個人を崇拝しすぎると、自由は失われるんだ

 【小社会】ムーミンと独裁者 世界中で愛されるムーミンの物語に抱く印象は平和や多様性、寛容さだろうか。ただ、やや意外なことに作者の故トーベ・ヤンソンさんは、第2次大戦中の風刺画で頭角を現している。◆スウェーデン語系フィンランド人による政治風刺雑誌で恐れのないペンを披露した。いくつかの評伝本には旧ソ連のスターリンをやゆし、検閲に引っ掛かった表紙の下絵が見える。◆撤退するナチス・ドイツ軍の略奪行為を描いた表紙は、兵士たちの顔が全てヒトラーだ。もちろん、風刺画には戦争への深い憎悪と平和への愛がある。後に「あの仕事で一番楽しかったのは、ヒトラーやスターリンをこてんぱんにこきおろせたことね」と語っている。◆ムーミンの作品化は1945年から。自由と孤独を愛する旅人スナフキンのファンも多いだろう。彼にこんな名言がある。「あんまり誰かを崇拝すると、本物の自由は得られないんだぜ」。時節柄、今また世界を振り回している専制主義的な国を連想しないでもない。◆北欧2カ国が北大西洋条約機構(NATO)に加盟を申請した。ウクライナを第2次大戦下に引き戻したかのような、ロシア軍による蛮行の帰結といえる。NATOの拡大に反発するプーチン政権に対し、フィンランド大統領が言う「鏡を見ろ」は的を射ていよう。◆戦禍はまもなく3カ月になる。ヤンソンさんならば、この混乱した世界や「独裁者」をどう風刺するだろう。(高知新聞・2022/05/23)

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● ヤンソン(やんそん)(Tove Jansson)(1914―2001)=フィンランドの女性画家、児童文学作家。スウェーデン系の出で、作品もスウェーデン語で書く。スウェーデンやフランスで絵画を学ぶかたわら、1930年代より政治誌『ガルム』に表紙絵を寄稿する。その後、表紙絵に自らのサインのかわりに描いていたムーミントロールを主人公にした『小さなトロールと大洪水』(1945)を著して挿絵画家および作家としてデビュー。以後、『ムーミン谷の彗星(すいせい)』(1947)をはじめ、幻想的な「ムーミン物語」を8冊発表。70年に発表した『ムーミン谷の11月』が、シリーズ最後の作品となった。フィンランドの海辺を舞台に、孤独、愛情、理解、慰めをやさしく語り、広く世界に真価を認められる。フィンランドのルドルフ・コイブ賞、スウェーデンのニールス・ホルゲルソン賞とエルサ・ベスコフ賞を、66年には国際アンデルセン賞を受賞。ムーミン・シリーズは30以上の言語に翻訳され、日本では発行部数1000万部を超えたといわれた。また、69年以来三度テレビアニメ化され、90~91年のアニメは本国フィンランドでもブームを巻き起こしたという。ほかに絵本『それからどうなるの?』(1952)、少女小説『ソフィアの夏』(1971)、自伝的小説『彫刻家の娘』(1968)、短編小説集『聴く女』(1972)などがある。(ニッポニカ)

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 権力者を心から「崇拝」するなどということがあるのでしょうか。ぼくにはよくわからない感情ですね。おそらくスナフキンのセリフに使われている「崇拝」の言語がなんであるか、折をみて調べておきます。文字通りの「崇拝」は「[名](スル)心から傾倒して、敬い尊ぶこと」(デジタル大辞泉)でありますから、「あんまり誰かを崇拝すると、本物の自由は得られないんだぜ」という表現は、少し割り引いて受け止めたいとぼくは考えています。「誰か」とは「独裁者」であったり、「権力者」であったりします。あるいは宗教的な指導者もその対象になるでしょう。身も心も「御一人」に捧げると、当人は「蛻(もぬけ)の殻」になっているのでしょう。それは「崇拝」という行為のあり方とは相いれないようにも思うのです。いずれにしても、何が何でも誰かを受け入れると、自分には考える余地はなくなるし、その「御一人」が間違えるなどと「疑う」ことはご法度になる。つまり、ここで「自由」とスナフキンが言うのは「疑うということ」です。疑う自由、それが奪われると、人間は無思考存在になるほかありません。

 現下の状況に置き換えて、ロシア国民(人民)が「P」を「崇拝する」気分なんて微塵もないと思う。彼に任せておけばいい、自分はそんなことにかかわりたくない、そんなところがせいぜいではないでしょうか。彼は損をするようなことはしないだろうから。さらに質が悪いのは、必要な「知る権利」すら奪われているのですから「自由でなくなることおびただしい」と言わざるを得ません。ことは「戦争」ですから「勝ち負け」が付くのでしょう。しかしこの「戦争」は、どこから見ても「土足」で隣国に踏み入り、これこれの土地は俺のもだから、いやなら出て行けと言っているに等しい。泥棒国家であり、強盗帝国ではないか。こんな盗人猛々しい輩に「理屈」を繰り出しても無意味です。四の五の言わずに、その「非」を、国際世論にはっきりと訴え続けるべきでしょう。いずれ、どんな形にしろ「戦争は終わる」が、そのとき国際社会はどうするか。国連を使って何かをするなどできない相談であり、むしろ、国連を無にしてきた無法者を明らかにするための新たな「手法」を準備すべきです。

 ロシアを筆頭として、国際社会から追放・排除しなければならなような事態が生じているのです。あからさまな暴力で他国を侵略し、その土地を奪うことを、認めたなら、今後、この手の強盗国家・盗人権力者が陸続として蔓延り続けるでしょう。コラム氏いわく、「時節柄、今また世界を振り回している専制主義的な国を連想しないでもない」と、スナフキンの箴言を受け止めかねるのか、受け止めているつもりなのか。高知新聞にして、この程度の「役目ずまし」とは、なんともやりきれない緊張感のなさですね。ロシア国内においても右から左から、「権力批判」は「クーデター勃発説」すら出ているのです。時の権力者に向けた「怨嗟の声」は大きくなることはあっても、立ち枯れることはないでしょう。

 個人を崇拝しすぎるということは、これまでも歴史にはどこかであったに違いありません。例えば、ヒトラー。彼を「崇拝しすぎた」民衆は五万といたのか。ぼくにはそうは思えない。ほんの一瞬の旋毛風(つむじかぜ)、あるいは辻風であり、一瞬にして消え去るものでした。民衆の圧倒的「崇拝(という錯覚)」を長時間維持することはまず不可能で、辻風はやがて「逆風」になるのが定めです。ヒトラーに限らない。現下の「ロシア皇帝」も例外ではありません。旋風は、一時期は順風に見えたけれど、当の本人が「風を読み違えた」のだ。順風だとばかり思っていたら、なんと「逆風」逆巻く大嵐だった。それを取り巻きがおべんちゃらばかりでごまをすったがために、意想外の「長丁場」にはまり込んでしまった。かかる誤算を引き起こすこと自体、彼はもう「焼きがまわった」ということです。

 長期に及んで自己権益を貪ってきた「落とし前」をつける時が来たようです。ロシアが「ウクライナ戦争」に勝つというのではない。ロシアには勝つ以上に戦い続けるしか道がないのです。一方のウクライナには「侵略」を見逃すことはできない。戦いを放棄すればウクライナは地球上から消えます、いや消されるのです。両者の立場にはあからさまな、差異があるのです。侵略を正当化しようとした「盗人に三分の理」である、「ロシア系住民の虐殺」はどこに行ったのでしょうか。いかにもPは、恥も外聞もかなぐり捨てて(もともと、彼には恥じらいも外聞を気にする気持ちはさらさらない)、とにかく、土地を奪いロシア化するだけ。こんなばかげた「傍若無人の振る舞い」を世界中の人民が認めたら、どうなりますか。KGB上がりの「皇帝」一人に手もなくひねられて、それでもだんまりを決め込むつもりでしょうか。

 「ヤンソンさんならば、この混乱した世界や『独裁者』をどう風刺するだろう」などと、高みの見物を決め込んでいる場合ですか、コーチの兄さん。「『小社会』ならば、この混乱した世界や『独裁者』をどう風刺するだろう」という期待のかけらくらいは見せてほしいですね。まさか「内政干渉」という批判を恐れているんじゃないでしょ。ウクライナからの避難者をこの島社会の各地が受け入れてきました。すでに千名を超えたとされます。もちろんすべてが上首尾だというわけにはいきませんし、異国で働くことのこんな差を少しでも和らげておきたい。故国が落ち着いたら帰国したい方々もおられる、それは当然の想いあり、そうなるようにできる範囲で尽くしたいと念じているのです。

 (9条の会・医療者の会 )

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