皐月の「皐」とはどんな言葉ですか?

 先日、友人から「五月は皐月(さつき)というけれども、皐月の『皐』とは、どんな意味ですか」と訊かれた。答えるのが面倒でしたから、ご自分でお調べくださいと言っておいたのですが、この「皐(こう)」という漢字には、実に多様な使われ方があります。今では旧暦五月の「異称」というのだけが知られていますが、なかなか、どうして。この字ひとつで「さつき」と読ませています。あるいは、「おか」(岡・丘とか阜)などを表す時もあります。地名には陽皐(ひさわ)村があります。長野県下伊那郡です。その昔、一度通過したことがあります。さらには岐阜県可児(かに)市には皐ケ丘(さつきがおか)があります。「皐(さわ)」とは、水辺あるいは沢辺・岸辺という意味に使われます。

 ぼくの悪癖(病)には「辞書にハマる」というのがありますが、たった一つの漢字にも長い歴史があり、それを調べているときは、何とも楽しい瞬間です。その履歴をさかのぼればさかのぼるほど、楽しさは倍増します。人名にあてて「すすむ」「たかし」などと読ませているようです。他よりも高い地形や土地の形状を言い当てたものですね。あるいは、これはまだ調べがついていませんが、「大声で叫ぶ・呼ぶ」という時にもこの字が使われることがあります。「皋(こう)」の原字で、「魂呼(たまよ)びの声の意に用いる」と、「角川新字源」にあります。(「魂呼び=死者の名を呼んで、離れていく魂を呼び戻す儀礼。枕頭 (ちんとう) や屋根の上で、あるいは井戸の底に向かって大声で呼ぶ。たまよばい」)(デジタル大辞泉)

 また、「詩経」が出典となって、しばしば使われてきたものに「鶴九皐に泣き、声天に聞こゆ」があります。(「鶴鳴九皐(かくめいきゅうこう)」あるいは「九皐鶴鳴」などともいう)どんな辺鄙な山の中に隠れていても、その鳴き声はいつしか天下に知れ渡るとでもいうのでしょう。いかにも「隠者」の名声というものの「目立つさま」をいうのですが、可笑しいですね、隠者はあくまでも隠者であってほしい、ぼくはそういう主義みたいなものを持っています。目立てば、隠者じゃではないじゃないですか。その「隠者」という因縁では、しばし昔の出来事を思い出します。

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 若いころに、スイス生まれで、イタリア系の思想家・ペスタロッチーに親しみましたが、彼の主著と目されるものに「隠者の夕暮(Abendstunde eines Einsiedlers)」というものがありました。我ながら、心して読んだものです。(彼について話せば、また際限がなくなります、本日はしません)ぼく個人にとっても、実に大事な人でしたね。彼はジャン・ジャック・ルッソオの思想から大きな影響を受けました。熱心な宗教家でもあった人で、この点では、放蕩者だったルッソオの後塵を拝するようなことはなかった。ぼくは、学生時代の友人といっしょに、彼の著作をよく読んだり、話し合う機会を頻繁に持っていたことを懐かしく思い出します。ペスタロッチーはいろいろなところで教育や保育にかかわる事業を実践したのですが、シュタンツ・ブルクドルフなどに交じって、ノイホフでも優れた実践を展開した。ぼくの友人はキリスト者でもあり、生まれた長男に「希望(Hoffnung)」と命名したのは、「ノイホフ(Neuhoff)」に因(ちな)んだからだということでした。ぼくと異なり、彼は保育の世界では優れた仕事を遂げられました。というように、ペスタロッチーにかかわって、よしなしごとがそこはかとなく偲ばれてきます。おそらく、彼はまぎれもない「聖人」の一人でしたろう。

 彼の言葉でぼくが、もっとも打たれたものがあります。「だらしない人間を教師にすることがどんなに危険か」というものです。ぼく自身、ついには「教師」ではなく「教師の真似事みたいなもの」しか、それもまことに不十分にしかできなかったという大いなる悔恨が、いまになっても疼(うず)いています。さらに加えれば、「生活が陶冶する」というのがありました。学校も家庭も、洋の東西を問わず、ひたすら「教える」ことに特化しているようですが、子どもが自らの経験から学び、己れ自身の生活を送ることが何よりの「ビルドゥング(Bildung)」となる、つまりは子どもを鍛えるのは「生活」だというのです。(こんなことにこだわっていると、ペスタロッチー論を書く羽目になりそうです。それにしても、ぼくには懐かしい人ですね)

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● ペスタロッチ(Pestalozzi, Johann Heinrich)[生]1746.1.12. チューリヒ [没]1827.2.17. ブルッグ=スイスの教育家。牧師を志してカロリナ大学に入学し,社会改良,政治改革を目指して活動したが,志望を弁護士,農業経営者と変えたのち教育事業に入った。ノイホフ,シュタンツ,ブルクドルフ,ミュンヘンブッフゼー,イベルドンなどで新教育を実践。彼は社会的新人文主義の立場にあるが,ルソーの自然主義思想の影響を多分に受け,自発性や直観を重視している。また宗教的,道徳的心情を中心とした調和的発達や社会生活,家庭生活による基礎陶冶を重んじた。主著『隠者の夕暮』 Die Abendstunde eines Einsiedlers (1780) ,『リーンハルトとゲルトルート』 Lienhard und Gertrud (81~87) ,『ゲルトルート児童教育法』 Wie Gertrud ihre Kinder lehrt (1801) ,『母の書』 Buch der Mutter (03) 。(ブリタニカ国際大百科事典)

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 本日は、今を盛りに咲いている「ヤマボウシ(山法師)」の写真を数枚出してお茶を濁そうとしていたのです。拙宅にも一、二本、まだ若い木ですが、裏の庭にあります。遠くから見ると、白い塊が丸々と茂って、まるで季節外れの「雪だるま」のようにも見えます。この時期、似たような木々が青葉若葉に実をつけて、本当に「皐月」の爽やかさを感じさせてくれるのです。ところが、どういう事情か、この五月を「悪月(あくげつ)」ともいうのですから、さまざまですね。常用辞書では「陰陽道 (おんようどう) で、凶の月。 運の悪い月。めぐり合わせのよくない月。 《中国で5月を凶事の多い月とし、また、5月5日の出生を凶としたところから》陰暦5月の異称」(デジタル大辞泉)

 ところ変われば、「吉凶」「陰陽」も変わるというところですかな。ある場所の「北」は、別の場所からは「南」になる、「北には南が含まれている」というのですかね。

ああああああああ

 ヤマボウシ 新緑に映え 富山(写真 ⇑ ) 富山市新総曲輪の歩道脇で、ヤマボウシが花を咲かせている。雲間から時折日が差した12日は、小さな花を囲む白い総苞片(そうほうへん)が木々の新緑に映え、散歩する親子連れらを楽しませていた。(北日本新聞・2022/05/13)

HHHHHHHHHHHHH

 「ヤマボウシ」、どこにでも見られる木ですが、その名前がいろいろあるのは、面白いですね。ところ変われば、名前が変わる。実は、ことなった木に、同じ名前が付けられているのはよくありますが、これも、その一つです。ヤマボウシをヤマグワなどといっているところがまことに多い。似て非なるものは、森羅万象、どこにでも存在するので、それを区別するのも面倒だということでしょうか。四捨五入の思想ですね。もっと言えば、四九捨五一入、よく見なければ、違いがわからないという発想です。なかなかいいですね。大同小異ではなく、大同大異、小同小異です。それもこれも、みないっしょ。

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 下は、ヤマボウシの花と実です。

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● ヤマボウシ(やまぼうし / 山法師)[学] Cornus kousa Buerger ex Hance=ミズキ科(APG分類:ミズキ科)の落葉高木。高さ10メートルに達する。幹は灰褐色。葉は対生し、楕円(だえん)形または卵円形で長さ4~12センチメートル、全縁。花は6~7月に開き、淡黄色で小さく、多数が球状に集合し、大形の花弁状で白色の総包片が4枚ある。総包片のない大形の散房花序をつける同属のミズキより進化した植物と考えられている。果実球形で径1~1.5センチメートル、赤く熟し、食べられる。山地に普通に生え、本州から九州、および朝鮮半島、中国に分布する。名は、頭状花序を僧兵の頭に見立て、また白い総包片を頭巾(ずきん)に見立てたもの。果実が食用となるため、山に生える桑という意味からヤマグワともいわれるが、同名のクワ科のヤマグワとはまったくの別種である。材は器具材として用いる。(ニッポニカ)

● ヤマボウシ(山法師)Cornus kousa; Japanese strawberry tree=ミズキ科の落葉高木で,ヤマグワともいう。北海道を除く日本各地および朝鮮半島に分布し,各地の山野に普通にみられる。は直立し高さ 10mに達し多数分枝する。葉は対生し,楕円形ないし卵円形で長さ6~10cmになり,全縁で多少波状にうねる傾向がある。下面の葉脈の分岐点には褐色の毛がある。初夏から夏に,短枝の先端に短い柄のある頭状花序をつける。この花序全体を4枚の大きな白色の包葉が包み,これが花弁のようにみえる。本来の花は小さく,淡黄色の目立たない花弁4枚とおしべ4本,めしべ1本でできていて,数個ずつ頭状に集る。果実球形の集合果となり,秋に赤熟して食べられる。しばしば植物園や庭園に植えられる同属のハナミズキ (花水木)は,アメリカ原産で早春に開花し,総包片が淡紅色になるものがあり,果実は集合果とならない。(ブリタニカ国際大百科事典)

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 下の写真、左二枚は「山椒・さんしょう」で、右がヤマグワです。このほかにヤマグミやサンシュユなどがあり、似ているというより、まるで親子姉妹・兄弟(親戚)のように見えてきます。元をたどれば、祖先はいっしょだったのかも。人間だって、そうですね。人種や民族と、似た者同士なのに、うるさいことをマジで言い募り、どっちが優れているかと、根も葉もないバカな物種を争う(三ミリ五ミリの違いに命を懸けて鎬(しのぎ)を削るという愚愚愚、愚愚愚、その挙句が「殺し合い」だということになれば、元も子もありません。先祖は同じ、これでどこが不満なんでしょうか。「あんなのといっしょだなんて、沽券(こけん)にかかわる」というなら、そんな「沽券」なんか捨ててしまえ。この「沽券」というのは…、と言い出すと終わらないので、ここまでにします。昨日は、猫(女の子)一人、本日は猫(男の子)が一人、「動物病院」で手術中(避妊と去勢)です。午後に迎えに行かなければなりません。四月末日には、また子猫が生まれ、家に住み着いています。「坂上家」ではありませんが、「軒を貸して、母屋を取られた」というのが実感です。(ええっ、いくつ生まれたかって、怖くって、とても話せません) 

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投稿者:

dogen3

「上を思えば限りがないと、下を見て咲く百合の花」になれるものなら、という想いです。それこそ、「高嶺の花」ですが。「昨日は俗人 今日は僧、生涯胡乱(うろん)これがわが能」と自称した一休さんは、一面では「相当な人物」だったと、歳をとるとともに思わされています。