
若いころに読んだ本で、生涯の導きになるとは思いもしなかったものが何冊(何人)かあります。ある人からは大きな影響を受けたのですが、一番最初に何を読んだかはすっかり忘れてしまいました。その理由は、これまでに何回、何十回となく読み返してきたからだと思うのです。アラン(エミール・オーギュスト・シャルティエ)というフランスの思想家・高校教師だった人です。ぼくが本の上で出会った「たった一人の教師」といってもいいほどに、彼はいろいろなことを考えさせてくれました。大学院に入ってから、彼の無数の「語録(プロポ・propos)」を、必死で読んだ、しかも、フランス語で。まったく歯が立たなかった。あまりにも、彼の文章が飛躍していたからだったか。いや、数語で書かれていても、考え抜かれていたから、それを把握するのに、容易には理解できなかったのです。そのために、どれくらい時間をかけたか。「スズメは焼き鳥になって落ちてはこない」、こんな文章を前にして、思案投げ首の連続でした。十分に理解できなかったのは当然でしたが、その「思案投げ首」が、言われている(書かれている)ことを、深く受け止める(理解する)ための貴重な経験(じゅうぶんに時間をかけることが大事であるという)になったのです。ぼくみたいにいい加減な人間にも、明日のことも、昨日のことも悩みもしないで、読むことに集中していた時代があったんですね。

そのアランさんの「幸福論」です。ぼくはこれまでに何度読んだことでしょうか。五回や十回では足りないといっておきます。それでよく分かったかというと、本当に泣きたくなります。そんなぼくでもいえそうなことは、どんなにむずかしい問題でも、「1+1」に還元すると、なんとかわかる方向に考えが向かうことになる、それだけでしたが、いろいろな機会に、大きなヒントになり、励みになりました。その時、ぼくたちの持っている大きな欠点は、何とかして「早く分かりたい」というものだということがいやになるくらいにあきらかになりました。「早分かり」が、どんなにものをていねいに考えるための邪魔になるか、それを痛感しました。その典型は「教えてもらう」ことです。「解答を貰う」と、考える手間は省けますから、とても楽だし、時間がかからない。でも、分かるのに苦労しない(時間をかけない)ということが、その人間をどんなにわがままなものにしてしまうか、それをいやになるほど知らされた。ものを学ぶ、あるいは理解(納得・了解)するというのは「道徳の問題」、つまりは「自ら意欲する」ことだという意味です。その積み重ねによって、「わがまま」「不注意」「短気」「短絡」などなどを、きっと直してくれるからです。
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どんな職業でも、自分が支配しているかぎりは愉快であり、自分が服従しているかぎりは不愉快だ。電車の運転手は、バスの運転手にくらべると幸福ではない。自由にひとりでする狩猟ははなはだ楽しい。狩猟家は自分でプランを立て、それに従うなり変更するなりして、報告したり弁解したりする必要がないからだ。これにくらべれば、獲物を狩り出してくれる勢子(せこ)のまえでしとめる楽しみなどは、まるでとるに足らない。しかしまた、射撃の名人が、感動や驚きを犠牲にしてこの権限を楽しむこともある。こういうわけで、人間は楽しみを求め、苦しみを避けるものだなどと言う人たちの説明はまちがっている。(アラン「ディオゲネス」『幸福論』所収)
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(ディオゲネス【Diogenes】(~ ho Sinopeus)[(前四〇四ころ~前三二三ころ)]古代ギリシアの哲学者。キニク派、アンティステネスの弟子。世俗の権威を否定し、自然で簡易な生活の実践に努め、「樽の中のディオゲネス」と呼ばれた。アレクサンドロス大王との問答は有名(大辞泉)
(せ‐こ【▽勢子・列=卒】《「せご」とも》狩猟の場で、鳥獣を追い出したり、他へ逃げるのを防いだりする役目の人。狩子(かりこ)(同上)
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《こういうわけで、人間は、もらった楽しみにたいくつし、自力で獲得した楽しみの方をはるかに好むものなのだ。しかも、なによりも行動し、獲得することを好む。人から苦しめられたり、耐えしのんだりすることを好まない。だから、行動を伴わない楽しみよりも、むしろ行動を伴う苦しみの方をえらぶのだ。逆説家のディオゲネスは、苦しみはいいものだ、ということを好んで言っていた。その意味は、みずから選び、みずから求めた苦しみということだ。ひとからうけた苦しみを、だれも好みはしない》
勉強(学習)についても同じことがいえるでしょうか。やらされる「勉強」は避けたいし、自分から進んでおこなう活動は、その人をいくらかは聡明にしてくれるはずです。いやいややらされていながら、「優れた成果=成績」を示すというのはどういうことでしょうか。立派な教師がどんな人物か、ぼくにはよくわからないけれど、命令したり服従させたりしない人間であるのはたしからしい。アランは次のようにつづけます。
《行動というものは、どんなに単調であっても、いつでも少しは支配したり、考え出したりすべきものが残っているからだ》

授業(仕事といってもいい)というものが教師にとっても生徒にとっても「自分で求める楽しみ・苦しみ」(まるで山登りみたいな)であったらいいなあと思いつづけています。あまりにもしばしば「生徒の興味をひく」とか「生徒に興味をもたせる」という口ぶりを聞かされてきました。おやおや、というばかりでしたね。与えられた興味はたちまちのうちに水泡のごとくに消えてしまうにちがいない。それに対して「行動し、獲得した楽しみ」にまで深められた学習は、きっと、子どもをかしこい人間にしてくれるでしょう。

ボイルされた蟹(かに)の肉を、だれかにきれいにとってもらって食べてもあんまりうまくないね。(若いころ、新宿の料理屋で、仲居さんにそれをしてもらって、「山盛りのカニ肉」を前に置かれて、まったく食べようという気が起こりませんでした)赤ん坊は、できるだけ自分で飲んだり食べたりしたくなるんじゃないですか。もっと言うなら、テレビは見ていて面白いけれど、やがてつまらなくなるのがお定まりです。見る側に工夫の余地がない(つまりは受け身です)からでしょう。喜ばせられ、ちやほやされて育つ・育てられると、手に負えない「わがまま」人間になるのは目に見えています。「自分でする」(「考えたり工夫したりする」「自分で求める楽しみ・苦しみ」)というのは、ぼくらの想像以上に大きな働きを成長のさなかに果たしているのです。これは学歴や偏差値とは、およそ関係のない事柄ですね。(いくつもの後悔すべきことがぼくには残されましたが、子どもたちといっしょに「山に登る」ということをしなかったのは、返す返すも残念なことでした。登るべき山、その山こそが人間を育ててくれるんですね。いつでも山はそこにあって動かないから、自分の足で登るしかないのです)(ヘッダーは「WINZONE」:https://sp.yamap.com/winzone/03.html
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