77年後にファシストやナチスがよみがえり、…

(上の写真は、ロシア・ウラジオストクで行われた「不滅の連隊」(2022年5月9日撮影)。(c)Pavel KOROLYOV / AFP)(ヘッダー写真:9日、モスクワの「赤の広場」で、第2次大戦に従軍した親族の写真を掲げて行進するロシアのプーチン大統領(中央)ら)(AFP時事)

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【5月10日 AFP】ロシアの首都モスクワで9日、第2次世界大戦(World War II)中のナチス・ドイツ(Nazi)との戦いの犠牲者を悼む「不滅の連隊」が開催された。参加者の多くは、ロシアがウクライナで再びナチズムと戦っていると信じている。/ ロシアでは毎年、5月9日が旧ソ連の対独戦勝記念日となっており、各地で「不滅の連隊」が行われる。/ モスクワの赤の広場(Red Square)で行われた行進には、ウラジーミル・プーチン(Vladimir Putin)大統領が参加。父親の写真を手に行進を先導した。/ プーチン氏は2月24日、ウクライナの「非ナチ化」を掲げ、同国に侵攻した。

 行進に参加したタイーシャ・チェプリナ(Taisiya Chepurina)さん(81)は、スターリングラードの戦い(Battle of Stalingrad)に参加した夫のセピア色の写真を持っていた。/ 夫を亡くしたチェプリナさんは、ウクライナのナチスがロシア兵を撃つなら、ロシアの軍事作戦は正当化されると主張する。/「プーチンはうまく政治をやっている。私たちの兵士が死なないよう、流血がなるべくないよう配慮している。プーチンは素晴らしい」/ 行進を見学する沿道の老若男女からは、時折、ロシア軍「ウラー(万歳)」や「ロシア」という掛け声が上がった。/ 同じく行進に参加した経済学者のアナスタシア・リビナ(Anastasia Rybina)さん(37)は、「77年後にファシストやナチスがよみがえり、ロシア人を惨殺するなんて誰も想像しなかった」とAFPに語った。/「歴史は繰り返す」 (c)AFP/Andrea PALASCIANO(https://www.afpbb.com/articles/-/3404042?pid=24486419)(AFP:2022年5月10日 発信地:モスクワ/ロシア )

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 プーチンの戦争に暗雲がいよいよ漂っています。「対独戦勝記念日」が、どのような意図を有しているのか、門外漢にはわかりません。しかし、この「記念日」を、自らの権力維持のための道具にしてまでも「嘘とごまかし」で墓穴をさらに深く掘っていく、それが哀れな権力亡者の残された道なのです。この「軍事パレード」を、他の人々はどのように評価しているのか、ぼくにはわかりません。しかし、たった一個の存在を誇示する「宣伝材料」にする、そんな虚しさしかぼくには感じられなかったのです。ロシア軍の残虐非道な行為を知るにつけ、人間の頽廃と堕落には限界がないことを思い知らされ、ぼく自身がその一員であることに底知れない恐怖。恥ずかしさを覚えるのです。

 情報統制が行き届いているから、プーチンの判断や行為を無条件に評価している人々がいるように言われますが、果たしてどうか。大なり小なり、ほとんどの人民は気づいているのです。以下の記事を、ぼくは日本の雑誌で読みましたが、もとの原稿はガーディアン(英国) Text by Lorenzo Tondo and Isobel Koshiw」にあるものです。これまでにも、何度か、ロシア軍の「凌辱」「殺戮」「拷問」などについて触れましたが、一言でいうと、それは「人間性の破壊」であり、「人間存在への辱め」に他ならないと思います。どんな言葉をつかっても、その卑怯で穢れた行為の愚劣さ・卑劣さを射抜くことは、ぼくにはできません。<an indignity; an insult ;disgrace;rape> (左写真はcourrier japanから)

 これが「戦争」なのでしょうか。「ロシア系住民の抑圧を解放するための」特別軍事作戦なのでしょうか。これを強行した権力者には、投げつける怒りの束は大きくなるばかりです。しかしいまだ、その「言葉のミサイル」は、まだ発射前の段階で足踏みしています。

 まさしく、今次の「侵略戦争」に名を借りた野蛮極まる諸行為は、人間の仮面をかぶった暴戻奴の仕業だとしかぼくには思えない。世界は、この言葉を失う蛮行悪逆に、身を奮い起こして異議申し立てをし、断罪しなければならないのではないか。文字通り、日常生活において平穏であり無事であるはずだった、一人一人の「無残であり無念である死」対して、ぼくは身を震わせながら、悲しみの底に抑えきれない怒りをたたえながら、万感の思いをもって、抗議をするものです。 

 またもロシア兵の残虐性が明らかに 「殺される直前にレイプ」されていたウクライナ女性たち 遺体から証拠が採取される 背中に6発を超える銃弾 ウクライナではロシア軍撤退後のキーウ(キエフ)北郊で見つかった集団墓地から回収された遺体の検視が進んでいる。そうしたなか、女性たちの遺体からロシア兵に殺害される前にレイプされていた証拠が見つかっているという。「銃殺される前にレイプされていたことを示す遺体が何体かあります」と、ウクライナ人法医学者のウラジスラフ・ペロフスキーは言う。彼のチームは、ロシア軍が約1ヵ月にわたり支配していたブチャやイルピン、ボロジャンカで検視解剖を行っている。「まだ検視すべき遺体が何百体とあり、データを集めている途中なので詳細は明かすことはできませんが」と言うペロフスキーによれば、背中に6発を超える銃弾を受けて殺害されていた女性が何人もいたという。彼のチームは1日に約15体を検視しており、その多くがバラバラに切断されるなど損傷が著しいと話す。「焼かれた遺体、外見がひどく損なわれた遺体がたくさんあり、身元を特定するのが不可能なほどです。顔が粉々に砕かれた遺体など、もう復元は無理です。頭部が切断されているものもありますし」(以下略)courrier japan(https://courrier.jp/news/archives/286404/)(2022.4.26)

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 「ここは地獄だ」 問答無用で射殺、連日レイプ ブチャ市民らの証言

ブチャの自宅前で息子のドミトリーさんをロシア軍兵士に射殺されたマリヤ・コノワロワさん。「ここにどれだけの墓があるか見てください。どれだけの悲しみがあるか想像してください」と訴えた=キーウ近郊ブチャの墓地で2022年5月2日、真野森作撮影

 ロシアのウクライナ侵攻によって、民間人を中心に400人以上が殺害されたとみられる首都キーウ(キエフ)近郊のブチャ市。無抵抗の男性への銃撃、少女への性暴力、水や食料の不足による衰弱死――。あらゆる形の「犯罪」が、住民の証言から浮かび上がる。露軍の撤退から1カ月。閑静なベッドタウンだった町の復興は少しずつ進むが、生き残った人々は癒えない傷を抱えている。「人間と思えない」数々の行為 ブチャの墓地には真新しい墓がいくつも並び、犠牲者の多さを物語っていた。「ここにどれだけの墓があり、どれだけの悲しみがあるか想像してください。プーチン(露大統領)は自分の子供たちを埋葬してみたらいい。そうすれば、どれほどの悲しみをもたらしているか理解できるかもしれない」/ マリヤ・コノワロワさん(74)は、ブチャを占拠していた露軍兵士によって3月4日に三男ドミトリーさん(当時41歳)を射殺された。(以下略)(左写真:ブチャの自宅前で息子のドミトリーさんをロシア軍兵士に射殺されたマリヤ・コノワロワさん。「ここにどれだけの墓があるか見てください。どれだけの悲しみがあるか想像してください」と訴えた=キーウ近郊ブチャの墓地で 2022年5月2日、真野森作撮影(毎日新聞 2022/5/5)

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 戦争に「被害者」が出るのは当然で、だから、いかなる理由があってもそれは認められないのだと、ぼくはいつでも考えてきました。「非武装中立」はきれいごとであり、一朝事がある際には手も足も出ないから、軍隊を持つべきだという、その考えにもくみしないできました。国を守る、身命を賭して「守る」、それだけの値打ちがあるとは思われません。ぼくは根っからの「文弱の徒」「口説の輩」で生きてきました。いかなる「戦争」も、「戦争」に名を借りた、強盗であり、略奪であり、殺戮であり、凌辱である、このような無道行為を「正当化」する国家そのものは解体されるべきではないか、ぼくは無念無残の死を強いられた異国の、数知れない人々の霊前にいつまでも佇(たたず)んでいたい、たった一本でも、哀悼の花を手向けたい。

 マッチ擦る つかのま海に 霧ふかし 身捨つるほどの 祖国はありや (寺山修司著『われに五月を』に所収)

 (「不滅の連帯」を創始した一人の男性が、「プーチンは戦争による死者まで、自らの私欲のために利用した、私は、そこにはもう参加しない」と静かに、しかし、怒りを湛えて語られていた「声音と表情」が忘れられません。「戦争をしない誓いを立てる」ことこそが、「記念日」の眼目だったのではなかったか。(島の「終戦記念日」に、日本版「不滅の連帯」パレードが行われるとしたら、どうなるのでしょう。はたして「英霊」は歓喜するでしょうか)

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投稿者:

dogen3

 語るに足る「自分」があるとは思わない。この駄文集積を読んでくだされば、「その程度の人間」なのだと了解されるでしょう。ないものをあるとは言わない、あるものはないとは言わない(つもり)。「正味」「正体」は偽れないという確信は、自分に対しても他人に対しても持ってきたと思う。「あんな人」「こんな人」と思って、外れたことがあまりないと言っておきます。その根拠は、人間というのは賢くもあり愚かでもあるという「度合い」の存在ですから。愚かだけ、賢明だけ、そんな「人品」、これまでどこにもいなかったし、今だっていないと経験から学んできた。どなたにしても、その差は「大同小異」「五十歩百歩」だという直観がありますね、ぼくには。立派な人というのは「困っている人を見過ごしにできない」、そんな惻隠の情に動かされる人ではないですか。この歳になっても、そんな人間に、なりたくて仕方がないのです。本当に憧れますね。(2023/02/03)