人権という文化、それは決して「負け犬の遠吠え」なんかではありません
昨日紹介した鶴見さんの発言というか指摘で、さらに考察を進めなければならない問題だと、再度取り上げた次第です。
「抽象名詞も、暮らしの中に挿し木みたいに伸びていく可能性はあるんですけど、時間がかかるでしょう。『人権』という抽象名詞にしても、根づいてほしいんだけど、『人権』というと負け犬の遠ぼえみたいな感じがして、まともに金儲けしている人間はそんなこと言わんぞ、という反応が現に今の日本にあるでしょう。これでは困る。部分的にも今の暮らしとのつながりを回復しなきゃいけない。それは暮らしの前後の脈絡の中で使われてきた日常語を新しく使うことだと思うんです。昔の日本語から力を得ていく。抽象名詞は日本語の中で非常に少ないのですから、動詞や形容詞からもとらえていく。これは柳田国男が早くから言っていて、卓見だと思うんです」

鶴見さんのこの指摘には納得こそすれ、批判の余地はぼくにはないのです。「人権」とは何ですかと訊かれて、多くの人はどのように言うでしょうか。「人間が人間として当然に持っている権利。基本的人権」(デジタル大辞泉)大なり小なり、このように言うでしょう。それで間違いはないんです。テストでは「満点」です。しかしテストでよくできても、暴言やや暴力を誰かれに対してぶつけるということがないのかどうか。誰にも人権はあるのだ、といくら言っても、それを受け入れる人に対してしか通用しないし、世には人権を無視する輩が腐るほどいるから「負け犬の遠吠えみたいな感じ」といわれるのです。ぼくの拙い教職稼業では、もっとも苦しみ悩んだところです。「権利がある」とどれだけ主張しても、法律で規定しても、その権利を認める、尊重する人間がいなければ話にならない。民主主義は「言論の自由を最大限に認めること」だと授業で話している教師が、教師の話をさえぎってしゃべる子どもに向かって「静かにしろ」というのはお決まりの風景です。暮らしの中で使われている日常語を、どうして「人権」などという「余所行き語」、「外来種」に代えて使わないのでしょうか。
以下、少しは参考になるかと考えました、現代アメリカ哲学をリードしてきた、プラグマティズムの哲学者だったリチャード・ローティの発言です。
私たち人間の近年の自己形成活動の一つの結果として、人権文化の形成を挙げることができます。私はこの「人権文化」という用語をアルゼンチンの法律家であり哲学者であるエドゥアルド・ラボッシから借用しています。「当たり前のものと化した人権」という論文のなかでラボッシは、哲学者はこの人権文化をホロコースト後の世界の新しい、歓迎すべき事実と考えるのがよいと述べています。哲学者はこの事実から逃げ隠れしようとせず、またそのいわゆる「哲学的前提」を探ったり擁護したりするのをやめるべきであるといいます。ラボッシの見解によれば、アラン・ゲワースのような哲学者が人権は歴史的事実に立脚しないと主張するのは誤りなのです。「私の基本的見解によれば」とラボッシはいいます。「世界は変化を遂げた。人権の現象が人権基礎づけ主義を時代遅れで的はずれのものとしている」と。(リチャード・ローティ「人権、理性、感情」)

上の引用部分で十分に理解できないところがぼくには残りました。それを別の角度から吟味してみるとどうなるか。ここに二つの問いがあります。
①「なぜ私(人間)は道徳的でなければならないのか」
②「どうして私は親戚でもない、あかの他人のことを心配しなければならないのか」
この二つの問いは、基本的なところで異なった立場から発せられていると考えることができます。
①の問いは、人間はそれ以外の他の動物とはちがう。なぜならば人間には理性があるからだ、といった人間の条件を「理性」によって基礎づけるところから出されているともいえます。「良心」の命令に従うといったカントなどに代表される立場です。理性も人権も人間だけに備わる、一種の「知性(intelligennce)」だとするなら、それは明らかに嘘です。それくらいに人間は賢明であるといいのだがという、希望や期待を述べる分には構いません。しかし「人間の条件」を「理性」に基礎づけるのは、どう見ても間違いでしょう。理性が破綻しているか、理性なんかそもそも具備していないといいたくなるような「人間」が五万といるからです。「自国民の生命は尊重」するが「他国民のもの」は侮辱し、排除し殺戮しても構わないという「政治的指導者」がいるのです。
それに対して、②の問いは、人間と他の動物に違いがあるかないかはとりたてて問題にはなりません。大事なのは自分以外の他者が困難に陥っているときに自らの思いをそれに重ねることができるかどうか、そこに重要な視点をおいているのです。つまらないことを言います。ぼくのところに、今もたくさんの猫がいます。しばしば「猫が好きですか」と尋ねられます。「特別に好きではありません」と応えることにしています。また時には「なぜ、そんなにたくさんの猫を飼っているんですか」と言われると、「ぼく飼っているのではない(ペットなんかではない)、誰かがやらないから、ぼくが猫といっしょに生活しているのだ」と必ず言います。飼育しているのではないし、おもちゃのように楽しんでいるのでもありません。誰にも見られないで放置されているから、できる範囲で、ぼくが面倒を見る、それだけで。この理屈(感情)は、小さい時から、いささかも変わっていない。

「あそこに捨てられているのは、間違いなしにぼくだ」という、奇妙な感情がぼくを動かしてきたのです。これまでに、おそらく三十や四十では終わらない「猫たちや犬たち」と時を共にしてきたと思います。いずれの時も、共同生活する動機は「捨てられているのはぼくです」という気持ちでした。これは否定できないもので、勤め帰りに駐輪場で泣いている子猫を見ると、先に進めなくなる、散歩道で、段ボールに入れられていた生後一か月も経っていないような双子の猫、彼や彼女とは生涯付き合った。そんな、風変わりな経験を何度もしました。猫が笑った転んだ、立った座ったと人間並みを誇るかのような風体、それを高みに立って面白がるような趣味、優越主義の風潮など、そんなものはぼくにはまったくありません。ぼくがローティに引き付けられたのもこの部分でした。
道徳的であるとは理性的であるということだという哲学はつねに有効でありえたか。そんなことは決してなかったのは歴史の事実が証明しているでしょう。「理性的に悪逆を尽くす」というのは矛盾したいい方ですが、しかし、そうとしかいいようのない現象が連綿と続いているのは衆知のことがらでしょう。冷静沈着に人を殺す、そのための武器や弾薬までも製造しながら準備し、あまたの軍人を派遣して殺戮を実践するのです。悪意ある、悪意に満ちた「理性」といいたくなります。
教育というのはいつでも、そんな訳のわからない「理性に訴えるもの」だと考えられてきました。あるいは、理性を覚醒させるということに腐心してきたといえるかもしれない。私たちの課題である「人権問題」に関しても、何人にも生まれながらに与えられている、そんな「人権を尊重しよう」、「差別は止めましょう」と、なぜ繰り返し言わねばならぬのか。それは、存在が不明確な「あるかなきか」定かではない「理性」に働きかけるという「役目ずまし」の裏返しであり、今日でも「人権教育」は「啓発・啓蒙」に限るのだと、そればかりが盛んにいわれているのです。そのこと自体を否定するものではありません(否定しても肯定しても、人権の根拠は別の基盤に支えられているということに気が付かないとどうしようもないですね)が、それだけでは足りないというよりは、そこには明確な限界がある、とぼくはいいたいのです。お題目でことが運べば、神さんや仏さんはいりませんね。「理性」というのは、ある種の「メッキ(鍍金)」ではないですか。時と場合によっては、塗膜が剝げ落ちてしまう。地金が顔を出すのです。
「人間」とはこれこれの資格(男・白人・上層階級者などなど)を持ったもの、そのような勝手な定義が幅を利かせれば、「理性に訴える」教育はほとんど不毛になります。たとえば、フランス「人権宣言」やアメリカ「独立宣言」に見られる「すべて人間は…」というのは、第一義的には「男性」であり、女性は「人間」の範囲から排除されていたのです。もちろん白人以外は排除されています。今だって、その余波が続いているではないですか。

でも、「人権感覚の向上」という表現は適切じゃありませんが、なにかそこに「人間の基礎付け」論よりは可能性がありそうだと、ぼくには思われるのです。「あかの他人」と「わたし」は似ている。それは「真の人間性を裏づける深い、真の自我を共有する」からではなく、「両親や子供たちを大切にするというような、とても些細な、表面的な類似性」なのです。このような類似性なら「人間と、多くの人間以外の動物とのあいだに隔てなく存在します」(Richard Rorty)子どもを大事にするという一点(子育て)でも、猫は人間に劣らないものがあります。
どうでしょうか。人権主義がいつかしれず、人間中心主義に陥り、その人間中心主義はまた特定の集団(集合)中心主義にはまりこんでいないでしょうか。「部分的にも今の暮らしとのつながりを回復しなきゃいけない」という鶴見さんの指摘は、ここで改めてその真意を確かめることが求められるのです。(この部分に関しては、改めて触れることにします)「人権」という自分の内部に根をもたない言葉ではなく、ぼくと同じ人間、その類似性にこそ、ぼくたちは親和性を持つ可能性を認められるのです。同じ人間というだけでは足りません。いのちを持った存在、それが「類似性」の根拠になっているのではないですか。ヒューマニズムは「人間主義」「人文主義」とされてきましたが、さらにいえば「人間中心主義」であり「自己(自民族)優越主義」の別名になってしまっています。
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教師の真似事をしている間、ぼくはまことに微力でしたが、いろいろな問題を自らに重ねて授業を進める方向を求めていました。その一つに「冤罪」をテーマにいくつかの授業を実践してきました。無実の罪に落とされている他人に対して、ぼくにはなにができるのか、なにをしなければならないのか、なにをしたら自分にとっては責めを果たすことになるのか。そんな埒(らち)のない愚考・愚行を重ねながら、さまざまな人に教室に入っていただくことにしていました。その一人に、「狭山事件」の「無期懲役囚者」であり「再審請求者」である石川一雄さに何度か来てもらいました(最初は2006年でした)。「どうして私は親戚でもない、あかの他人のことを心配しなければならないのか」という共感の哲学にしがみつくこともできます。でも、もっと別な立場を選ぶこともできるでしょう。
石川さんは、ぼくたちの代わりに深い淵に落とされたのかも知れません。あるいは、石川さんはこの世の地獄で一人煉獄の苦しみを味わっているのではないのか。それは「袴田事件」の袴田さんも同様です。石川さんを招いた授業は公開形式でしたから、多くの学外者も来られました。このような「判決(裁判)」で、かくも長期間苦しんでいる方がいると知るだけでも、あるいは、自らの生活が変わることがあるかもしれません。そんな思いで、いまもなお、ぼくは石川一雄さんの「無罪放免」を心から願っているのです。

人権問題は一筋縄では片の付かない課題です。まちがいなく、ひとりひとりがその課題の前に立たされているのです。ローティは人権問題に対しては「人間の感情」に依拠することの有効性と可能性を述べました。「啓蒙教育」(「差別はやめましょう」)ではなく、「感情教育」 (sentimental education)(あんなに苦しんでいる彼・彼女がもしも自分であったなら、いったいいどうすればいいのか)に「人権文化」のかすかな、しかし確かな光を、ぼくも見ているのです。
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● ローティ(Rorty, Richard)[生]1931.10.4. ニューヨーク,ニューヨーク [没]2007.6.8. カリフォルニア,パロアルト=アメリカ合衆国のプラグマティズム哲学者,知識人。フルネーム Richard McKay Rorty。シカゴ大学とエール大学で学び,1956年に博士号を取得。軍務についたのち,1958~61年ウェルズリー・カレッジ,1961~82年プリンストン大学でそれぞれ哲学を教えた。その後,バージニア大学を経て,1998~2005年スタンフォード大学で比較文学を教えた。現代哲学を確実性と客観的真実を追究する疑似科学的な営みと考え,全面的に批判したことで知られる。政治面では,左右両派の主張に反対し,みずから命名した改革的な「ブルジョア・リベラリズム」を支持した。認識論の分野では,すべての知識は,それ自体正当化の必要がない基礎的信念によって基礎づけられる(正当化される)とみる基礎づけ主義に異を唱えた。また形而上学におけるリアリズムと反リアリズム,あるいは観念論をともに言語に対する表象主義的な誤った認識の産物として否定した。著書に『哲学と自然の鏡』Philosophy and the Mirror of Nature(1979),”Consequences of Pragmatism”(1982),『偶然性・アイロニー・連帯――リベラル・ユートピアの可能性』Contingency, Irony, and Solidarity(1989)などがある。(ブリタニカ国際大百科辞典)

● 狭山事件(さやまじけん)=1963年5月1日,埼玉県狭山市で起こった女子高校生誘拐・殺人事件。容疑者が被差別部落出身だったことから,差別による冤罪が問われた。逮捕された石川一雄は一審で容疑を認め,1964年3月浦和地方裁判所で死刑判決を受けた。しかし 9月東京高等裁判所での控訴審で,警察に自白を強要されたと一転して犯行を否認。思い込みや偏見に基づいた見込み捜査による冤罪事件として,1969年被差別部落出身学生によって「狭山差別裁判糾弾」を掲げた浦和地裁占拠闘争が始まり,その後部落解放同盟を中心に被告の救援活動,差別糾弾運動が展開された。1974年10月東京高裁は死刑を破棄して無期懲役を言い渡し,1977年8月に刑が確定した。ただちに東京高裁に第1次再審請求の特別抗告が行なわれたが 1985年に棄却され,第2次再審請求(1986)も 2005年に棄却。2006年5月に第3次再審請求が行なわれ,文化人,政治家,市民団体が再審を求めて支援活動を展開している。石川はその間の 1994年に仮釈放された。(ブリタニカ国際大百科事典)
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