「ああ、芽が出ん」は、もうすべてあかんと

 取り立てて「植物」が好きというわけではありません。しかし、これまでの生活の場面には、なにかと花や木々がぼくの荒(すさ)もうとする心持を慰めてくれたことは事実です。大きな問題ではなく、自分が育った環境が、ものの見方やスキ・キライ、さらに言えば、性格などの隅々までをなにくれとなく決める要素となってきたのは事実ではないかと思っています。あえて言えば、ぼくは都会派ではなく、「田園派」などという洒落たものではなく、生来の「ド田舎人間」だといえるでしょう。都会と田舎、あるいは地方と都会などというのもおこがましいのですが、都会は田舎人の集まりだと考えるなら、都会の根源(供給地)は田舎(地方)に存しているともいえるのです。変なものというか、同じ地方都市に住んでいても、「都心」だとか、「僻地」などと対比してしまうのも、何とも滑稽だというほかありません。こんなのは「笑っていいと!」というのですな。(上の写真は「うつぎ」)

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●「らしょう‐もん ラシャウ‥【羅生門・羅城門】[1][一] (羅城に設けられた門、京城門の意。ただし、平城京では羅城の有無は確かでなく、平安京では南京極だけに設けられた。後世「らじょうもん」とも) 平城京・平安京などの都城の正門。朱雀大路の南端にあって、はるかに朱雀門に対する。平安京のものは南北二丈六尺(約七・八メートル)、東西一〇丈六尺(約三一・七メートル)、戸七間で、重閣、瓦葺に鴟尾(しび)を上げていた。はやく荒廃し、鬼がすむといわれ、また、死体がその上層に捨てられたという。その跡は京都市南区唐橋羅城門町にある。らせいもん。らいせいもん。(以下略)(精選版日本語大辞典)

● みや‐こ【都】=《「みや」の意》 皇居のある土地。「都を定める」「京の都」 その国の中央政府の所在地。首都。首府。また一般に、人口が多く、政治・経済・文化などの中心となる繁華な土地。都会。「住めば都」 何かを特徴としたり、何かが盛んに行われることで人が集まったりする都会。「音楽の都ウィーン」「水の都ベニス」 天皇が仮の住居とする行宮あんぐう。「秋の野のみ草刈りき宿れりし宇治の―の仮廬かりいほし思ほゆ」〈・七〉(デジタル大辞泉)

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 こんなことは取り立てて言うまでもないのですが、都会とか都市などという場合の「都」は「みやこ」とも読ませています。その意味するところは、京・都=みやこであり、元来は、「天皇の住んでいるところ(宮処・みやこ)」でした。おおよそは上の辞書の「説明」にあるような使われ方をしてきたのです。特に[]を指して言われてきたことは確か。その他は、それに準じる用法でもあるのです。近年、あらゆる地域で「都心」「新都心」「副都心」などと称されているのは、あながち不動産屋の宣伝材料になるだけではなく、「都」が、どんなところであれ、その「都」というところに住みたいという「ミーちゃん・ハーちゃん」の「付和雷同の情」でもあるからでしょうか。「住めば都」というではないか。かくも申すぼくも、選択をしたわけではなく、意識の有無にかかわりなかったとしても、相当程度に、ぼく自身も「付和雷同」の例外ではなかったわけですな。京都に十八年、東京に十年、その近郊に五十年近くもへばりついていたのですから。この山の中には、まだ十年足らずですよ。都会派のミーちゃんだったというべきですな。

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 ぼくは高校を卒業するまで「京都(みやこ)」に住んでいました。その実際は「右京区」に住居がありましたから、中心部(みやこ)からすれば、偏狭・辺境の地(辺縁=マージナル)で、兼好さんや長明さんなどの書いたものにも、人も住まないような「外れ」「異界」だといわれていました。化野(あだしの)などといわれ、行き倒れの人間を葬るところでもあった。もちろん、「都」の中心部は御所で、そこからの距離の遠近によって、都会度は下がったり、逆に田舎度は上がったりしていた。「羅生門」は、異境・異界との接点の印でもありました。遥かの昔、そんな時代が本当にあったのかと、いかにも霞むばかりの夢の世界でもあります。車で移動できない時代、人間の足で歩く範囲は知れていましたから、兼好や長明の書き物は、この「霞む夢」の世界に生き死にする人間と世情を余すところなく描いてもいるのでしょう。とにかく、人は、中心部に向かって集住したい種族であることは確からしい。

 やたらに「前置き」が長くなりましたので、本日は、ここで終わりにさせていただきます、といいたいところですが、それでは駄文の趣旨に反しますので、少しばかりの懐旧談でお茶を濁しておきます。この話は、右京区嵯峨広沢南ノ町に住んでいた時代の、一コマで、「植藤」という仁和寺の植木屋さんの語りを、大いに時期が過ぎましたが、桜の木になぞらえて、人間の教育問題のいくばくかの参考にしてみたいと考えた次第です。この物語の発端も、すでに七十年の昔になりました。なお、この佐野藤右衛門さんに関しても、すでに何度か「駄文」で扱っており、似たような話題ですが、駄文の名に恥じない展開をお許しください。

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 「わしがいろんなことに気づくようになったのは、やはり桜をやりかけてからですね。桜の生長の度合いを見ているときに、いくら人間がやいやいというてもどうにもならんとこがあるんですわ。花を咲かすには遅れていても芽さえできていれば、時期がくれば咲きますし、逆に咲くのを遅らす場合はフレームを入れるとか、日に当てないで長いこと寝さしておくとか、そういうことはできますけれど、人間の力で花の咲く芽をつくることは絶対できませんわね

 人間はできたものを咲かすということはある程度できますわ。でも芽がなかったら、どうしようもないんです。そやから、「ああ、芽が出ん」というのは、もうすべてあかんということですわな」(佐野籐右衛門『桜のいのち 庭のこころ』草思社刊)

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 「芽が出ない」というのは「もうあかん」ということ。そういわれれば、それまで。しかし、よほど無茶なことをしないかぎり、どんな木でも「芽を出す」ものです。これまでの植木や花いじりで失敗した理由の第一は「水のやりすぎ」でした。それでは、にんげんのばあい、この「芽」は何に当たるのでしょうか。イボやニキビでないことは確か。

 今年咲いた桜の花芽は、前年のお盆ころにでる。花を咲かせるというのはその木の一年間の仕事納めです。咲き終わると、あっという間に散る。それは、さあこれから来年に向けて精をつけるぞという合図のようなものでしょう。一年かけて花を咲かせるように時間をたどる。自然のリズムをいじることはできます。開花の時期を人工的に早めたり、遅くしたりすることはできる。でも、それがどんなに「美しい花」をつけたとしても、時間を節約すると、それはまちがいなく樹木の生長する時間を奪うことになるし、そのことの弊害ははっきりしています。

 「このあいだも、仙台から、桜が弱ったから来てくれという手紙がきたので見にいったら、広瀬川の土手の上の官地と民地の境にずーっと桜が植わっているんですわ。問題の桜はたまたま民地のほうにあって、そこへ家を建ててから急激に弱ったという。一抱えもある桜です」(このくだりは、どこかですでに触れています)

 いろいろ話を聞いていると、家を建てるときに、桜の根をあやまって切ってしまったらしい。だんだん元気を失って、すぐに葉を落としていったそうです。それで、これはいかんと勝手に思いこんで、根本に水をたっぷりやったというのです。

 「こんな木になんで水をやるんやて、わしは言ったんですわ。根腐れしているのと同じことなんです。この桜の根の先はずっと向こうにあって、そこから栄養分を吸うておるのやから、こんな幹の根本に水をやったって、かえって腐らすといったんです」

 佐野さんの弁はさらにつづきます。

 なんでも人為的に、つまりは人間の都合のいいように判断する。「自分の見たところで木までそうやと思っている。人間の生活と同じリズム、状態のことを相手にさせようとする。日本のあちこちの桜を見に行くと、ぜんぶそれですわ。それが日本の桜をだめにしているんです」人間の勝手が、どんなに自然を壊しているか、その自然から人間もはずれることはできないのに、です。自然を壊す、それを教育やなんやと、アホなこというてますな。

 根本・根元に水をやりつづけるとどういうことになるか。

 その木は根を伸ばそうとはしなくなります。なぜなら、自分で根を伸ばさなくても栄養分がよそからやってくる(与えられる)からです。根を伸ばす、根を張るというのは栄養分を吸収するための活動であり、大きく根を張ることで木の成長を支えるわけです。根を張ることで、大地にしっかりと立つ、つまり木がじょうぶになる。根を伸ばさないで栄養分がとれるから、どんどん木は高くなる。つまり、頭でっかちになる。そして、ちょっと風が吹いたり、地震が来ると見事に倒れるんです。年中、そんな光景をみるでしょう。

 この先はいわなくてもいい話ですが、せっかくだから…。

 「日本人の子供の教育のしかたと一緒でっしゃろ。こんなですから、ちょっと大きな風が吹いたら、ゴローンとひっくり返る。これは根張りがないからです。伸ばす必要がないのやから。伸ばさなくても餌をもらえるんやから。人間はいらんことばっかりしてるんですわ。そやから、わしは相手のこと、植物のことを考えて人間がやれていうんですわ」

 植物に対しても動物に対しても人間は自分の好き放題をして、相手の気持ちを忖度(そんたく)しない。得手勝手というのはまさに人間のことをいうのでしょう。勝手にいじり回して、その挙げ句に放り出す。放り出された方は、独り立ちして生きていけなくされてしまっているのだから、始末に悪い。人にも動物にも植物にも、まったくおなじことを人間はしているのです。飽きたら捨てる、いらなくなったら捨てる。かまいすぎて、いじりすぎて、この先は自分でやれといわれても、どうしようもないのです。「環境にやさしい」「地球にやさしい」というのは、最暗黒の「ジョーク」だね。

 転ばぬ先の杖、これが余計なことなのですが、親切と勘違いしている人間が多すぎます。自分の都合で杖を与えるのですが、与えられた方は杖なしでは生きていけなくなる。

 小さな木は小さいなりに、大きな木は大きいなりに根を張る、そしてその根でしっかりと土をつかみ、その根の先から必要な栄養を吸収する。そのように人間も育ちたいのですよ。根を張る、根張る、根張り(ねばり)ですね。屋久島の縄文杉は樹齢五千年とか六千年とか。厳しい環境で栄養価が、杉の木にとっては豊饒ではないからこそ、長い時間をかけて根を張り、生育するんです。人間は「生育時間」が短すぎますから、頭でっかちになり、風に、それこそ「根こそぎ」やられんでしょう。前日の「ファスト映画」というものが、人間の成長にとって、いかなる状況を指しているかが、少しはわかろうというものです。(体調はあきません。まだ、すっきりしませんね。「ああ、芽が出ん!」「まったく、あかんわ」)

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投稿者:

dogen3

「上を思えば限りがないと、下を見て咲く百合の花」になれるものなら、という想いです。それこそ、「高嶺の花」ですが。「昨日は俗人 今日は僧、生涯胡乱(うろん)これがわが能」と自称した一休さんは、一面では「相当な人物」だったと、歳をとるとともに思わされています。