デュナンとハチ公と蛮行と善意の発現と

 【筆洗】旅先の北イタリアで凄絶(せいぜつ)な戦闘に出くわしたスイスの実業家アンリ・デュナンは、多くの負傷兵が治療を受けずに死んでいく非情な光景を目の当たりにする。助けようと駆け回るが、素人の手ではなすすべもなかった▲1859年夏、イタリア統一戦争で半日のうちに4万人超の死傷者を出した激戦地ソルフェリーノでのことだ。デュナンは敵味方を問わず治療と看護にあたる救援組織の創設を訴え、4年後に誕生したのが赤十字国際委員会である▲翌年には戦場での「医療の中立」を定めた赤十字条約が締結され、病院や医療従事者への攻撃が禁じられた。差別なく人間の尊厳を守ることは、たとえ戦争中であっても守られるべき規範として約160年後の今に受け継がれている▲だが、ロシアが侵攻したウクライナの惨状は目を覆うばかりだ。世界保健機関(WHO)によれば、病院、救急車、医療従事者への攻撃は120件以上に及ぶ。産科や小児科、がんセンターも含まれ、死傷者は120人を超える▲影響は計り知れない。医師や患者が命を落とすだけでなく、新たな患者の受診機会を奪う。医薬品や医療機器が不足し、治療ができず、感染症が広がる恐れもある。WHOは国際人道法違反と非難し、人権団体は「戦争犯罪」と糾弾する▲不幸にして戦争が起きても、被害を最小限に抑えることは紛争当事者の義務だ。非軍事施設を標的にしたり、民間人を攻撃したりすることはあってはならない。医療を破壊する行為はもってのほかだ。(毎日新聞・20022/04/18)

● ジャン・アンリ デュナン(Jean Hennri Dunant)1828.5.8 – 1910.10.30=スイスの実業家。ジュネーブ生まれ。大学卒業後、フランス支配下のアルジェリアでアフリカ貧困救済のための製粉会社を営んでいたが思わしくなく、事業の再建交渉のためにパリへ赴く途中にイタリア統一戦争に会い、戦地での悲惨な状態を目の当たりにして看護に献身する。この体験を「ソルフェリーノの思い出」として出版し、戦場における中立的救護機関の設置を各国に訴えた。この提案に基づいて、1863年にジュネーブにヨーロッパ各国代表が集まって、赤十字規約を決議し、翌年には12カ国間で赤十字条約が調印され、国際赤十字の基礎となった。1901年に第一回のノーベル平和賞を受賞した。(20世紀西洋人名辞典)

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 【天風録】ウクライナのハチ公 13年前、ある映画の最中に「ヒイッ」と大声で泣き伏す外国人らしき女性に驚いた。リチャード・ギア主演の米映画「HACHI 約束の犬」。亡くなった飼い主の姿を求め、秋田犬が震えつつ歩く。確かそんな場面だったか。さぞ琴線に触れたのだろう▲けなげに主人を待ち続ける忠犬―。言わずと知れたハチ公の物語のリメーク版を通じて、秋田犬の忠誠心は世界中に伝わったらしい。とりわけ富裕層が力を増しつつあった大国ロシアに▲映画公開から3年後、かのプーチン大統領に秋田犬「ゆめ」が本場の知事から贈られる。東日本大震災への支援の礼として。立派な主人に恵まれて幸せ、と多くの愛犬家も喜んだはずだ▲ゆめが忠誠を尽くしてきた飼い主の暴挙で、新たなハチ公が生まれるとは。ウクライナの首都近郊マカリウでロシア兵に虐殺された女性の家を離れず、1カ月待ち続ける秋田犬の姿が地元メディアで伝えられた。幸い引き取り手が見つかったらしい▲涙するどころか大声を上げ非難すべき話だ。黒海旗艦の沈没など戦局を占う情報に目が行くが、ウクライナを忠犬化したいロシアの蛮行でささやかな幸せが日々、奪われているのを絶対に忘れまい。(中国新聞・2022/04/17)

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 「あいつはプーチンの犬だ」といわれているのかどうか、いろいろなところにいろいろな「犬」がいます。人間を指して犬というようですが、それは犬には名誉なことなんかではなく、むしろ「侮辱」であり、「名誉棄損」でもあるでしょう。「他人の秘密などをかぎ回って報告する者。スパイ。「官憲の―」人をののしっていう語」(デジタル大辞泉)というように、実にひどい使われ方をしています。犬からすれば、いずれもが「濡れ衣」だといえそうですが、それだけ、「主人に従順(を偽装しているのかも)」だと見下されているのです。けっしてそうじゃないと、ぼくは経験から学んでいるのですが。だから、ついには「飼い犬に手を噛まれる」ということにもなる。無謀な権力者の「秋田犬」は「夢」と名付けられたそうですが、とんだ「悪夢」(この犬には無関係です)を悪逆非道の権力者は見たものでした。

 アンリ・デュナンについては、ぼくは何かを言うことはできません。貧困と弱者に対する「飽くなき善意」ともいうべき志を捧げた人という印象を、ぼくは維持してきました。ナイチンゲールなどの看護者にもぼくたちは「生命へのいとおしさ」と「戦争への憎悪」を強く感じるのですが、いずれの人々にも、いわば「本能的善意(「よくあってくれ」、「幸せになってほしい」という心底からの願い)」というものの存在を強く教えられます。人間には「善意(goodwill)」がある以上は、「悪意(ill will)」もまた、われわれの心中深くに息づいてるのです。それを「本能」といってもいいのではないでしょうか。他者に対して「悪意を抱け」と教えられ(命令されて)、そうなるというのではなさそうで、いやおうなしに「悪意」は生み出される、湧き出てくる。それをどのようにして上手に「解放」するか、「爆発」させないようにできるか、そこに「道徳」の問題があるのです。脳幹に属する「攻撃性」に根差す暴力もまた、われわれの深くに内蔵されています。それが時には「大爆発」するのです。たった一人の思慮のない「権力者」の「悪意」が多くの人々の「善意」を虚仮にし、踏み躙(にじ)るのです。

 では、一方の「善意」はどうでしょうか。これもまた、「本能」としてぼくたちは内蔵しているともいえます。「他者には優しく」「困っている人を助けてあげなさい」というのは「道徳教育」のお題目ですが、もしそのような教育でうまくいくなら、苦労はしません。幸か不幸か、人間のうちには「悪意」と「善意」は、生来的に備わっているのではないですか。ぼくはそのようなものとして、自らの内なる「悪意」と「善意」の格闘・葛藤を経験してきたのです。その系統樹は、「息をする」(生命保存本能)というレベルから、相手を威圧・攻撃するというレベル「情動」、さらには「愛憎」という「情感・情念」に至り、ついには他者を敬愛する、他者への献身という「感情」にまで、一続きに連なっているともいえます。

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 人間が抱く「悪意」は本能に根差しつつも、それを育てる環境や教育というものがあるのでしょう。「自民族中心主義(エスノセントリズム)」は、生まれた環境とそこにおける教育によって、培われてきたものでしょうし、それはまた「他民族蔑視・他民族排除」に連続してもいます。戦争の原因はさまざまでしょうが、それを持続させるエネルギーは自民族優越主義であり、他民族蔑視であるのは歴史の示すところです。これは「本能」ではなく、悪しき環境と教育の賜物(たまもの)でしょうし、政治権力の悪意はそこを利用して、覇権を得ようとするのです。このことは、個人の場合にも事情は変わらないと、ぼくは考えています。「いじめ」は、この事情を語っている。

 「善意」も環境や教育によるところは皆無ではないといえますが、「悪意」同様に、本能に根を持っていると、ぼくは考えてきました。いわば「本能による善意」です。このことを考える大きな手掛かりになる事件が二十数年前にありました(もちろん、そればかりではなく、これまでにも無数の事例がぼくたちの歴史の中には刻印されているのです。デュナンの善意もまた、その一つであるといっていいでしょう)。以下に、その記事を紹介しておきます。民族や人種をを超えた「本能」ととらえるべき問題だといいたいのです。

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 新大久保駅 転落者救助の韓国人留学生ら死亡から21年で追悼 JR山手線の新大久保駅で、ホームから転落した人を助けようとした韓国人の留学生と日本人の男性が電車にはねられ死亡した事故から26日で21年となり、関係者などがホームで黙とうをささげました。 / JR山手線の新大久保駅では、2001年1月、韓国人の留学生イ・スヒョン(李秀賢)さん(当時26)とカメラマンの関根史郎さん(当時47)が、ホームから転落した男性を助けようとして電車にはねられ、3人とも亡くなりました。

 続いてて行われた追悼式には、新型コロナウイルスの感染拡大に伴い、ことしも日本訪問を見送ったイさんの母親、シン・ユンチャン(辛潤賛)さんがビデオメッセージを寄せました。/ この中でシンさんは「1月26日に新大久保へ行くと息子に会えそうな気がして、日本訪問を心待ちにしてきました。21年間変わらずに温かく迎えてくれた支援者の皆さんに感謝申し上げます」と語りかけました。/ イさんが生前、日韓両国の懸け橋になりたいと話していたことから両親らが見舞い金などをもとに設立した基金によって、これまでに19の国と地域の留学生あわせて1059人が奨学金を受け取っています。(NHKWEB:2022年1月26日 17時35分 )(https://www3.nhk.or.jp/news/html/20220126/k10013451361000.html

HHHHHHHHHHHHHHHH

 数日前に、アメリカフロリダ州で、衝撃的な事態がありました。いかにも今日の時代を感じさせるように、事態の一部始終が「カメラ」に収められていたのでした。交通量の激しい交差点で、一人の女性が運転中に「意識を失った」。車はゆっくりと前進し続けたのですが、その運転手の同僚だという、一人の女性が自分の車から飛び出して、交差点に侵入する車を止めようとし、さらに周りの人々にも事態の窮迫を知らせました。車が激しく行きかう交差点で、このような場面に遭遇した際に、人々はいかなる行動をとるのでしょうか。記事では「勇敢な人々」とありますが、ぼくに言わせれば、本能からの「善意」「善意という本能」に突き動かされた人々の行動によって、事故もなく人命も守られたのではないでしょうか。瞬時の行動によるものでした。しかし、この事態を横目で見ながら走行を続ける人もいたでしょう。これは、しばしば起こる事件ですが、小さな子どもが川や海で溺れた際に、自分が泳げるかどうかにかかわらず救うために飛び込む人があり、あるいは不幸にして、飛び込んだ人の命が失われるということもあるでしょう。死に瀕している、危機一髪の緊急事態に、後先を顧みずに、人間には急場を救うという本能があるのです。以下は、その時の場面です。(この映像を見ながら、ぼくは、人間の計り知れない「善意」を感じていたし、転じて、ウクライナでは計り知れない「悪意」を見せつけられています。どちらも「人間の・情動・情念・感情」であるのです)

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【映像】運転手が気絶、徐行するクルマに駆け寄り救出した勇敢な人々

 <救出された女性は、助けに協力してくれた人々との再会を望んでいる> 運転中に意識を失った女性が勇気ある大勢の人々によって救出される動画がソーシャルメディアで話題になっている。この映像は5日に記録されたもので、米フロリダ州のボイントンビーチ警察が11日(現地時間)に公開した。/ 異変に気付いたのは、近くにいた彼女の同僚だった。交通量の多い交差点であらぬ方向に進んでいくクルマを見た同僚の女性は、信号待ち中の自身の自動車から飛び出し、全力で追いかける。/ クルマに追いつくと窓を叩き、同時に他の車両に緊急事態だとアピールしているのが分かる。徐行するクルマが交差点を渡りきると、近くにいた別のドライバーらも駆け寄ってきて彼女に協力し始める。/ クルマが進むのを力ずくで阻止するもドアや窓を開けられずにいると、ある女性がダンベルを持ってくる。近くにいた男性がそれを受け取り、後部座席の窓を破壊。ようやくドアを開けるのに成功し、ドライバーを救出することができた。(以下略)(https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2022/05/post-98677.php)(2022年5月13日:newsweek)

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 道徳の問題としてみるに、善意(goodwill)とはどういうものでしょうか。それは人々のうちに教え育てられて、根付くのでしょうか。ある人には「当然の行い」であっても、他の人はそうは思わないということもあるのでしょうか。どんな人にも「善意」はあるといって、間違いではないのかどうか。悪意の方は、どう考えたらいいのでしょうか。人の助けになりたいと、冷静に考えることはできますが、瞬時に、道徳的な行為をなすというちからもまた、人間にはあるのではないかとも思う。その反対の例を考えれば、ますます、ぼくたちは「善意」というものの、深さと広がりに信を持ち続けたいと願うばかりです。ぼくたちが想像する以上に「本能」というものは深さと広がりをもっているのです。

 一例です。「母性本能」などと、肯定的に使うことがあります。いまでは「母性愛」と言い換えているでしょうが、これもまた一つの本能とみられています。しかし、それはいつでも効果的・肯定的に発揮されるかどうかは、断言できないのです。幼児虐待や、育児放棄などの問題行動は、生命は、時には「破壊の対象」にさえなるということを、実例をもって示しています。いずれにしても正と負(といえるような)の「本能」の、ある意味では「格闘の場」「葛藤の舞台」(そこに芽生えるのが「道徳意識」ではないですか)、それが「人間の器量」なのかもしれません。例によって、結論なしの駄文であります。(今日の研究領域においては、この程度のことに関しても議論百出という状況にあるということ)

(ウクライナの解放された地域で恐ろしい光景=大統領報道官https://www.bbc.com/news/world-europe-61017352)

PPPP

● ほんのう(本能)instinct(英),Trieb(独)=生活体に内在し,行動を引き起こす生得的なメカニズムあるいは衝動を本能という。このことばは古くから使われている日常語であると同時に,心理学およびその関連領域で,さまざまな研究者が専門用語として使用してきた。このため,その定義とそれが指し示す範囲は,多様なものとなっている。(最新心理学事典)● 能(ほんのう)instinct=種に特有な一連の生得的(遺伝的)行動の機制を意味し、本能に基づく行動を本能的行動という。反射reflex、動性kinesis、走性taxisも生得的行動であるが、反射はおもに身体の部分的行動をさし、本能的行動は全体的行動をさしていう。動性、走性は全身の行動であるが比較的単純な反応であり、これらからも区別される。また、反射、動性、走性は瞬時の環境状態に一義的に依存する反応であるが、本能的行動は、いちいちの反応が状況に可塑的に応答しながら固定した様式をもつ、一連の反応系列として現れる場合をさしている。(ニッポニカ)

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投稿者:

dogen3

 語るに足る「自分」があるとは思わない。この駄文集積を読んでくだされば、「その程度の人間」なのだと了解されるでしょう。ないものをあるとは言わない、あるものはないとは言わない(つもり)。「正味」「正体」は偽れないという確信は、自分に対しても他人に対しても持ってきたと思う。「あんな人」「こんな人」と思って、外れたことがあまりないと言っておきます。その根拠は、人間というのは賢くもあり愚かでもあるという「度合い」の存在ですから。愚かだけ、賢明だけ、そんな「人品」、これまでどこにもいなかったし、今だっていないと経験から学んできた。どなたにしても、その差は「大同小異」「五十歩百歩」だという直観がありますね、ぼくには。立派な人というのは「困っている人を見過ごしにできない」、そんな惻隠の情に動かされる人ではないですか。この歳になっても、そんな人間に、なりたくて仕方がないのです。本当に憧れますね。(2023/02/03)