私たちが生を見捨てるやいなや

 以下は、ヘルマンヘッセのエッセイ「人は成熟するにつれて若くなる」(V.ミヒェルス編 岡田朝雄訳。草思社、1995年刊)からの引用です。折に触れて繰り返し読んでいます。行きつ戻りつしながら、人生の航海の奇跡を、たどるかのように、大家の残された言葉を味読しているのです。

老いてゆく中で 

若さを保つことや善をなすことはやさしい
すべての卑劣なことから遠ざかっていることも
だが心臓の鼓動が衰えてもなお微笑むこと
それは学ばれなくてはならない

それができる人は老いてはいない
彼はなお明るく燃える炎の中に立ち
その拳の力で世界の両極を曲げて
折り重ねることができる

死があそこに待っているのが見えるから
立ち止まったままでいるのはよそう
私たちは死に向かって歩いて行こう
私たちは死を追い払おう

死は特定の場所にいるのではない
死はあらゆる小道に立っている
私たちが生を見捨てるやいなや
死は君の中にも私の中にも入り込む
 *
若いときに、年をとることなどとても想像できないと思われるような人びとが、まさに最もよい老人になる。
 *
老年は青年より劣るものではない。老子は釈迦に劣るものではない。青は赤より悪くはない。老年が青春を演じようとするときにのみ、老年は卑しいものとなる。
 *
私はひとりの老人である。そして青年が好きだ。が、青年に強い関心をもっているといえば、嘘をついていることになる。年老いた人々にとって、特に現在のような厳しい試練の時代においては、だたひとつの関心をそそる問題があるのみだ。すなわち精神の、信仰の問題である。試練に耐え、苦悩や死に打ち克つことのできる心や信心深さの問題である。苦悩や死に耐えられる力を持つことは老年の課題である。感激したり、共鳴したり、興奮したりすることは青年の気分である。老年と青年とはお互いに友だちになることはできるけれども、彼らは二種類の言葉を話すのである。

● ヘルマン ヘッセ(Hermann Hesse)=1877.7.2 – 1962.8.9 スイスの小説家,詩人カルフ(南ドイツのシュヴァーベン)生まれ。1899年処女詩集を出版し、1904年小説家としてデビュー。’12年スイスに隠棲。第一次大戦時に公然と戦争批判を行い、新聞、雑誌からボイコットを受ける。’23年スイス国籍を取得。戦後、度重なる家庭内の不幸からノイローゼになり、ユングの心理学と出会い、人間の使命は内面への道を歩むことと認識し、作品「デミアン」に結実させた。その後、東洋思想へ関心が向かい、大作ガラス玉演戯」(’43年)はゲーテ的教養と東洋的秘教の両世界を結ぶ遺言的作品である。他に「車輪の下」(’06年)、「春の嵐」(’10年)などの作品がある。’46年ノーベル文学賞を受賞。(20世紀西洋人名辞典)

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 つまらぬ話ですから、書くこともないでしょうが、ぼくは高校卒業するまでは、ほとんど「本」を読まなかった(教科書は「本」ではない)。他にすることがいっぱいあったからだし、自分は「本を読む人間」などにはなりたくなかったからです(「本読みは惰弱である」という偏見に染まっていたかもしれない)。その不勉強ぶりは、我ながら「見事」といいたいくらいのものでした。やがて、他人から背中を押されるように「大学」に入り、今度は時間ばかりがあって、何もすることのない「不自由」を痛感した。それで仕方なしに「本でも」と言うことになった。一度そうなったら、周りにはだれも止めるものがいなかったのを幸いに、あらゆる種類の本を読み漁った。まさしく「漁った」のです。それまで「未経験」だったから、たちまち本の虜(とりこ)になった。なかでもヘッセが最良の「本漁り」の材料(好餌)だった。その理由は何だったか。

 いわゆる「青春」を描いて彼ほどふさわしい作家はいないなどと勝手な判断をしていたほどでした。この年齢になって、ヘッセが「青年と老人」「青春と老齢」をことごとく分けて書いていることに深い思いを感じているのです。彼の「青春時代」は暗黒の時代であり、その時代に向けて、彼によって灯された一灯が「禁忌」とされ、彼は若くして抑圧され、弾圧され、挙句には「焚書」の憂き目にもあったりした。彼自身の青春は、このように暗闇に閉ざされた中で圧死したのでした。(彼にこの「死の経験」がなかったら、後々の彼の「半生」はまったく異なったものになっていたでしょう)

 いま、ヘッセの年齢に、自分もなって思うことは、若い時に「死」を経験した人間の強さというか深さというか、それをちゃらんぽらんな人生を生きてきた人間として惜しみない賛意を送ると同時に、自らの弱さと軽薄さに対する軽侮の念を、ぼくは自らに禁じ得ないのです。だから、「青春と老年」「青年と老人」という、彼の中の異質とも思える人物の交わることのなさそうな「行き違いの対話」に、人生のある種の哀歓を痛切に感じているのです。

 人生はある時には「ガラス細工」のようであり、またある時期には「鋼の強さ」を持つものでもあるのです。「人は成熟するにつれて若くなる」===それは確かなことらしい。そうなりたいけれど、まず「絶望」しています。(大学に入った年に、ぼくは都内文京区本郷に住みました。本郷三丁目交差点わきに「福本書院」があった。洋書専門店であり、ドイツ語関連書籍では老舗のようでした。わけもわからずに店に入り、いろいろ眺めている時に、壁面にヘッセ直筆の書と写真が掛けられていた。詳細は忘れましたが、その書店の「窓」が、スイスのヘッセに通じていることに感動したのでした。もう六十年も前のことになります。(それ以後は機会があるたびに、店に顔を出したものでした)

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投稿者:

dogen3

 毎朝の洗顔や朝食を欠かさないように、飽きもせず「駄文」を書き殴っている。「惰性で書く文」だから「惰文」でもあります。人並みに「定見」や「持説」があるわけでもない。思いつく儘に、ある種の感情を言葉に置き換えているだけ。だから、これは文章でも表現でもなく、手近の「食材」を、生(なま)ではないにしても、あまり変わりばえしないままで「提供」するような乱雑文である。生臭かったり、生煮えであったり。つまりは、不躾(ぶしつけ)なことに「調理(推敲)」されてはいないのだ。言い換えるなら、「不調法」ですね。▲ ある時期までは、当たり前に「後生(後から生まれた)」だったのに、いつの間にか「先生(先に生まれた)」のような年格好になって、当方に見えてきたのは、「やんぬるかな(「已矣哉」)、(どなたにも、ぼくは)及びがたし」という「落第生」の特権とでもいうべき、一つの、ささやかな覚悟である。どこまでも、躓き通しのままに生きている。(2023/05/24)