に濡れる時間が少なくて済むような街の作りになったこと、あるいは地下道や地下鉄が方々に作られたことも一因だったでしょう。

 今では、どこを探しても「あめふり」の景色が見られなくなったのは、時代の変化というよりは、家族が決定的に変貌してしまったからかも。「きみきみ このかさ さしたまえ」(小学生なのに、なんとエラそうにしていますね)「ぼくなら いいんだ かあさんの おおきな じゃのめに はいってく」という景色もまた、この島のある時代のある都市のものだったでしょう。

 番傘とか唐笠とか言います。いずれ「唐来物」だったわけで、やがて和紙に油をしみこませて丈夫なものになってゆきました。今では実に懐かしいものになりましたが、ぼくにはこの「蛇の目」や「番傘」が目に焼き付いて消えません。それだけ、今日とは比較を絶して雨が強烈ではなかったということかもわかりません。この「傘」はなかなかに重いものでしたね。こんな思い傘を小さな子どもがさしているなど、どうも思い浮かばないですね。

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 JR飯田線に「唐笠」という駅があります。ぼくはまだ下車したことはありませんが、天竜川の上流の名勝の地になっているところです。若いころに、ゆっくりと名古屋辺りから電車で旅をしておけばよかったと何度も後悔したほど、この飯田線にはいろいろな思い出が染みついているのです。「設楽(したら)」「恵那(えな)」あたりも、時間をかけて歩き回ってみたかったですね。(ついさきほど、また飯田の後輩が電話をくれました。今週は「うつの再発」で会社は休業しているそうです。まだまだ若い女性です。あまりいい酒(ぼくの好みで言えば)を飲んでいないし、未成年のころから「タバコノミ」でもあります。この人とも「悪縁」というか「腐れ縁」というか、もう出会いの最初から十五年ほども、「うつのはけ口」になってきました。

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● 飯田線(いいだせん)=東海旅客鉄道の線路名称。豊橋(とよはし)(愛知県)―辰野(たつの)(長野県)間195.8キロメートル、豊橋―豊川間のみ複線、その他は単線、全線直流電化。豊川と天竜川の河谷を走り、東海道本線と中央本線を結ぶ沿線には豊川、新城(しんしろ)、飯田、駒ヶ根(こまがね)、伊那(いな)などの諸都市や、鳳来寺(ほうらいじ)山、佐久間(さくま)ダム、天竜峡などの観光地がある。もとは豊川鉄道(豊橋―長篠(ながしの)〈現、大海(おおみ)〉、1897~1900年開業、1925年電化)、鳳来寺鉄道(長篠―川合〈現、三河川合〉、1923年開業、1925年電化)、三信(さんしん)鉄道(三河川合―天竜峡、1932~1937年電化開業)、伊那電気鉄道(天竜峡―辰野、1909~1927年電化開業)の四私鉄によって建設され、1943年(昭和18)国有化されて飯田線となった。1987年、日本国有鉄道の分割民営化に伴い、東海旅客鉄道に所属。佐久間ダムの建設に伴って、佐久間―大嵐(おおぞれ)間の路線が水没し、水窪(みさくぼ)川の谷や大原トンネル(長さ5063メートル)経由の路線に変更された。(ニッポニカ)

HHHHHHHHHHHHH

 ここからが本日の「主題」です。「できれば、雨の日にさりげなく傘を差し出せる人になりたいと思う」というところです。「さりげなく」というのがいいですね。唱歌にあるような「きみきみ このかさ さしたまえ」など、どうして言えますか。さりげなくという風情や心持が失われてしまったのは、北原白秋さんのせいばかりではなさそうですが、この小学校段階からの「男尊女卑」教条、すごいことですね。その昔、勤め人をしているころ、しばしば若い人に尋ねました。「あなたにとって、いい人とはどういう人ですか?」「どういう人がいい人だと思いますか?」と。ところが、ぼくにとって実に意外だったのは、ほとんどの人がなかなか答えられないかったということでした。そんなに難しい「共通一次試験問題」なんかではなかったのに、どうして答えられなかったのか、ぼくには訝(いぶか)しくてならなかった。きっと、それまで「いい人」なんて考えもみなかったか、自分が「いい人になるなら」と考えたこともなかったかもしれない、自分が「いい人」であるというより、ぼくはむしろ「他人」に対して考えてみたかったんですね。「こんなことをする人、できる人が、いい人なんだ」という具合に。

 それが「雨の日の傘のような」、だれかが濡れることをほおっておけない、雨から守ってやりたい、何気なく、赤の他人が思いやれる、そんな気遣いのできる人、それを、ぼくは「いい人」だと考え続けてきました。さらにいえば、困っている人を助けられる人、ぼくはそんな人になれるように生きていきたいと願い続けて、ここまできました。「何気なく」「さりげなく」「人知れず」、そんな雰囲気がこの上なく好ましいように思っているのです。「人命救助に貢献した女性に感謝状が贈られた」というのは喜ばしいことですが、それはむしろ、余計でもあるようなものじゃないですか。「さりげなく」「何気なく」というままでもよかったと、他人事ながら考えたりしています。

 ライオンズクラブや「小さな親切運動」ではなく、「名も知らぬ・名も知られぬ善意」「惻隠の情」が当たり前に他者にかけられる社会、そんな感情によって成り立っているのも「人間の社会」なんだということがわかれば、それで十分という気もします。「相身互い(「相身互い身)」ということですかな。少し場違いですが、「秘すれば花」ということばを思い出しています。「秘すれば花なり、秘せずば花なるべからずとなり。この分け目を知ること、肝要の花なり」(「風姿花伝」)

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「あめふり(雨降り」(北原白秋作詞・中山晋平作曲:大正十四年)(https://www.youtube.com/watch?v=Zu68T2cwuDc)(「蛇の目」傘とは、蛇の目を図案化しているからと称される)

「あめふり」
あめあめ ふれふれ かあさんが
じゃのめで おむかい うれしいな
ピッチピッチ チャップチャップ
ランランラン

かけましょ かばんを かあさんの
あとから ゆこゆこ かねがなる
ピッチピッチ チャップチャップ
ランランラン

あらあら あのこは ずぶぬれだ
やなぎの ねかたで ないている
ピッチピッチ チャップチャップ
ランランラン

かあさん ぼくのを かしましょか
きみきみ このかさ さしたまえ
ピッチピッチ チャップチャップ
ランランラン

ぼくなら いいんだ かあさんの
おおきな じゃのめに はいってく
ピッチピッチ チャップチャップ
ランランラン

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投稿者:

dogen3

 語るに足る「自分」があるとは思わない。この駄文集積を読んでくだされば、「その程度の人間」なのだと了解されるでしょう。ないものをあるとは言わない、あるものはないとは言わない(つもり)。「正味」「正体」は偽れないという確信は、自分に対しても他人に対しても持ってきたと思う。「あんな人」「こんな人」と思って、外れたことがあまりないと言っておきます。その根拠は、人間というのは賢くもあり愚かでもあるという「度合い」の存在ですから。愚かだけ、賢明だけ、そんな「人品」、これまでどこにもいなかったし、今だっていないと経験から学んできた。どなたにしても、その差は「大同小異」「五十歩百歩」だという直観がありますね、ぼくには。立派な人というのは「困っている人を見過ごしにできない」、そんな惻隠の情に動かされる人ではないですか。この歳になっても、そんな人間に、なりたくて仕方がないのです。本当に憧れますね。(2023/02/03)