沖縄復帰50年など祝いたくない

 <金口木舌>「残念では済まない」日本復帰50年の東京式典に出席した与党議員がインターネット上の投稿サイト(SNS)に書き込んでいる。「日本全体でお祝いする意味を込めて努力してきたことから、残念に思いました」▼残念だったのはテレビ放送を見てのことであるそうだ。「沖縄復帰50年など祝いたくない」「日米地位協定が見直されたら祝う」。そんな県民の声に「残念」という▼施政権返還という政治の捉え方に賛否あるのは健全な民主主義の現れだろう。日米地位協定については、その「不平等」の痛みを県民の負うケースが多いのはあえて差し置くとしても、協定の適用範囲は国全域だ。改定は国民課題ではないか▼1951年に締結された旧安保条約と行政協定(地位協定の前身)の交渉に臨んだ外務省の担当者も当時の米側草案を読んで、後に感想を記す。その不平等さに「一読不快」と▼そんな「一方的な義務ばかり」を負担し、日本の主権を阻む駐留米軍への特権条項が今もほぼ温存されている。沖縄だけの課題のごとく、矮小化されて「残念」と言われては困る。(琉球新報・2022/05/20)

 沖縄返還から半世紀が経過した。この五十年は、沖縄にとっても日本全体にとっても「独立不可」「自立無理」を時間をかけて認めさせられてきた時間でもあったでしょう。「核抜き・本土並み」とか言って、大々的に「復帰宣言」を天下に表明したが、実はそれが真っ赤な嘘であったことが直後に明らかになります。いわゆる返還交渉における「密約」の存在でした。その半世紀、この「密約」はどうなったのか、ほとんどそれに触れないままで、本土の沖縄並み「米軍基地化」と「沖縄米国基地恒久化」がひたすら進められてきました。沖縄返還は、日本の米軍基地化の別名でもあったし、それは半世紀が経過した今も、少しも変わらないままで促進されています。(それにしても、何時も感じることですが、政治家が「一世一代の嘘」を平気の平左でつきとおすという、そのあきれた行状です)

 沖縄にはたくさんの友人や知人がいます。今では互いに歳を取り、行き来はほとんどなくなりましたが、その思いは明らかだと、ぼく自身は考えています。沖縄(琉球)には、若いころから強い関心を持ってきたし、沖縄・琉球の歴史や文化にはとりわけ時間をかけて親しみ、学んできました。伊波普猷や佐喜眞興栄さん、謝花昇をはじめとした沖縄の近代化に大きな役割を果たした人々には、たくさんのことを学んだし、日本の柳田国男や折口忍などからも、琉球に関しては、大いなる刺激を受けてきました。

 ぼくはある時期から盛んに「沖縄独立論」なるものを口にしてきた。沖縄・琉球は明治以前の「琉球処分」前の姿に、さらに進化した状態で戻るべきだというものです。詳細は述べませんが、沖縄の歴史をを知れば知るほど、「独立」説に傾いてくるのでした。こんにち、それを口にする人はほとんどいなくなったのかもしれませんが、それは沖縄があるおかげで本島(ヤマト)がなに不自由なく暮らして行けるという錯覚があるからです。沖縄は返還以前も返還後も、この劣島の「属領」だという感覚が、多くの人のうちにあったし、その劣島本体は、戦後は間違いなくアメリカの「属領」になりさがっています。基地にかかわるすべてを、この島が賄(まかな)って、初めて「日米安保」なる不平等条約が成立してきたのです。

 「沖縄返還なくして、日本の戦後は終わらない」と時のソーリは言ったが、アメリカに、この島社会を売り渡したという宣言でもありました。(その甥っ子は、同じように北方四島をロシアに売り渡しました、返還を口にしながらの大嘘だった)こと基地問題や軍事力に関して、この島が独自に判断し、自己決定できることはほとんど残っていないのです。外交はもちろん、内政の全般にわたっても、枢要なところはほとんど「宗主国」、「元鬼畜」の意向をうかがうのが、政権与党の政治行動であったし、今もあり続けている。

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(下写真:沖縄の日本復帰から50年 式典会場付近で抗議・「沖縄復帰50周年記念式典」の沖縄会場付近で、抗議の声を上げる人たち=15日午後、沖縄県宜野湾市)( 共同通信・2022.5.15 17:26)

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 (以下は五月十五日発刊の琉球新報です)

 「復帰50年特別号」作成の舞台裏…琉球新報が伝えたかったこと【WEB限定】(2022年5月20日 18:30)

 琉球新報が沖縄の日本復帰50年の節目に当たる15日に発行した特別編成号が反響を呼んでいる。特別号では、50年前の1972年5月15日付琉球新報1面を復刻し、その紙面と同じ横の主見出し「変わらぬ基地 続く苦悩」を付けて現在も変わらない沖縄の基地負担を指摘した。当時の縦見出し「いま 祖国に帰る」は「いま 日本に問う」とした。発行後、県内外から取材や問い合わせがあったため、発行に至った社内での経緯や議論を17日付で紹介した。デジタル版では、発行に至るまでの裏舞台も紹介する。(琉球新報編集局次長兼報道本部長・新垣毅)(中略)

■「祖国」か「日本」か

 復刻版と並ぶラッピング紙面の記事内容、見出しに関する詰めの議論は5月9日の紙面会議から取り組み、詰めていった。それまでの議論で、横の主見出し「変わらぬ基地 続く苦悩」は現状本記でもそのまま同じ見出しを付けることがすぐに決まったものの、復刻版の縦見出し「いま、祖国に帰る」については、「『いま、祖国に問う』かな?」という意見が出ると、すぐに複数の部長から異論が出た。「祖国? 日本でしょ!」

 その理由は、県民投票などで何度も米軍基地の整理縮小や新基地建設反対の民意を示しても、無視する日本政府、その政府を支える多くの日本国民がいる―という問題意識だ。50年前と異なり「祖国」と呼ぶことへの違和感が湧くほど、基地が集中する沖縄の現状は厳しい。

▼「特別な日」「素直に喜べない」…復帰50年沖縄各地の表情

 かつて沖縄出身の保守系政治家・西銘順治氏(1978―1990沖縄県知事在任)は「沖縄の心とは?」と問われ「やまとんちゅ(大和人)になりたくて、なりきれない心」と。今も語り継がれ、県民が抱いている感覚とも重なる。沖縄の問題を「自分ごと」として捉えてほしい、そのような願いも込めて「いま、日本に問う」とした。(左は西山太吉さん、右はその著書)

  沖縄では、「やまとんちゅ(大和人)」と、「うちなんちゅ(沖縄人)」を区分けしたり、県外の人々を「ないちゃー(内地の人)」と呼んだりする習慣が根強くあり、県外の人々と心理的距離感を抱いている人々が少なからずいる。「日本」を「祖国」と見なせば、違和感を抱く県民読者も多いのではないか。違和感の源泉は、沖縄の声を届けようと、訴えても訴えてもヤマトに冷たくされ、苦しむような、そんなヤマトと沖縄の関係性が胸のうちに突き刺さっているような感覚だ。そのような感覚を「日本」という表現に込めた。(中略)

 15日の琉球新報を、沖縄県内外の多くの方々に読んでいただくことで、今なお基地の過重負担の不条理を抱える基地の島・沖縄への認識や関心を強め、沖縄の現状を変えるきっかけになってほしい。沖縄の現状を伝え、本土に問う特別号の本記原案を書くなど、紙面作成に携わった一人として、そして沖縄県民の一人として切に願っている。(琉球新報・2022年5月20日 18:30)

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 ある時期にぼくは沖縄の新聞を、都内の自宅で購読していた時期があります。知人も何人かいましたから、沖縄問題が本土(日本)問題であるという認識を共有することが、ぼくには欠かせない義務だと痛感していたからです。沖縄を訪ねた際にも、深夜に及んで飲み屋で隣同士が「沖縄どうする?」と議論していた光景を今もって忘れることはできない。いまもなお、沖縄は外交というよりは防衛・自衛の「最先端基地」であることに変わりがありません。この問題についてなにかをいうのは、ぼくの気分としてはけっして心持がいいものではない。沖縄を踏み台にしてきた本土の人間、高みの見物よろしく、拱手傍観してきた一人の人間として、「辺野古移設反対」などとは大きな声で叫べないような後ろめたさがある。普天間基地の一角に、沖縄の歴史と現在を象徴するかのようにして「佐喜眞美術館」が屹立している、そんな風情を、館長の風貌とともに、ぼくはしばしば思い起こすのです(左写真)。

 昨日は、アイヌの知里幸恵・真志保姉弟のことを思い起こし、本日はまた、謝花昇さんを、ことのほか懐かしい人として思い出しています。これも思っただけで、実現はしませんでしたが、一時期謝花さんのことを一冊の本にすべく、いろいろと資料を集め、少しばかりの原稿を書いたことがありました。かわいそうな人でもあったと思うと、なおさらに懐かしさがこみ上げてきます。そして、沖縄の今日の状況を見るにつけ、本土政府と国民は、今また「今日的琉球処分」をしているのだという思いを深くするばかりです。

 「沖縄だけの課題のごとく、矮小化されて『残念』と言われては困る」とはコラム氏の言です。米軍基地は沖縄が請け負う、そのような「返還協定」であったし、日米安保条約だったのですが、そこには一指も振れないで、「復帰」「返還」「五十年」だから、お祝いするのが当然だとするのが、嘘偽りだらけの政治家の、行政官の、そして多くの国民の「正直な」感慨であろうと思う。沖縄だけが我慢すれば済むことじゃないか、沖縄復興費もつけていることだし、という薄汚い「沖縄切り捨て」ではないでしょうか。ウクライナの「ジェノサイド」を見るにつけ、「沖縄戦」の地獄図を消すことのできない記憶として、ぼくは育ててきました。佐喜眞美術館には丸木位里入さん夫妻の「沖縄戦の図」が消えることのない「歴史」を物語っています。

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● 琉球処分(りゅうきゅうしょぶん)=明治政府のもとでなされた沖縄に対する強行的な廃藩置県。政府は,明治5 (1872) 年に琉球国を廃して琉球藩とし,中央政府の管轄とした。 1875年には内務官僚松田道之を処分官として琉球に派遣し,中国との関係を廃絶することを要求するなど,政府の処分の方針を伝えた。政府のこの措置に対しては,地元の士族層を中心とする反対運動があったが,政府は軍隊と警官を差向けてそれを押え,79年3月,琉球藩を廃し,沖縄県を設置する旨通告した。旧国王は東京移住を命じられ,ここに琉球王国は約 500年にわたる歴史を閉じて,日本の一県として措定された。 (ブリタニカ国際大百科事典)

● 謝花昇【じゃはなのぼる】=沖縄県の行政官・社会運動家。島尻郡東風平(こちんだ)村の農家に生まれる。1882年第1回県費留学生として上京,1891年帝国大学農科大学卒業。帰郷して県技師に任命され高等官となり,農業技術の指導や,貢糖制度の廃止に尽力。沖縄の近代化を専制的に推し進める鹿児島藩出身の県知事奈良原繁の施策にしばしば抗し,農民層の立場から県政の革新をめざした。1898年官職を辞して県民の参政権獲得運動を展開,また沖縄倶楽部を結成し機関紙《沖縄時論》を発行して奈良原批判・参政権要求等の論陣を張った。これらの活動から沖縄における自由民権運動の指導者と評されている。運動で家産を使い果たし,奈良原一派から徹底的に弾圧されて生活の道も絶たれ,1901年新任地の山口県に赴く途中に神戸駅で発狂して帰郷,貧窮と狂気のうちに死亡した。(1865-1908)(マイペディア」

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