【国原譜】「ロシアを悪者にすることは簡単」―。東京大学入学式での奈良市出身の映画監督、河瀬直美さんの祝辞が、ウクライナに軍事侵攻するロシアの擁護だとインターネットの一部で批判されている。◆しかし、東大ホームページに公開された祝辞の全文を読む限り、河瀬さんはロシアを擁護していない。また、ロシアとウクライナが「どっちもどっち」だと言いたいわけでは◆たしかにロシアの蛮行は許されず、怒りを覚える。が、戦場ではロシア兵も命を落とし、彼らなりの「正義」もある。◆立場が変われば正義と悪も変わる。二つの正義と悪がぶつかる中で、片方だけを悪と決め付けて思考を止めることは危険なことではないか。◆大学は自由な学びの場だ。その中でさまざまな角度で物事を見て自分の考えを培って欲しいと、河瀬さんは未来の若者たちに言いたかったのだろう。◆ある東大の学者が「侵略戦争を悪と言えない大学なんて必要ない」と河瀬さんの祝辞を批判したという。その言葉を借りれば、「一方的な考えを押し付ける大学なんて必要ない」と言える。(法)(奈良新聞・2022.04.27)(ヘッダー写真は「日経WOMAN:https://aria.nikkei.com/atcl/column/19/122100012/011700013/?P=3)
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この奈良新聞がどのような経歴を示して今に至ったか、ぼくは何も知りません。知ったところで、さてどうなるものか。ぼくはまるで朝食の「おかず」を啄(ついば)むように、各地の新聞コラムを食い散らしては、一日を始めます。今朝は、朝飯前に、草取りとごみを燃やしていました。このコラム「国原譜」が掲載されたのが、先月末近くでしたから、もう一週間ほどになります。その間も、このコラム氏の、この記事内容をあれこれ考えては、「こんなもんかなあ」「入学式って、なんだ?」見ず知らずの人間、それも大勢の人間を前に話すなんて、「なんと無謀なことか」などと、あらぬことを愚考していました。大したことも思い浮かばないままに、例によって「駄文」を開始する始末です。
旧帝国大学のHPに出ている「祝辞」全文を読みました。何でこんなことをわざわざ人前で話すんですか、そんな素朴極まりない疑問が沸き出ただけでした。そこに河瀬さんの写真も出ていましたが、「好きだなあ」という体で、二の句がつげなかった(もちろん、これはぼくだけの感想です)。彼女は映画監督だから、「映像」には厳しい方だろう、だからこんな写真が、という気もします。式辞の内容は、なんということもない、「内容浅薄」の一言ですね、といえば、なんと失礼なといわれそうですが、それは彼女の「式辞」を読んでから言われればどうですかといいたい。彼女の話に、次のような部分がありました。

「先ごろ、世界遺産の金峯山寺というお寺の管長様と対話する機会を得ました。本堂蔵王堂には、山から伐ってきたままの大きな樹の柱が御堂を支えています。それらの樹は全て違う種類で、それはまるで森の中に自らが存在しているかのような心地になるとのことでした。なるほどその存在を確かめてみると、それぞれの柱がそれぞれの役割でそこにあって、どれひとつとして何かと比べられることなく、そこにきちんと自らの役割を全うしているようです。この世界観、精神性が今の自分に大きな希望を与えました。元来、宗教や教育の現場には、こういった思想があり、それを次の世代の人たちに伝える大切な役割があるのでしょう。あなたが今日ここにあって、明日から、かの大木の柱のように、しっかりと何かを支え、しっかりと何かであり続ける人であってほしいと願います。また、この管長さんが蔵王堂を去る間際にそっとつぶやいた言葉を私は逃しませんでした。
『僕は、この中であれらの国の名前を言わへんようにしとんや』
金峯山寺には役行者様が鬼を諭して弟子にし、その後も大峰の深い山を共に修行をして歩いた歴史が残っています。節分には「福はウチ、鬼もウチ」という掛け声で、鬼を外へ追いやらないのです。この考え方を千年以上続けている吉野の山深い里の人々の精神性に改めて敬意を抱いています」(https://www.u-tokyo.ac.jp/ja/about/president/b_message2022_03.html)
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●こんごうせん‐じ コンガウ‥【金剛山寺】=奈良県大和郡山市矢田町にある高野山真言宗の寺。山号は矢田山。天武天皇三年(六七四)智通の開山と伝えられる。本尊の地蔵菩薩は矢田地蔵と呼ばれて庶民に信仰され、江戸時代までは八宗兼学の寺として栄えた。矢田寺。八田寺。(精選版日本国語大辞典)
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河瀬さんは奈良のご出身だと聞いていましたから、このような話をされるのかとも思いました。あらゆる種類の「大小さまざまな木」から作られた柱が御堂を支えている、それぞれが「身にあった働き」をしてしっかりと支えになっているのだと。「適材適所」という語のもとになる使われ方です。それについて「他と比べられない」働きをしているというのはわかります。(人間を「材」とみる見方が根強くありますね。「人材養成」とか言いますね。この「人材」という語は、誰が使う表現ですか)そして、管長(さまの)言がきます。「僕は、この中であれらの国の名前を言わへんようにしとんや」と、この話には、きっと前段があったのでしょう、おそらくロシアやウクライナという名前が出てきたかもしれないですね。だから「あれらの国の名前」という語が(唐突に思われる)出てきたのも、邪推すれば、頷(うなず)けます。入学式で、いきなり「僕は、この中で云々」といわれても、わからなかったでしょうね。
問題はここからですが、面倒だから端折ります。管長が言われたことを、河瀬さんが「私はこう受け取ります」といわれて、「例えば『ロシア』という国を悪者にすることは簡単である。けれどもその国の正義がウクライナの正義とぶつかり合っているのだとしたら、それを止めるにはどうすればいいのか。なぜこのようなことが起こってしまっているのか。一方的な側からの意見に左右されてものの本質を見誤ってはいないだろうか?」これはどこから見ても、なるほど、そういわれればそうだという、そんな話(意見)ではなさそうです。現実に、はたして「ウクライナの正義」と「ロシアの正義」が戦っているのか。「正義がぶつかり合っている」のでは断じてないでしょ。戦争を仕掛けた側に、どんな「正義」があるのか。それも可と酔っているというなら、もう一方の「ロシア系住民が虐待されているので」という、その証拠を出さないと、ね。こういうことを大勢の新入生や大人たちの前で、したり顔で、説教を垂れるがごとく(とぼくには読めた)しゃべるその「神経」というか、いや「無神経」がたまりませんね。
どちらかが「正義」にかなっているなら、一方は「不義」であるのではないか。あるいは「喧嘩両成敗」ということを言いたのか。「一方的な側からの意見に左右されてものの本質を見誤ってはいないだろうか?」というのは、「西側」(とロシア権力者が「唾棄すべき存在」の如くに言い募る)陣営の意見に動かされて、ロシアの正義を蔑(ないがし)ろにするのは、間違いだと、彼女は言いたのですかね。(罵りの対象である西側で、ロシアの権力亡者の「親族」が「豪奢な私生活を堪能している、親たちの不正蓄財による資金で」は不問に付して、ですか)

「誤解を恐れずに言うと『悪』を存在させることで、私は安心していないだろうか?人間は弱い生き物です。だからこそ、つながりあって、とある国家に属してその中で生かされているともいえます。そうして自分たちの国がどこかの国を侵攻する可能性があるということを自覚しておく必要があるのです。そうすることで、自らの中に自制心を持って、それを拒否することを選択したいと想います」よくわからない、支離滅裂だとしか読めない部分です。この支離滅裂だとぼくが見ている論理をもって「ロシアがウクライナで行っていること」、あるいは「ロシアによってウクライナ国内でやられていること」を、彼女はなんというのか知りませんが、誰が見ても「侵略」でというでしょうねえ。「そうすることで、自らの中に自制心を持って、それを拒否することを選択したいと想います」というのは、どこの国の「侵略」を言っているのでしょうか。もう少しわかりやすい話を聞かせていただきたいですね、聞く側にいたとしたら。
「入学式」という「心浮き浮き」「心ここにあらず」と思われるときに、それにふさわしい(?)「場所=武道館」(何で「武道館」なんですか)で、いかにも似合わない「祝辞」だったとぼくには見えたのです。
ぼくは昨年も、卒業式や入学式について書きました。コロナ禍にあって、中止する大学もあれば、挙行(虚構・強硬・強行)する大学もありました。そのなかで「入学式をやりたいのは、大学の幹部連中じゃないですか」といいました。今でもそれは変わりません。物事の節目であり、一区切りつける意味での必要性があるとは思いますが、「祝辞」だとか「式辞」などをだらだら聞かされるのはごめんだという経験がぼくには根強くある。だから、まずそんなところに身を置いたことがありません。「立派な言葉」「素晴らしい挨拶」をしたい教員連中がいっぱいいて、しかもできるだけたくさんの「聴衆」に聞かせたいという、身の程知らずの欲望を持っている、そのための「入学式」なんですね。(大昔に、この大学で「肥った豚よりも痩せたソクラテスになれ」とか言った総長がいました。(この表現はO総長のものではない)新聞がこれに飛びついた。これ以来、この悪い習慣(悪弊)が始まったのかもしれない)
そもそも、こんな不出来な話、いったい他人に聞かせる話ですかといいたいね。必要性があるのかもしれませんが、事務的・実務的に、早々に済ませたらどうです。「本日はよく来てくださいました。終わり」というのがいいでしょう。あとは 、見たい人や聞きたい人がいれば(まずいないでしょうが)、youtube などで流しておけばいいんですよ。また「諸君、おめでとう」と、当局の誰もが言います。不思議を通り越して、「なんという愚劣」といいたい。「おめでとう」は他人が、お世辞を兼ねて言うものであって、当事者がいうのは「身の程知らず」ですし、「こんなところに入ってきてくださって、本当にありがとうございます」というならまだしもです。

ぼくは、河瀬さんになんの関心もありません。彼女が撮影スタッフに暴力をふるったというニュースが出ていました。そんなこともあったのかというだけ、彼女の言い分も出ていましたが、「弁解」「言い訳」でしかなさそうに読めました。映画監督が出演者にさまざまな「悪行」を働いているという事件が報道されていましたから、そんなこともあったのかという程度で、(暴力や暴行は論外です)ぼくにしてみれば、まだそんなことをしているんですかというだけのことでした。彼女は、昨年の東京五輪の「記録映画」監督もやられていたと報道されていました。(公開(後悔)は本年の六月だとか)「五輪映画を撮るために生まれてきた」みたいなことを言われていました。その時、この女性は、なんでもやるんだ、こんなに(五輪開催が)問題になっている時期にと、と感じ入った。だんだんと、でも事態が進むにつれて、「なるほど」、こういう人なんでしたか、と。これは「悪口」ではないつもりです。(左写真は「ロシアの『正義による爆撃』」の模様)
ことの進み具合のついでに、「祝辞」の最後の「おことば」です。「この自由な学びの場で存分に生きてください。これからたくさんの人に出会い、たくさんの本を読み、様々なことに挑戦していくのでしょう。見た景色、聞こえた音、匂い、味、肌触り、そこから生まれた感情を大切に、どれだけ小さかろうとあなた自身の想像力をもって真理を見つけるたった一つの窓の存在を確かめてください。どこまでも美しいこの世界を自由に生きることの苦悩と魅力を存分に楽しんでください。/ この度はご入学おめでとうございます」
「自由の学びの場」というのは何のこと、どこのことですか。「当の大学が自由の場」なんですか。それは飼いならされた「犬や猫の自由」だといえませんか。だから、陳腐を映像にするとこうなると想定させる、ありふれた「祝辞」じゃないですか、と愚者たるぼくは思う。(それがいけないのではなく、そんなものだというばかり、だから入学式はない方がいいという持論(自論)です)「どこまでも美しいこの世界」といわれたことには、「正義のぶつかり合っている世界」が含まれていないのでしょうね。断るまでもなく、ぼくは河瀬さんに、一切のふくむところ、恨みも何もありません。あるはずもない。「これこそが、入学式の式辞なんだ」という、ぼくの積年の「嫌悪感」を、昨年に続いて、今年の旧帝大の入学式に照らして言ってみただけです。それに値する「式辞」だったと讃えたい気もしている。
一方の、奈良新聞のコラム氏はさらに輪をかけた冗談を書いています。「立場が変われば正義と悪も変わる。二つの正義と悪がぶつかる中で、片方だけを悪と決め付けて思考を止めることは危険なことではないか」(どういうことですか?、こんなわけのわからないことが平気で書ける新聞というのは、なかなかないですね)「河瀬さんは未来の若者たちに言いたかったのだろう」と。大学に入ってくる新入生は「未来の若者」かね。成人年齢は何歳からだということとは関係ないとして、この連中を「未来の若者」というのは、どういうことかと問いたい。仮に「未来の若者」だとして、いま(全国の)武道館に来たであろう、大学新入生たちは「いつの時代の何者」か。まさか「(現在の)少年・少女」ではなかろうに。(下は「募金を呼び掛ける新庄中学校の生徒会メンバー=20日、葛城市太田の道の駅かつらぎ」奈良新聞・2022/03/22)

「戦場ではロシア兵も命を落とし、彼らなりの『正義』もある」(奈良新聞には、怖いことを「しらっと」いう記者が何人かいるんだ)「ある東大の学者が『侵略戦争を悪と言えない大学なんて必要ない』と河瀬さんの祝辞を批判したという。その言葉を借りれば、『一方的な考えを押し付ける大学なんて必要ない』と言える」と、一端のことを言いなさる。ぼくの脳細胞の水分が枯渇寸前ですから、この部分で、コラム氏は何を言いたい(書きたい)のか、ぼくごときには理解不能でした。どこを叩けば、この「侵略戦争云々」といった東大教員が、誰に、何を押し付けたのか、わかるんですかな。そして、こんな記事が出る新聞、どうなんでしょうねえ。奈良新聞の「コラム」はやはり、ぼくには苦手でしたね。(河瀬氏やコラム氏のような)「未来の老人」の軽佻浮薄な言辞に、「現代進行形後期高齢者」は、この社会の近未来に「末期(まつご)の招来」を確信しています。いつに変わらぬ「軽佻浮薄な駄文」でした。(今回は、これにて失礼させていただきます)
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