今人は皐月の鯉の吹き流し口先ばかりで腸はなし 

【談話室】▼▽知人からかつて、こんな話を聞いたことがある。山形市の中心街に行って用事を済ませ、バスで帰宅した。すると降りる際、運転手に言われた。「さっき運賃を10円余計に頂いたので、その分を引いて払ってください」▼▽そういえば家から出かける時もバスに乗った。往復ともたまたま同じ運転手だったのだ。行きに多く払ったという意識がなかっただけに、知人は驚いた。同時に「運転手さんの客への誠実な対応にはほとほと感心した」。教えてもらった身にしても、気持ちがほっこりした。▼▽近頃は対照的に、多額の金がいとも簡単にやりとりされる。例えば、町役場から誤って4630万円を振り込まれた男の話。元に戻すよう頼まれても「海外のインターネットカジノで全部使った」と嘯(うそぶ)いていた。しかし最近になって、町にその9割余りが返ってきたという。▼▽男が送金した決済代行会社が、町に入金してきた。代行会社側が捜査を恐れた、との見方もある。本をただせば町のミスがなければ問題は生じなかった。とはいえ、謎を残したまま大金が行き交う記事を読むにつけ、10円を巡る気遣いの方が人の本然であってほしいと願う。(山形新聞・2022/05/28付)

 まだ「券売機」などが姿を見せていなかった時代、ぼくの記憶では半世紀以上も前のことのように思われますが、今のJR上野駅の窓口駅員が切符の釣銭、十円かそこらを不正にポケットに入れたという廉で、解雇されたというニュースがあった。たかが十円で「首」とはあまりにも無慈悲と思ったし、勤続何十年かの履歴が一瞬にして消えてしまったという、駅員の(人生の)暗転に心を痛めた、そんな記憶が今もはっきりと残っています。これはいろいろなところで聞いた話ですが、電車やバスに運転手以外に車掌が乗っており、その車掌が「車内切符販売」を請け負うていた。勤務が終了すると、乗車券販売枚数と金額が見合うかどうか、毎回実に厳格は検査が行われていたという。その反対に、これは誰の書いた小説だったか電車の車掌が当たり前のように「どんぶり」をしている場面が繰り返し書かれていた。「どんぶり」というのは切符を売らずにお金だけもらい、それですっかり「私腹」を肥やすというように使っていました。どんな商売でも「信用」が何より接客業ですから、たとえ一円でも不正は許されないのは言うまでもありません。「キセル」などと相まって、電車やバスにまつわる黒話ですね。

 小学生のころ、よく釣りや水泳に連れて行ってもらった隣のおじさんは、京都堀川の「チンチン電車」の車掌さんでした。その人が乗車していた時にも乗せてもらったが、料金は払った覚えがありません。「不正(無賃)乗車」だったのかもしれませんね。だから、「談話室」の記事に、ぼくは感心している。「さっき運賃を10円余計に頂いたので、その分を引いて払ってください」という、「運転手さんの客への誠実な対応にはほとほと感心した」とあります。行き帰りが同じ運転手だったことも珍しいけれども(山形市内循環バスだったでしょうから、乗務員はたくさんおられるに違いありません)、客に声をかけて「十円多く払った」と行きの時には言えなかったのかもしれません。それにしても、「奇特」というべきは運転手の姿勢でしょうか。なに、そんなことは当たり前だという向きもあるでしょう。しかし、その行為がどれほどまれであるか、他でこんな話を聞くことがめったにないのがその証拠です。

 しばらくはバスで駅まで通っていた時期、小銭の持ち合わせがなく困っていたら、「いいですよ、帰りにでもその分も払ってください」と言われ、ぼくは感心したり感謝したり、同じ会社でも嫌な感じの運転手もいましたから、なおさら気分がよかったのを今なお覚えています。繰り返します。そんなのこんなのは、当たり前で、取り立てて云々することはないさ、たしかにそう思うこともありますが、時代や社会の風潮があまりにも荒んでいるから、この小さな「逸話」が心を軽くしてくれるのです。「帰りに払ったのかって?」「払いましたよ倍返しで、それはなかったが」

 これと対照させている、別件の「金銭にまつわる話」は、触れるのも気が進みません。ぼくは疑り深いので、この「誤入金」されたのも、実は仕組まれていたのか、あるいは決済代行業者も「一味(グル)」じゃなかったか、などとあらぬことを妄想してしまいました。もっとも間違っても振り込んではいけない「あんちゃん」に振り込むのですから、いらぬ妄想を掻き立ててしまったのでした。体が丈夫なら、自分で生活する分は、自分で稼ぐのが一番、それに尽きます。

 なにかと浮き世の憂き話ばかりが登場していますから、この「十円」の「当たり前」が光り輝くのでしょうね。いや、この話を書いた記者が、「知人からかつて、こんな話を聞いたことがある」と書き出している。だからこの話が紙面に載ったのは珍しいことであって、ほかにもいくらも、「紙面に載らない十円」話があるのかもしれない。おそらくそうでしょう。いや世間も悪くなったから、この手の話には「眉につば」ということかもと、思わないでありません。かなり前になりますが「一杯のかけそば」という「美談」というか「人情噺」が話題に上りましたが、その当人がこの手の「美談づくりの常習者」だとわかり、一気に「美談は醜談に」様変わりした。ようするに「美談」に酔った人は「一杯食わされた」のだし、「嘘か真か」と映画化して恥をかいた映画人たちは「文字通り、そばに賭けた」んでしょうな。これがほんとの「賭けそば」ですよね。美談は表面に現れると(世間に知れると)、それは美談ではなくなります。「伊達直人のランドセル」は、ぎりぎりの線を維持していましたね。

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● 「一杯のかけそば」=交通事故で父親を失った母子家庭とそば屋との交流を描いた、栗良平による短編である。見過ごせば、たんなるアナクロな人情物語でしかなかったのが、ワイドショーや各週刊誌などがこぞってとりあげ、近来まれにみる美談として(おもに四〇代以上の層の)共感を獲得した。しかしその後、実話に基づいているというわりには、実際のモデルが存在しないことが問題になり、さらには作者自身の過去のスキャンダルが暴露されるに至り、別の意味でメディア現象化し、やがてブームは去った。(とっさの日本語便利帳)

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 本日で「皐月」は終わります。俗に、江戸っ子を称していったされます。「江戸っ子は五月の鯉の吹き流し=江戸っ子はことばづかいは荒っぽいが、気持ちはさっぱりしていて物事にこだわらない。また、江戸っ子は口先ばかりで、ほんとうの胆力にとぼしい。[使用例] お前がの、売り言葉に買い言葉で、三言四言饒舌れば男てえやつは腹に何もなくても、江戸っ子は皐月吹き流し、口先ばかり(はらわた)はなし、だから癇に障ると出て往けと言おうが[初代三遊亭遊三*落語・厩焼失|1890][解説] 「吹き流し」は、鯉のぼりが風に吹かれて泳いでいるさま。腹が空洞で何もないところからいうもの。(ことわざを知る辞典)

 口先ばかりで腸はなし ー いかにも現代人のようでもあります。さすれば、すべては「江戸っ子」になったということか。いいのか悪いのか、何とも閉まらない話です。というわけで、「皐月」はドン詰まりましたね。だからこその「十円」の正直さがうれしくなるのです。

 明日からは「水無月」です。六月が水無月とは、これいかに? いずれ、どこかで陰暦・陽暦などにかかわらせて、徒然なるままに、よしなしごとを書いてみるかもしれません。諸説紛々で、好き勝手に、より取り見取りの大放出の気味があります。それはそれで結構なことかもわかりません。いかなる「十円話」が登場してくるでしょうか。

OOOOOOO

● 6月(ろくがつ)June 英語 Juni ドイツ語 juin フランス語=1年の第6番目の月。陰暦ではこの月を水無月(みなづき)という。初夏から仲夏の季にあたり、中旬には梅雨入り、下旬には一年中でもっとも昼の長い日、夏至がくる。田植時で、の色づく麦秋の季節でもあって、農家ではもっとも多忙な月である。(ことわざ)の「六月に火桶(ひおけ)を売る」は、することが季節外れのたとえで、「六月無礼」は、陰暦6月は暑さが厳しいので、服装が少々乱れる無礼も許されることをいう。(ニッポニカ)

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投稿者:

dogen3

 語るに足る「自分」があるとは思わない。この駄文集積を読んでくだされば、「その程度の人間」なのだと了解されるでしょう。ないものをあるとは言わない、あるものはないとは言わない(つもり)。「正味」「正体」は偽れないという確信は、自分に対しても他人に対しても持ってきたと思う。「あんな人」「こんな人」と思って、外れたことがあまりないと言っておきます。その根拠は、人間というのは賢くもあり愚かでもあるという「度合い」の存在ですから。愚かだけ、賢明だけ、そんな「人品」、これまでどこにもいなかったし、今だっていないと経験から学んできた。どなたにしても、その差は「大同小異」「五十歩百歩」だという直観がありますね、ぼくには。立派な人というのは「困っている人を見過ごしにできない」、そんな惻隠の情に動かされる人ではないですか。この歳になっても、そんな人間に、なりたくて仕方がないのです。本当に憧れますね。(2023/02/03)