人間のことを知りたければ、サルに学ぼうというのが、ぼくの経験から得た方法でした。これまでにも何度か紹介したヴァ―ル氏の「サル学」は実に刺激があります。サルから人間が「進化」したというのは、人間の側からの希望的視点であって、サルが話をするなら、「突然変異で、(われわれから)退化したやつが出てきた。今では、それを人間というらしい」となりそうです。「サルは三本足りない」とか言われて、劣っている存在として人間に見られていますが、いつも言うように、「殺戮」はしないし、「理由もなく攻撃」はしません。もっと言えば、「嘘をつくことはあっても、人間ほどの大嘘はつかない」と断定してもいいでしょう。ここから見れば、どう考えても「サル以下」が人間であって、その逆ではないようです。(ぼくは申年ですから、いささか贔屓が過ぎるかもしれません)

人間の攻撃性(aggressiveness)といってもその幅(範囲)は広い。家庭の小さな諍(いさか)いならば、たいていの場合気楽にやり過ごせる(今は、そんなに簡単にやり過ごせないことの方が多くなったのには、明確な理由があるのでしょうか)。だが児童虐待とか、強姦、殺人といった社会を脅かすたぐいの、深刻な攻撃性もある。もちろん、生命や環境を破壊する「戦争」という最悪の愚行も、いまだになくならない。でも、極端な形にばかり目を向けて、あらゆる攻撃形態への懸念や非難を一般化することはいともたやすい。「攻撃はよくない」と。そのため、この分野の研究には、最初から道徳的な判断、政治的提案、科学的な洞察が入り乱れて付きまとっていたのです。およそ、こんな意見・見解をもって研究を進めてこられたのがヴァ―ルさんです。以下は、動物行動学者のヴァ―ルさんの著書からの引用です。

● フランス ドゥ・ヴァール(Frans B.M. de Waal)=職業・肩書動物行動学者 エモリー大学心理学部教授 国籍オランダ 生年月日1948年 学歴ニーメゲン大学,クローニンゲン大学,ユトレヒト大学 学位博士号(ユトレヒト大学)〔1977年〕 経歴ニーメゲン大学、グローニンゲン大学、ユトレヒト大学で生物学、行動生物学を学ぶ。ユトレヒト大学ではカニクイザルの研究プロジェクトに参加。その後、オランダのアーネム動物園のチンパンジーを研究。1981年渡米し、ウィスコンシン州マディソンにある霊長類研究所でボノボ(ピグミーチンパンジー)などの研究を続ける。のち、エモリー大学心理学部教授。著書に「政治をするサル」「仲直り戦術―霊長類は平和な暮らしをどのように実現しているか」「ヒトに最も近い類人猿 ボノボ」「道徳性の起源 ボノボが教えてくれること」などがある。(現代外国人名録2016)
~~~~~~~~~
「どんな攻撃も望ましくないこと、それどころか悪いことときめつけるのは、野性の植物をすべて雑草で片づけるのに等しい。庭師はそれでいいかもしれないが、植物学者や生態学者が持つべき視点ではない。学者たちは植物を実益や美しさで見るのではなく、形態や大きさ、環境、分類などを調べる。視点を変えれば、庭師に抜かれて捨てられる草も、大切にされて花をつける植物と同じくらい、ひょっとするとそれ以上に興味深く、刺激に満ちたものになる。社会関係、さらには、社会全体のなかで攻撃性がどのように機能しているか。この問題を考えるとき、偏見にとらわれず、いたずらに決めつけない態度で臨もうと思う」(フランス・ドゥ・ヴァール『利己的なサル、他人を思いやるサル』)
~~~~~~~~~
攻撃行動は、はたして反社会的なのだろうか。ヴァールさんが提出する大きな疑問である。世間の大半は、当然のこととして、それは反社会行動であるとします。生物学者(だけではなさそうですが)は、人類にも動物にも広く見られる行動をそんな単純なくくり方ではとらえないといわれます。「一歩下って、私たちを取り巻く社会を動かす一要素であることを確かめようとしているのだ」と。

需要が供給を上回ると、個体の利害は衝突する。その衝突を解決するには争いしかない。 このような事態にあって、現実的な道はふたつ、と、ヴァ―ル氏は言います。
(1)競争に徹する (2)攻撃性によって部分的に形成され、支えられる社会秩序を作る
サル、類人猿、人間、その他多くの動物は後者(攻撃型)を選んだのです。
「つまり人間がいちばん大切にしているいくつかの社会制度は、攻撃性に根ざし、攻撃性に支えられているのだ。たとえば司法制度などは、抑えがたい復讐心 ― お返しと言い換えることもできるが ― をうまく変えたものであり、容認できる限度のなかでその衝動を維持している。法の執行にしても、政府による暴力 ― いや、権力か ― に近いものであり、それとてときとしては国民の大多数から制裁を受ける。歴史をひもとけば、社会変革が渇望されていたときに、暴力で実現した例はいくらでも見つかるだろう。貧者や恵まれない者の窮状を無視していると、いずれ我が身に返ってくることを力でエリートたちに教えたのである」(同上)
ここまでは本日の「導入部」です。「暴力」、いや「攻撃性」をどう受け入れるか。それを非・反道徳的なものとして「否定」することはできても、実際には、なくならないのです。個人の場合でも集団の場合でも、理屈は同じです。攻撃はやめましょう、暴力は正しい人間の取る道ではありません、という標語は素敵かもしれないが、いつしか攻撃性がむき出しになるのが常です。それは人間の生理的心理的深部に根差しているからでしょう。
ここで、場面を転換します。雪が解けたら「春」になるという回答・解答もありますし、雪が解けたら「平和になる」という政治問題の解決もあります。(冷戦から「雪解け」へ、さらに熱い戦いへ。今がそのただなかに、世界は引き込まれている)
すこし、「攻撃性」の把握の仕方が異なるかもしれないし、いや、根っこは同じだともいえそうですが、ぼくたちに「切実な問題」を取り上げます。それは「結婚」「夫婦喧嘩」「離婚」というひとつながりの連鎖というます化、因果応報でもある問題です。
OOO

アメリカの心理学者ジョン・ゴットマンが「結婚と離婚」に関する大規模な調査をしたとところ、「大切なのは喧嘩をするかどうかではなく、どんな喧嘩をするかだ」ということが明らかになったというのです。「夫婦喧嘩」はなくならないのというのが、暗黙の裡に、いや明白に認められている上での立論と研究調査です。ゴットマンは結婚したもの同士の「喧嘩」を三類型に分けた。いったい、そのうちの、どの「タイプ」を採用するなら、夫婦は、なんとかうまくやっていけるのでしょうか。(おそらく、これは「夫婦(結婚したもの同士)」に限らいない問題なのではないか。ぼくの推論、いや邪推です。人間の交際・交流における親和性と攻撃性というテーマが、何時だって眼前に立ちはだかっているのです)
(1)接触をできるだけ避けて、衝突を最低限に抑える(回避型) (2)おたがいの言い分をじっくり聞く(確認型) (3)派手に口論やケンカをする(発散型)

ぼくは、恥ずかしながら(その意味は、これまでに九回も離婚を繰り返してきたにもかかわらず、という反省があるからです)ただ今「結婚四十九年目」を走行中(いや、リタイア・途中棄権寸前か)です。その経験を踏まえると(踏まえなくても)、この三種類の全部を繰り返し実践してきました。統計を取る暇がありませんでしたから、どれが多数だったかはわかりませんが、印象では(2)がほとんどなかったことは確かそうです。他人のことはわからないから、無責任なことは言えませんが、「喧嘩」をしない夫婦はあり得ないでしょう。負け惜しみではなく、どこの夫婦でも喧嘩なしで、「生活」をしているとは考えられません。つまりは「攻撃性」が零などという人がいるとは、ぼくには思われないのです。「虫も殺さぬ顔」といいますけれど、それは顔つきはそう見えるが、「心中はどうであるか」というのではないでしょうか。「あれで、なかなか、どうして」腹を立てれば、手に負えないほど怖い女性(男性)ですよ、というのかもしれません。拙い「四十九年の経験」からして、この点に関してはさっぱりものが言えないんですね。
ゴットマンは、35年の研究を集約して、「幸福な結婚生活を送るカップル」には次の特徴があると言います。拙劣な事例を出して恐縮するばかりですが、ゴットマン氏の「判断」からすれば、「わが夫婦」は、とても「幸福な結婚生活を送る」夫婦には見えないどころか、まったく送れていないと、正直に告白します。どなただって、この四条件を果たそうとしたことがあるに違いありませんが、いずれも中途半端に終わって、「第二次戦」に突入ということになる、それが相場じゃないですかな。
「幸福な結婚生活を送るカップル」 (1)仲の良い友人のように振る舞う (2)対立したときに、穏やかにポジティブに対処する (3)口論のネガティブなやりとりを後から修復する (4)ネガティブな感情を完全燃焼させる

以下の4つの言動を日常的にくり返すカップルは、平均5.5年以内に離婚すると、ゴットマンの研究は報告しています。ぼくの見るところ、ほとんどの「夫婦」は以下のような「離婚」条件を満たしているのでしょう。だから、その夫婦は「5.5年以内に離婚」していることになる。でもぼくは、この先はゴットマンさんとは見解が異なります。世間の夫婦はうまくいかなくなれば、たいていは永遠に離婚(離別・divorce)してしまうらしい。面倒なことですね。まず手続きが煩瑣だし、あくまでも私的な関係なんだから、そんな気、ぼくはしているのですが。
余談になりますが、法的な手続きを踏んで「結婚」を認められ、さらに法的に「離婚」を認定されるというのも、考えてみれば、さてどうですかという疑問が残ります。結婚や離婚は「私的な行為」「私事」だというなら、行政にかかわってもらわないでもいいのではないでしょうか。誰と結婚するとか、誰とは別れますと、いちいち役所に届けて認めてもらう理由は何ですか。

「平均6年以内に離婚する夫婦の関係」 (1)批判 = パートナーの欠点について、不満を述べる。「あなたはいつも散らかして、私に片付けさせるのね。どうしてそんなにだらしないの?」(改善例:「一緒にお皿洗いをしてくれたら嬉しいな」) (2)軽蔑 相手がまったくのダメ人間であるような、見下した言い方をする。「ダメよ、そんなやり方!」 (3)防御 責任を否定する(「私だったら、そんなことしないけれど……」「あなたがそんなことをしなければ……」)。コントロールできない状況を非難する。責められるとパートナーの不満を受け止めずに即座に自己弁護をする(「あなただって完璧な人間じゃないでしょ」)。 (4)妨害 聞いていることを示す合図(うなずく、「うん、うん」「それで?」などの相づち)をせずに、石のように黙っている。
ジョン・ゴットマンいわく、「(結婚の達人は)自己弁護したり傷ついたりする代わりに、ケンカの最中にも愛情や相手への強い関心、敬意をさりげなく示します」。対立を避けるのではなく、上手に扱うことが、円満な結婚生活につながります。これは、子どもとの関係にも同じことが言えます」(以上は「モチラボ」より:https://motivation-up.com/know/couple7.html)
++++++++++++++++++

ぼくの場合、この四条件がことごとく妥当します。だから、われわれ夫婦は「平均5.5年に一回は離婚」していることになります。もっというなら、通算ではおよそ九回は離婚していることになるでしょう。この「割れ鍋に綴じ蓋」は、これまでに九回ほどは離婚してきた。ということだとすると、十回は結婚したことになる、しかも「お馴染み同志」で、です。物好きですね。いっしょにいる「楽しみ」と「苦しみ」、それはいつだって同時には来ないで、うまい具合に、交互にやってくる。だから何十年も「結婚➡離婚➡結婚➡離婚➡➡➡」を繰り返せるんじゃないですか。やがて、この舞台にも「幕が下りる」のですが。
要するに、人間は「間違えるサル」なんですね。間違えたら、やり直す、何度でも間違えたら、何度でもやり直す、それが「攻撃性」を身内に孕(はら)んでいる存在の宿命です。それが発生するのは避けられないなら、大事なのは、どのようにして「わが内なる攻撃性」と仲良くなるか、それがなんとかできるようになるなら、今度は「わが外なる攻撃性」にも、牙をむかないで向かっていけるんじゃないでしょうか。戦争も、もとをただせば「攻撃性」の発露です。「批判」「軽蔑」「防御」「妨害」の四条件を、一つでも相手に対して用いないという決意・決断(そんな大したものではなく、「思いやり」なんですよ)、それがなされれば、幾分かは、穏やかに話合える・付き合えるのではないでしょうか。

今の時代、個人のレベルにおいても、国家のレベルにおいても「言葉」が貧しくなって、「無駄」や「論外」とか「問答無用」がまかり通っているのですが、基本は「人間の付き合い」であり、その原因は「おサルさんの知恵」をどこかに置き忘れてきたことに由来するのではないでしょうか。あるいは忘れてしまったことの報いなのかもしれません。(サルに限らず、犬でも猫でも、つまりは動物たちから、真面目に学ぶときですね)
__________________________