
人間の「感情」や「期待」「欲望」などは「履歴書」や「経歴欄」には収まらないもので、できれば、自分で好きなように記述するのがまっとうなのかもしれませんね。ぼくたちは、ついついその人となりを知るためにと、「履歴」や「略歴」を見ます。そこで書かれていること(語られていること)は、虚実を取り混ぜて、あるいは場合によっては、虚偽事実ばかりが書かれているのかもしれないし、それで何の問題もないとは言いませんが、本音を言えば、正直に「ありのまま」を書く(語る)というのは、存外に難しいものです。これは、ぼく自身の実感でもあります。今、一人の「(在日)作家」のことにすこしばかり触れようとして、はからずも人生の難問に遭遇したという風情です。いったい、「年譜」というのは、一人の人間の、どういう問題なんでしょうか。ある種の「既成事実」「偏見」を植え付けるもとになっていはしないでしょうか。(これは決して、一個人に限らないことで、企業や国においてもしばしばみられることではあります、歴史の改竄・捏造です)(ヘッダーは慶尚北道=「紀元前三韓の一つだった辰韓の領土であり、三国を統一して千年の王祖と燦爛たる文化を花咲かせた新羅の本土であった」:https://www.gb.go.kr/jpn/page.jsp?largeCode=about&LANGCODE=Japanese)
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昭和二年一月六日朝鮮慶尚北道大邱市の母の生家永野家で出生。戸籍上の届け出は大正十五年一月六日。父は金井慶文、母は音子。父母ともに日韓混血で父は李朝末期の貴族李家より出て金井家に養子にやられ、はじめ軍人、のち禅僧になった。(中略)/ …昭和十四年春、神奈川県立横須賀中学校の入試を受けて合格せしも、三月末、四歳年上の少年の嘲罵を受けて短刀で相手の胸を刺して重傷をおわせ入学をとり消さる。六月、横須賀市立商業学校に編入を認められる。(立原正秋「自筆年譜」より)
立原正秋さん(1926~1980)の死後十年余を経て、親しい友人だった高井有一さんが書かれたのが評伝『立原正秋』(1991)でした。あるとき、生前の立原の自宅に出版社の編集者といっしょに行き、そこで上の「年譜」を見たことがあった。
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「私は冒頭の「父母ともに日韓混血」といふ記載に、強い印象を受けた。これは立原正秋が小説以外の場所で、「混血」の事実を公けにした最初であらう。やつぱりさうだつたのか、と思つた」(高井有一『立原正秋』新潮社刊)

「日韓混血」に強い印象を受けた理由は、それ以前に刊行されていた小説『剣が崎』が主人公と朝鮮との関係を明かしていたからでした。お二人が無二の親友であったかどうかはわかりません。でもその昵懇の友人だった高井さんにも、立原正秋さんはみずからの「素性」は明かされていなかったというのです。誰にもありがちなことでもあると同時に、あるいは自らをも欺くような「人生の波浪」を渡ってきたということなのかもしれません。どうしてか、その理由はなんでしたか。
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「立原正秋が死ぬまで、私は、この年譜の記述が多少の修飾はあるにしても大筋では事実だと信じてゐた。しかし、実際はさうではなかつた。彼の両親は混血ではなく、共に純粋な朝鮮人であつた。李朝末期の貴族李氏と血の繋がりはない。正しい生年月日は、年譜では戸籍上の届け日とされた大正十五年一月六日である。そのほか多くの点で、この自筆年譜は事実と相違してゐる。いくつかの固有名詞の一部が故意に変へられてもゐる。立原正秋がかうありたかつたと願ふ自身の姿を描き出した一種の小説だと言つた方が、むしろ適当かも知れない」(同前)
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父が軍人であった形跡もなかった。また年長者から罵られたので傷つけて「入学をとり消さる」とした横須賀中学校は受験していませんでした。だからそのような傷害事件もなかったことになります。 「日韓混血、李朝貴族の血を引くと称してゐた彼が、実は韓国の庶民の出である事を跡づけて、彼が必死に築いた虚構を暴く形ともなつたが、十六年に及ぶ交遊を通じてずつと抱き続けた親愛の感情は、自づと溢れ出てゐたと思ふ。発表後、主に彼に好意を持たなかつた人たちの中から、立原はあんな男ぢやなかつた、と言ふ声が聞えて来た。これは仕方のない事である。私は、私にとつての立原正秋をしか語らうとはしなかつたのだから」(高井有一『夢か現か』筑摩書房。2006)
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「日韓の歴史の狭間で生涯に六つの名前を持たねばならなかった一生。年譜さえも自ら創作せざるを得ないほど、文学と実人生の間で苛烈な闘いを続けた軌跡」(前掲帯より)
今では想像することさえ困難な一人の「在日」文学者の生き方をわが身につきつけて考えてみるのです。戦後数年して彼は日本人女性と結婚し、日本国籍を取得されますから、その段階からは「在日」という表現は正確なものではなくなります)
わたしたちはなにを誇りとし、なにに苦悩して人生を生きようとしているのか、生きているのか、生きざるを得ないのか、と。

以下、立原さんの「経歴」とされるものを、なんと三点並べてみました。まことに珍しいことかもしれない、それぞれに書かれている「事実」が異なるのですから。どなたの「履歴書」だって、すべてが客観的な事実に基づいているとはいいがたいのが相場ですから、この異動・差異に何事か批判めいたことを言うのは野暮であるかもしれません。それにしても、堂々と「虚偽」「捏造」と判明しているものを、「捏造」そのままを踏襲して「履歴」としているのも、考えてみれば、研究者という存在も、なかなかえげつないこと(食わせ物)ですね。(高井さんの「北の河」は、ぼくにとってはもっとも「秀逸」な短編の一つだと思われます。若い頃にこれを読んで、ぼくにはいささかの文才(天稟)もないことを思い知らされたという意味でも、画期的な作品だといいたいですね。一読をお勧めしたい)
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*参考までに:【立原正秋=経歴は複雑で、1926年(大正15年)1月6日朝鮮慶尚北道(現・大韓民国慶尚北道)安東郡西後面台庄洞に、父・金敬文、母・権音伝の長男として生まれる。名は金胤奎。その後、野村震太郎、金井正秋と名乗り、米本光代と結婚して日本国籍を得て本名・米本正秋、通り名はペンネームの「立原正秋」で、亡くなる2ヶ月前に「立原正秋」への改名が認められこれが本名となった。大酒飲みと美食好みが祟り1980年(昭和55年)8月12日、食道癌のため54才の若さで死去。鎌倉・瑞泉寺に墓所がある。】(Hatena Diary)
● 立原正秋(たちはらまさあき)(1926―1980)=小説家。韓国大邱(たいきゅう)で生まれる。両親は日韓混血、父金井慶文は李朝(りちょう)貴族の末裔(まつえい)である。1932年(昭和7)父は自決、35年母再婚のため親戚(しんせき)に預けられ、37年内地に帰り市立横須賀商業学校を経て、44年京城帝国大学予科に入学したが、病気のため帰国。45年早稲田(わせだ)大学専門部法科に入学したが、作家を志し49年(昭和24)中退した。この間米本光代と結婚、世阿弥(ぜあみ)に傾倒し古典に親しむ。56年処女作『セールスマン・津田順一』を発表後、『薪能(たきぎのう)』(1964)、『剣ヶ崎(つるぎがさき)』(1965)などが芥川(あくたがわ)賞候補となり、『白い罌粟(けし)』(1965)で直木賞を受賞。以後その中世美への愛着を軸とした甘美な虚無感と鮮烈な叙情をたたえた作風は多くの読者を得たが、昭和55年8月12日、食道癌(がん)のため死去。(ニッポニカ)

● 立原 正秋(タチハラ マサアキ)昭和期の小説家 生年大正15(1926)年1月6日 没年昭和55(1980)年8月12日 出生地旧朝鮮・大邱 本名米本 正秋 学歴〔年〕早稲田大学国文科〔昭和23年〕除籍 主な受賞名〔年〕近代文学賞(第2回)〔昭和36年〕「八月の午後」,直木賞(第55回)〔昭和41年〕「白い罌粟」 経歴 昭和6年父が死去、10年渡日、12年母の再婚先の横須賀に移る。25年から鎌倉に住む。放浪生活を続けたあと31年ごろから小説を書き始め、33年「他人の自由」で文壇に出る。36年「八月の午後」で第2回近代文学賞を受賞、41年には「白い罌粟」で第55回直木賞を受賞。そのほか「薪能」「剣ケ崎」「漆の花」「冬の旅」「きぬた」「冬のかたみに」などを間断なく世に問い、特異な作風でベストセラー作家の地位を築いた。39年から「犀」主宰、44年には第7次「早稲田文学」編集長となったが、酒と女とけんかという“無頼派”の一面も。小説のほかに、随筆集「坂道と雲と」「旅のなか」、詩集「光と風」がある。59年「立原正秋全集」(全24巻 角川書店)が刊行された。(20世紀日本人名大辞典)
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● 高井有一【たかいゆういち】=小説家。本名田口哲朗。東京生れ。田口掬汀(きくてい)の孫。早大英文科卒業後,1975年まで共同通信社の文化部に勤務。その間,同人誌《犀》の創刊に参加,同誌発表の《北の河》は《文学界》に転載の後,芥川賞を受賞した。私小説的な題材を古典的で端正な文体で対象化する筆致は高い評価を得た。《夢の碑》で芸術選奨文部大臣賞,《この国の空》で谷崎潤一郎賞,《夜の蟻》では読売文学賞を受賞している。(1932~2016)(マイペディア)
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若いころ、ぼくは立原さんを「読もう」としましたが、どうしても受け入れられなかった。小説というものに託す願いや望みというものが、ぼくの求めていたものとはまったく違っていたのでしょう。恋愛小説は嫌いではありませんが、そこには何かが足りなかったのかもしれません、ぼくにか、立原さんにか。生意気なことを言うようですが、相性(好き嫌い)みたいなものがあって、それはなんとも致し方ないんですね。立原さんの小説を前にして読破できなかったのとは別の意味で、ぼくは大江健三郎さんの作品にも歯が立ちませんでした。無理に読むと、気が狂いそうになる、そんな感想を持ったのは事実です。立原さんには、それとはまったく別個の感情が働いたのだと思います。彼の作品のタイトルを並べてみると、読まないでもいいやという気になり、ぼくの入り込む世界ではないなという感覚が先に立ってしまうのでした。

ぼくの勝手な当て推量です、立原さんはかなり無理を重ねて「背伸びして」生きていたのではなかったか。(激しい苦労の末に勝ち得た)売れっ子作家だったし、「酒豪」「剛直」という人物評も雪だるまのように膨らんでいたし、李朝の末裔だというおぞましい「亡霊」までひけらかしていたのですから。読みもしないでこんなことを言うのは気が引けますが、彼は「自画像(他人の目に映る像)」を必要以上に深く繊細に、かつ真っすぐ(純粋)豪胆で、そして偉丈夫にするために、どうしても肝を据えて虚構を貫こうとしていたように思われてくるのです。彼の亡くなる前の、ある新聞連材(人物伝記風)でしたが、ある時、まだ幼かったお嬢さんと自宅近くを散歩していた。そこへ一匹の「野良犬」だったかが、吠えて、お嬢さん目掛けて飛びかかろうとした。それをみて立原さんは、とっさに持っていた竹刀(木刀だったか)で一太刀のもとにその犬を撲殺したという記事が出ていました。
それを読んだとたん「嘘だ!」と、ぼくは唸ったような気がしました。(「自筆年譜」の「四歳年上の少年の嘲罵を受けて短刀で相手の胸を刺して重傷をおわせ」という部分を想起します。こういうことが「世間」に向けて書けるという、その心情はぼくには分かりきらないところがあります)(犬の件は事実だったかもしれないが、それをどうして、ここ(新聞)に書くかという問題ですな)詳しいことは忘れましたが、そこまでして、自らをして潔く、しかも無骨なものとして虚飾しなくてもと感じたし、その半面で「焼き物」や「陶器」「料理」などにも、繊細で美的な傾向が濃厚で、それらに対して、蘊蓄(うんちく)を傾ける、そんな「一家言」を持っていると称しておられた。また、これはぼくの先輩が鎌倉の梶原という地で、立原さんの近所に住んでいたので、しばしば「自慢話」として先輩の「立原談義」を聞いたことがありました。実につまらないことでしたね。

「君、立原さんはすごいんだ」と、それを語っている自分の「凄さ」を言わず語りに話していたのを、いやな思い出として記憶しています。その人は天気の話をしていても、何時か「自分の自慢話」に変わっていく人でしたな。「自分を大きく、偉く見せたがる」、そんな大人でした。どんな話題にも、いつの間にか自分が出ているんですね。「こんな大人には断じてならないぞ」と、ぼくは誓ったものでした。「スノッブ」というものを自覚した最初だったか。まだ三十前でした。(これは「立原正秋」さんの作品の評価とはいささかも関係しないことです)
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