朝鮮と韓国と日本と(「在日」の問題として)

 私は「朝鮮」籍です。日本には「朝鮮」籍と韓国籍がありますが、韓国籍というのは国籍なんですね。法的にちゃんと認められた韓国国民のひとりなんです。「朝鮮」というのは、日本と北朝鮮の国交がないものだから、「朝鮮」という一つの記号なんです。「朝鮮」籍でありながら北朝鮮を支持する人とそうでない人がいるわけです。北朝鮮と日本が国交正常化した場合に、日本における「朝鮮」籍は自動的に「北」、朝鮮民主主義人民共和国籍に移るようになっております。個人の意志で選択はなされますが、自動的というよりも半分は強制的に「北」の共和国の国籍になっていくという政策を日本政府が取ると思うんですが、その場合に「朝鮮」籍でありながら「北」の国籍を取らない存在が日本に生まれてきます。何千人になるか何万人になるかわかりませんが、たとえば私でしたら、私は北朝鮮の国籍は取らない。「朝鮮」の籍のままですね。韓国籍も取りません。日本籍も取らない。その場合にどうなるか。完全に無国籍の状態が生まれてきます。この場合に、たとえばニューカマーという最近日本に入ってきた人たちと違って、在日朝鮮人の場合は、既に帝国主義時代に「ディアスポラ」のかたちで日本に渡ってきているわけです。それが、朝鮮が、祖国が独立したはずなのに分断状態が続いて、そして日本では挙げ句の果てに「新しいディアスポラ」という存在が生まれるというかなり深刻な事態がいまからはっきりと予測されるわけです。これは、私たち「在日」、新しい少数者だけでなく、日本にとっても国内のエアポケットとして、国際的に大きな問題を孕むことになると思います。(金石範『国境を越えるもの』文芸春秋。2004年) 

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● 金石範(キム-ソクポム)1925- =昭和後期-平成時代の小説家。大正14年8月15日大阪生まれ。韓国済州島での武装蜂起事件(1948年)をえがいた「鴉の死」を昭和42年に発表。長編小説「火山島」で事件を追跡しつづけ,59年3巻までで大仏(おさらぎ)次郎賞,平成10年全7巻で毎日芸術賞をうけた。在日朝鮮人文学の担い手として評論活動も活発におこない,「ことばの呪縛」「「在日」の思想」「国境を越えるもの」などの著作がある。関西大卒,京大卒。(デジタル版日本人名大辞典+Plus)(左写真は毎日新聞 ・2020/4/12 東京朝刊)

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 上に引用した文章は、三十年ほども前に講演のかたちで話されたものです。この中で、「なぜ、日本国籍を取らないのか」という聴衆の質問を受けて、金さんは、次のように答えられています。

 「…難しいんですよねえ。ただ一つ言えることは、何十年も日本に住んでいながら、その何十万人もの人間がその土地に帰化しないというのは、世界でも在日朝鮮人だけではないかと思います。他はだいたい、自分が住んでいるところで国籍を取りますよね」「…海外に行きますと、日本に住んでいて日本の国籍でないというのは、必ず不思議がられるということですね。大体、国籍原理が生地主義ですから、十年も二十年も住めば日本の国籍を取って日本のパスポートを手に来るべきであるのにそうじゃない。世界で も珍しいんですね、在日朝鮮人の存在は」「…だから、国籍は韓国であっても、朝鮮であっても関係ないという人も多い。しかし、日本の国籍は取らない。取った方が生活にも便利でいいしねえ。取らないといろんな面で不便なんだけれども」

 「なぜ、日本では在日朝鮮人はなかなか帰化しないか」(三十年も前の発言です)これに答えられるのはだれでしょうか。もちろん当事者であることはまちがいないのですけど、その当事者にして「難しいんですねえ」といわれるのです。それにはながい歴史の背景があることは事実です。加えて、「日本の差別構造が普通でなかったということ」もあると金さんは述べられます。この発言から、すでに相当の時間が経過していますから、当時とまったく同じ状況が続いているといえないのは当然ですが、しかしそれでは時間がたてば、おのずから「在日朝鮮人」問題は片が付くのか、そして、それはどういう形で片が付くのでしょうか。誰が納得するような「片が付く」のか、それを無視することはできないのです。

 昨日は、かなり前に故人になられた一人の「在日作家(立原正秋)」と目された人の履歴にまつわる事柄の一端に触れました。誰が、どこで生きようが、どこの国籍を持とうが、それは「自己選択」であり「自由だ」と言えるのは、それなりの歴史的な経緯があるからです。誰でもが国籍に関して自由に選択できる条件がそろっているのは望ましいけれど、そうではない事情が影響しており、思うに任せないということもあるのです。現在、ロシアがウクライナを侵略し、領土を奪い、難民を強制的にロシアに連行しているという報道が連日のようになされています。個人の自由意思を剥奪しておいて、国籍にしても居住地にしても、強制的に命令氏に従わせる事態が生じているのです。

 隣国の韓国に、新しい大統領が誕生されました。日本と韓国の新たな時代に向けた「友好」関係を目指すという方向が出されましたが、言うほどに、明らかにそのような事態が作り出せるかどうか、ぼくにはにわかに信じられません。明治以降、この島社会は「脱亜入欧」を国是のようにして、うまくやってきた(ふりを)し、図に乗りすぎて大きな過ちを残したのでした。その後始末がまともになされないままに、「戦後は一貫して」、また「脱亜入米」の姿勢を頑なに維持してきました。その結果、近隣諸国には「外交」というものが全く見られない(求めようとはいない)どころか、かえって「敵対的な」「軍事優先的」国家意識を、極めて悪質な政治家連中が高揚させてきました。多くのも「国民」は、その不誠実な政治家連の尻馬に乗ることを拒まないのですから、情けなくもなります。

 この「落とし前」がどのように付けられるのか、大きな危惧を持っているものです。少なくとも、「在日朝鮮人」問題が、やがて跡形もなくなく消えてしまうという、この国の「入管政策当局」の見通し通りに行くのでしょうか。つまりは、放置しておけば、やがて「在日朝鮮人」は消滅(非存在)してしまうという、それはまさしく、天に唾するごとき政治姿勢でした。そのような姿勢(扱い)で、隣国との野間に大きな問題になり続けてきた懸案を放置するという、そのことに驚きべき頽廃を痛切に感じtレしまうのです。「ほおっておけばいいのだ、我が邦の責任ではないのだから」とでも言っているような不遜な態度がそこに現れているのです。

 戦争か平和か、そうではないく、平和時においても争いがある方が健全だという、当たり前の感覚での人間同士の付き合いと同じように、国同士も交際することが何より互いを尊重することになるのですが。(この問題を、いくつかの視点から、さらにゆっくりと考えてみたいですね)長く続く「在日問題」に、ぼくおよびぼくたちは無関係であるはずがないのです。過去にあった出来事(歴史)は、時間の経過とともに消えるものではないことは、誰もが知っています。それをうまく「忘れること」にし、「忘れたふり」をしている間は、交流も有効も、一歩も進まないことは、ぼくたちがこの七十年、百年の歴史で経験してきているのですが。

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