以下に引用した「対談」は、この駄文集でも何度か取り上げています。お二人の話が面白いのは事実ですが、ぼくにとって、歴史や政治の問題に対する答えが与えられるからというのではなく、お二人の対談での話しぶりのことごとくが、ぼくがものを考えるきっかけ(手がかり・ヒント)を与えてくれるからです。そのような本をこそ、ぼくは「いい本」だと思うし、それを読むことは「いい読書」をしたということになります。何でもないようなことを言っていても、それを立ち止まってとらえなおしてみると、なかなか含蓄があったり、ぼくたちにとっても課題のままだという気がしてくるのです。この「「歴史の話」は2004年の発刊ですから、すでに二十年近くが経過しています。しかし、そこで語られている大半は、いわば「問題提起」であり、何時の時代にもぼくたちの前に据えられて解答を迫っているという塩梅なんですね。
鶴見さんと網野さんについては、簡単な履歴だけを以下に紹介しておきます。お二人とも、故人になられています。
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● 鶴見俊輔【つるみしゅんすけ】(1922-2015)=哲学者。鶴見祐輔の長男。東京都生れ。アメリカのハーバード大学哲学科卒業。1946年京都人文学園講師,1949年京都大学人文科学研究所助教授,1954年東京工業大学助教授となったが,日米安全保障条約調印に抗議して1960年辞職。1961年同志社大学教授となったが,大学紛争での警察機動隊導入に抗議して1970年辞職。〈転向〉などの日本近現代思想問題,大衆芸能など幅広い分野を研究対象とする。1946年5月には武田清子,武谷三男,都留重人,姉の鶴見和子,丸山真男,南博,宮城音弥,渡辺慧らと思想の科学研究会の結成,雑誌《思想の科学》創刊に参加。1960年の安保反対闘争では竹内好,丸山真男らとともに知識人の行動の中心的役割を担い,1965年にいいだ・もも,小田実,高畠通敏,開高健らとベ平連の結成に参加し,中心メンバーとして活躍した。主著に《大衆芸術》(1954年),《限界芸術論》(1967年),《日常的思想の可能性》(1967年),《不定形の思想》(1968年),《戦時期日本の精神史》(1982年),《戦後日本の大衆文化史》(1984年),《鶴見俊輔座談》(1996年。全10巻)などがある。(マイペディア)

● 網野善彦【あみのよしひこ】(1928―2004)=日本史学者。山梨県生れ。東京大学文学部卒。専攻は日本中世史。日本常民文化研究所所員,東京都立北園高等学校教諭,名古屋大学文学部助教授,神奈川大学短期大学部教授を経て,神奈川大学経済学部特任教授。文献史学を基礎として,中世の職人・芸能民および海民などの非農業民をおもな研究の対象とし,日本中世史研究に多大な影響を与えた。著書は《中世荘園の様相》《蒙古襲来》《無縁・公界・楽》《日本中世の非農業民と天皇》《異形の王権》《日本社会の歴史》など多数。妻の兄は民俗学者中沢厚で,厚の子は中沢新一。(マイペディア)
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〔本日の対談〕 鶴見 ひとつ考えていることがあるんです。日本の歴史というと、私は近ごろのことしか知らないのですが、知識人と大衆との関係ということがずっと気になっているんです。さっきの血管が狭くなっているという問題ですね。これが学問としての日本の歴史を大変に貧しくしていると思うんです。それは明治以後の日本の知識人の養成ルートとの関係があると思うんです。幕末の教育を受けた人たちは、その養成ルートに乗っていない。養成ルートは明治半ばからできているわけで、これができたあとが「概念のブロック積み」になってくるわけですね。抽象名詞から発していたと思うんです。このまま行くと能率的であるが転換期にたえられない。
抽象名詞も、暮らしの中に挿し木みたいに伸びていく可能性はあるんですけど、時間がかかるでしょう。「人権」という抽象名詞にしても、根づいてほしいんだけど、「人権」というと負け犬の遠ぼえみたいな感じがして、まともに金儲けしている人間はそんなこと言わんぞ、という反応が現に今の日本にあるでしょう。これでは困る。部分的にも今の暮らしとのつながりを回復しなきゃいけない。それは暮らしの前後の脈絡の中で使われてきた日常語を新しく使うことだと思うんです。昔の日本語から力を得ていく。抽象名詞は日本語の中で非常に少ないのですから、動詞や形容詞からもとらえていく。これは柳田国男が早くから言っていて、卓見だと思うんです。(中略)
これから改革しなきゃいけないことは、とても多いんですね。外国人差別、在日朝鮮人、アイヌへの差別など、たくさんの問題があるでしょう。それらの改革は次の「一八五三年*」類似の事件が起こるまで待たなきゃならないのか。大まかにいえば、私の問題はそれなんです。(*嘉永六年六月にペリーが大統領の国書を携えて浦賀に来航。翌安政元年一月再来し、開国を迫る)

網野 いまの高校の教科書を読んでいると、まったく「神話」といってもいいようなおかしなことが書かれており、いまだにそれが教壇で教えられているですね。たとえば、「江戸時代の農村は自給自足であった。日本の人口の八〇パーセントは農民であった」ということなどそのよい例ですね。これは戦後のマルクス主義も含む歴史学のつくってきた歴史像ですけれども、この歴史像にとどまる限り、「日本国」や天皇の就縛からは絶対に逃れられない。それをどうやって客観化できる立場に立てるかというのが現代のいちばんの問題だと思います。歴史学を勉強することは本当にコワイと思いますね。(中略)
鶴見 「君が代」もそうですね。詠み人知らずの歌で千年残ってきたというのは面白いことです。敗戦後、すぐ歌う気力があったら、占領に対するはっきりした抵抗で、それは立派なものだと思うんですけど、七年間歌わないできて、突然復活してくる。そして今度は「君が代」を演奏しているときは校長が生徒に立て、と強制する。(中略)
網野 いまのお話を伺っていて思いついたのは、津田左右吉さんのことなんです。…津田さんの本を私は全部読んでいるわけではないけれども、明治以後の歴史家の中では非常に特異な方だったという感じを持っているんです。津田さんは「生きた生活」という言葉が大好きで、彼が言おうとしたのは、極端にいえばいままでの日本の文学にせよ、思想にせよ、すべて本当の日本人の生きた生活に根ざしたものではない、ということだと思うんです。有名な「文学に現はれたる我が国民思想の研究」(一九一六~二一年)をはじめ、一貫して言おうとしているのはそれだと思うんです。
津田さんの書いたものには「生きた生活」という言葉がいたるところに出てくるんです。江戸時代の儒者に対する批判、国学者も同じで、みんな生きた生活から離れている、という言い方で批判を加えていくわけです。(鶴見・網野編『歴史の話』朝日新聞社刊)
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この「対談」では、上に引用した部分でもいくつかの重要な指摘があります。中でも取り上げてみたいのが、「暮らしの前後の脈絡の中で使われてきた日常語」(鶴見)、「本当の日本人の生きた生活に根ざしたもの」(網野)、「生きた生活」(津田左右吉)という部分です。知識でも学問でも、あるいは学校教育においてさえも、「生きた生活」が問題にされないままで「概念のブロック積み」が無意味に重ねられているというのは、この指摘を待つまでもなく、いつでも等閑視されてきたのでした。明治以降に限って言うと、舶来主義、西洋文物偏重(文明開化)はずいぶんといわれてきましたが、それが十分に日常生活に入って「咀嚼」されないままで、宙ぶらりん状態ではやりはしますが、また新たな到来物が来れば、簡単に捨てられてきました。これがこの島の「近代史」であり、その後半は、文明開化の反動として「日本主義」とでも異様でけったいなイデオロギーが物を言い出したのでした。今もなお、性懲りもなく、同じことが繰り返されていますね。
学校で学ぶ事柄のほとんどは「子どもの生きた生活から離れている」と、何時でもいわれてきました。子どもの生活を豊かにするための教育でありながら、およそ学校教育は「子どもの生活と遊離」してくるのはどうしようもないのでしょうか。お二人の指摘された時代から見て、いまではもっと荒んだ状況が蔓延していることが認められます。「子どもの生活」「生きた生活」というものの実態は、何でしょうか。ぼくには見当がつきますけれども、内容は空虚というか浅薄というか、それ自体は子どもの側に問題があるからではなく、むしろ、子どもたちが存在する社会の環境にこそ、大きな原因が潜んでいるのです。
(根本は、「言葉(標準語・共通語)」の壁です。各地各所に育てられ、生活に生かされていた「方言」は、明治以降「撲滅・排除」の対象になり、学校では「お仕着せ」「余所行き」の「急ごしらえの言葉」が強制されてきたことに大きな原因があるでしょう。使いなれない言葉は、口ごもるか、舌を噛むしかないのです)

鶴見さんが出している「人権」という言葉そのものにしてからが、百年一日の如く、教科者や辞書の示す範囲を一歩も出ないで、まさに「死んだ言葉」として空しくささやかれているのではないでしょうか。「人権蹂躙」「人権侵害」は、いつでもどこにでも生じているにもかかわらず、不自由で不分明な「人権」という「抽象名詞」を振りかざすばかりで、「生きた生活の語」としてはまず用いられていないのです。この理由はどこにあるか、それこそが、「対談」の課題ではあったのです。

「人権」という言葉は借り物ではありますが、その借り物で表現される「実態」は、正真正銘の本物で、いつでも危殆に瀕しているのは、その「人権」という価値そのものなんですね。多発してやまない「いじめ」という問題に関しても、何時だって「いじめはいけない」「他人の人権は尊重しよう」という、そんなお題目教育ではなすすべもなく、それとは無関係に、人権破壊を許しているのです。いかにして、子どもたちの「生活」に浸透する学習や教育ができるのでしょうか。「一流」とか「名門」とか言われる「屑のような学校」に進学することだけが関心事であるのは、ごく一部の教師や親たちなのでしょうが、その一部が「学校教育の現在」を人質にし、多くの人の豊かに「生きる権利」を略奪しているといえないでしょうか。
誰もが「一流」や「名門」を望むのではない、そんなことは言われなくてもわかっていると関係者は言うでしょう。「わかっている」の中身は何か。分かっちゃいるけど、やめられないというのでしょうか。

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(ここに津田左右吉さんの名前が出てきます。彼の書かれたもののおおよそは読みましたが、十分にわからないことばかりが残りました。彼の「お弟子」に当たる先輩(日本近代史・故人)と親しくしていただいていましたから、よく津田史学の話をしたことを思い出しています。「生きた生活」を歴史の中でとらえようとすると、なかなかに面倒なことが生まれるのでしょうね。神話を神話といった廉で、それが「天皇制批判」であるとして、戦時中に、津田さんは事件に巻き込まれたことがありました。不自由な時代が、近い過去(八十年ほど前)にもあったのです)
「生きた生活」に結びつく研究学問もまた、権力の忌避するところだったとなると、学校教育が「子どもの生活と遊離」するのは、当然であるともいえそうです。言いたいこと、言わなければならないことを、子どもたちが発言する力をつけると、教師や学校教育関係者は非難の的になるのでしょうかねえ。「社会の実相」が子どもたちに見抜かれることにもなるでしょうから。

● 津田左右吉【つだそうきち】(1873-1961)=歴史学者。岐阜県生れ。1891年東京専門学校(のちの早大)卒。のち満鉄調査部に入り白鳥庫吉の下で満州(中国東北)・朝鮮の地理・歴史を研究。1919年早大教授。記紀の文献学的考証を行い,その説話が天皇支配を正当化する意図でつくられたものであることを論証。そのため1940年著作の《神代史の研究》《古事記及日本書紀の研究》《日本上代史研究》《上代日本の社会及び思想》が発禁となり1942年〈皇室の尊厳を冒涜(ぼうとく)〉したとされ有罪。《文学に現はれたる我が国民思想の研究》の大著や《道家の思想と其の展開》《左伝の思想史的研究》が独創的な研究として名高い。第2次大戦後は天皇制擁護の立場をとった。1949年文化勲章。(マイペディア)(ヘッダー写真:橿原市;https://www.city.kashihara.nara.jp/kankou/own_kankou/kankou/spot/jinmu.html)
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