海棠の しずかに散るや 石畳 (吟江)  

 本日の句、二つ三つ(いささかの時期遅れになりましたが)

・行く春を 近江の人と 惜しみける (芭蕉)

・行春や むらさきさむる 筑波山  (蕪村)

・石楠花の 紅の蕾の ゆるみたる (椎花)

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 昨日は「ハナミズキ」でした。本日は、少し時期が過ぎてしまったかもしれませんが、「海棠(かいどう)」を、記憶の底から呼び起こしてきました。この木も、いつでも拙宅の小さな庭にありました。今の住まいには、いろいろと探してはいるのですが、これはと気に入ったものがなく、まだ植えられていません。しかし、これまでに見てきた、たくさんの海棠を記憶の淵からよみがえらせては、堪能し嘆息しています。「海棠」といえば、まず最初に鎌倉のいくつかの寺を思い出します。詳しくは知りませんが、鎌倉の花木は「海棠」だと聞いたことがあります。そのいわれはわかりません。鎌倉・寺・海棠とくれば、若い日の小林秀雄と中原中也の邂逅の場面に「妙本寺の海棠」が出てきます。一人の女性を巡って、二人が争うような形になって、何とも気まずい雰囲気の中での語りと別れでした。大学生になったばかりのころ、ぼくたちの中では、小林秀雄が「一つの事件」のような具合でした。「あれを読んだか」、「まだか、すぐに読めよ」というように、東京生まれの友人が盛んに「小林風」を吹かしていたのです。なんとも幼かったですね。今でも「そう」ですが。

 右も左もわからない、若気だけで背伸びをしていた時代、この「中也の思ひ出」を読んで、誘い合って鎌倉に出かけたような、かすかな記憶もある。行かなかったに違いないが、そんなあやふやな記憶を残して「ボーヨー、茫洋」という中也の言葉だけははっきりと覚えているのでした。そのときの「海棠」は、実に見事なものだったろう。現実に存在する妙本寺のものは、小林たちが語ったものから三代を経ているということでした。この樹木は、桜とは似ています、もちろん「バラ科」だから当然ですが、桜よりも可憐というか、小ぶりの花が美しい。家に植えたものは、まだ幼木に近いもので、それでも、さらに小さな花を咲かせては、行く春を彩っていたのです。

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 「中原中也の思ひ出」
 晩春の暮方、二人は石に腰掛け、海棠の散るのを黙って見ていた。花びらは死んだ様な空気の中を、まっ直ぐに間断なく、落ちていた。樹蔭の地面は薄桃色にべっとりと染まっていた。あれは散るのじゃない、散らしているのだ、一とひら一とひらと散らすのに、屹度順序も速度も決めているに違いない、何んという注意と努力、私はそんな事を何故だかしきりに考えていた。驚くべき美術、危険な誘惑だ、俺達にはもう駄目だが、若い男や女は、どんな飛んでもない考えか、愚行を挑発されるだろう。花びらの運動は果しなく、見入っていると切りがなく、私は、急に厭な気持ちになって来た。我慢が出来なくなって来た。その時、黙って見ていた中原が、突然「もういいよ、帰ろうよ」と言った。私はハッとして立上り、動揺する心の中で忙し気に言葉を求めた。「お前は、相変らずの千里眼だよ」と私は吐き出す様に応じた。彼は、いつもする道化た様な笑いをしてみせた。 

 二人は、八幡宮の茶店でビールを飲んだ。夕闇の中で柳が煙っていた。彼は、ビールを一と口飲んでは、「ああ、ボーヨー、ボーヨー」と喚いた。「ボーヨーって何んだ」「前途茫洋さ、ああ、ボーヨー、ボーヨー」と彼は眼を据え、悲しげな節を付けた。私は辛かった。詩人を理解するという事は、詩ではなく、生れ乍らの詩人の肉体を理解するという事は、何んと辛い想いだろう。彼に会った時から、私はこの同じ感情を繰返し繰返し経験して来たが、どうしても、これに慣れる事が出来ず、それは、いつも新しく辛いものであるかを訝った。彼は、山盛りの海苔巻を二皿平げた。私は、彼が、既に、食欲の異常を来している事を知っていた。彼の千里眼は、いつも、その盲点を持っていた。彼は、私の顔をチロリと見て、「これで家で又食う。俺は家で腹をすかしているんだぜ。怒られるからな」、それから彼は、何んとかやって行くさ、だが実は生きて行く自信がないのだよ、いや、自信などというケチ臭いものはないんだよ、等々、これは彼の憲法である。食欲などと関係はない。やがて、二人は茶店を追い立てられた。(「中原中也の思ひ出」「人生について」所収。中公文庫版)

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 このエピソードは今から一世紀ほども前のことになりました。ぼくが読んだ時からでも、すでに半世紀以上が過ぎています。すべてが過ぎ去り、残るものも皆、何時とは知れず姿を消し去ります。有為転変というべきか、流転無常なのかどうか。花は咲けども、散りぬるを、ですね。大学に入ってから、ぼくは手当たり次第に本を読みました。当たるを幸いという心意気だった。わけもわからずに読んだ。しかし、ある時期から、それは「読んだ」のではなく「読んだ気になった」だけのことであるということに気が付いた。だからその読書は無駄だったとは思えません。「読んだつもり」の経験もまた、ぼくにはかけがえがないものだったからです。ぼくは五十になるくらいまで、あるいは四十過ぎまで、小林さんを熱心に読みました。いろいろなものがありましたが、中でも江戸の思想家である徂徠や仁斎などについて書かれたエッセーには、たくさん教えられました。「考えるヒント」がその中心でした。そしてその当時すで連載されていたはずの「本居宣長」も、時々は読んでいました。

 それ以前は一端(いっぱし)の「西洋かぶれ」だったものが、一気に西洋離れを果たしたというのではありません。ぼくは三十を過ぎてから、柳田国男さんをひたすら読んで、「この島の先輩(常民)」たちの歴史にのめりこんだ。だから西洋離れは意外と早く、「もののあはれ」を極めるつもりなどはなくとも、自分が生まれた地域の「人民の生活・思想」を訪ねることに時間とエネルギーを注いだのでした。それはまた、先祖たちの歴史を学ぶことでもありました。本を読むことがどんな意味を持っているのかさえも分からないで、濫読の限りを尽くしていた時代は、半世紀を隔てて顧みると、何とも乱暴であった、無駄な時間を過ごしたなあ、という「無駄の効用(あるとすれば)」を身に着けたように思われました。さらに言えば、「役に立つこと」ではなく「役に立たないこと」のほうが、ぼく一個の人間にとっては大きな値打ちをもっていたと、今でも言えそうです。

 まわりの大人たちから、「君はまじめに研究をしていない」といつも言われていたような塩梅でした。身の危険を感じたことはなかったが、組織にいる人間としては、いかにもまずいらしいという意識は常に働いていましたが、いやなことより、自分のしたいことを、それだけを意固地になって貫こうとしていたのではなかったか。それもこれも、過ぎてしまえば、なんということもなく、「行春や むらさきさむる 筑波山」という心境ではあるんですね。(ものの本によれば、蕪村は茨木結城の俳人・砂岡雁宕に私淑したような格好で当地を歴訪、なんと十年に及ぶ滞在だったという。その期に詠んだ句です。ぼくの仕事場に、結城出身の先輩(二人)がいて、何くれとなくお世話になった。その縁もあって、ぼくには結城は懐かしい土地になりました)

HHH

 もう初夏ですね。沖縄では、昨日が梅雨入りだそうです。何処においても「豪雨」の被害がないことを祈るばかりです。「春は名のみの風の寒さや」と口ずさんでいたのはほんの二か月ほど前、「侵略戦争」の便りとともに、今なお「冷たい風」が吹き荒んでいるところがあります。わが心の内にもまた、春の嵐が時には吹くこともあるのです。八十八夜も過ぎ、「野にも山にも若葉が茂る」、我らが心のうちにも、青々と茂ってもらいたい(茂らせたい)ものです。「前途茫洋」というのは、小さな存在の人間にこそ似つかわしいのかもしれません。

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● かい‐どう ‥ダウ【海棠】〘名〙=① バラ科の落葉低木。中国原産で、日本では古くから観賞用に栽植されている。幹は高さ五~八メートルに達し、は多数に分かれ紫色で垂れ下がって広がり、先端が刺(とげ)になることがある。葉は互生し、先のとがった楕円形で、若葉のうちは色を帯びる。四~五月頃、長い花柄にリンゴの花に似た三~五センチメートルの紅色の五弁花が開く。果実は径五~八ミリメートルの球形で、黄赤色に熟す。漢名、垂糸海棠。はなかいどう。《・春》 〔尺素往来(1439‐64)〕※俳諧・猿蓑(1691)四「海棠のはなは満ちたり夜の月〈普船〉」② =みかいどう(実海棠)〔大和本草(1709)〕③ なよやかな美女をたとえていう。※俳諧・犬子集(1633)二「海棠のねむる鼾か風の音〈正直〉」(精選版日本国語大辞典)

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