【明窓】なるほど 実家で電話取材をし終えて受話器を置くと、何やら言いたげに母が近寄ってきて、辞書を渡された。言葉遣いが気になったという。何度も使った「なるほど」という言葉が。辞書を引くと、「相手の言うことに相づちを打つ時に使う」などという用法に続いて、こうあった。「立場の上の人には用いない」▼何年か前の出来事だが、意識してみると、日常生活でもテレビでも頻繁に使われており、自分でも恐る恐る使ってみて、それほど不快感は与えていないように思われた。言葉は時代とともに変化するもの、という勝手な分析を加えながら▼置き換えられる言葉はないか、と探りもした。「そうですね」では、いまひとつ聞かせてもらったことが共有できた気がしないし、「確かに」でも足りない。これというものが見つけられず、乱発しないようにして使い続けている▼この春、一度だけ確信を持って使った。新入社員の記者研修。デジタル社会を迎え、どうして地方紙を選んだのかを尋ねると、歴史の記録性や地域で積み重ねてきた信頼など、しっかりした答えが返ってきた▼変革の時代、新聞社に限らずどの分野でも、それぞれの土台の上に一緒になって新しい何かを積み上げていけばいいのだろう。入社から1カ月を迎える新しい力。立場の上も下もなく、互いが「なるほど」と、うなればうなるほど、活気ある仕事ができると期待している。(吉)(山陰中央新報・2022/4/30)
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こんな内輪(楽屋)話でも、ひと昔も前なら「ちょっといい話」となるのでしょうか。演劇評論家としてならしていた戸板康二さんには同名の著書があり、ベストセラーになりました。発行年は一昔どころか、四昔以上も前の1978年でした。この本が当たったので、それ以降、さまざまな分野や領域の「ちょっといい話」を戸板さんは書き続けられた。つまりは「柳の下の泥鰌」を一匹ならず、なん十匹も狙ったのです。「あんまりよくない話」のようにも思われました。ぼくは最初の本を「ちょっとだけ読んだ」記憶があります。戸板さんについてもいくばくかの思い出がありますが、本日の駄文の流れには関係なさそうですので、やめておきます。
息子(記者)の「言葉使い」が気になったといわれた母親はどういう気持ちで「辞書」を渡したのでしょうか。記者は何歳ぐらいだったか。いつまでたっても「親は親」だということでしょうね。ぼくも一度だけでしたが、親父から言われたことがありました。大学生になって、年に何度も書かない「はがき」を、何時も旧漢旧仮名で書いていたのを、「学校でも、あのような(旧漢字・旧仮名遣い)文を書いているのか」と、それだけでしたが、ぼくはその後も、使う文字については考えたことでした。ある時期までは、すべてその調子で通していましたが、やがて新仮名、当用漢字交じりの文章に代わっていきました。どうでもいいことですが、一つの漢字でも、時期によっては異なった書き方があり、送り仮名もそうでした。だから、ある作家のものを読んでいて、この人はどの時代に学校教育を経験したか、わかりそうな気がしたほどでした。旧字体の文章を書くのに、大きな理由があったのではありません。これも説明すると長くなりますので、省略しますが、漢字一つ、言葉使いにも「歴史」があるということに興味を覚えていたのです。

コラム氏のような経験談を語っていた作家がおられました。ぼくがつねに愛読していた井伏鱒二さんです。井伏さんが、たしか文化勲章を受賞された時だったか。母親が電話をしてきて(井伏さんが報告したのかもしれない)、「今何をしてるんか」と訊かれ、井伏さんは「文章なんかを書いている」と答えたら、「辞書などで調べて、きちんと書かにゃいけんよ」といわれたそうです。その時、息子さんは「そうする」と答えたそうです。時に一九六六年、井伏さんは六十八歳だった。広島出身の大作家というべき人でした。いつまでたっても、「子どもは子も」と、当たり前ですが、親は思うのでしょうか。ありがたいことではないか。
「なるほど」は「立場の上の人には用いない」という、一種の使い方の礼儀があったんですね。そんな言葉はいくらでもあります。早い話が、尊敬語とか謙譲語などというのも、こういう言葉使いのニュアンスから定まってきたのではないか。だとすれば、上下関係も、親子関係もすべてが「水平」に並んでいるとする時代意識が強くなると、尊敬語や丁寧語、謙譲語などという面倒な「人間関係」に振り回される言葉使いは嫌われるというか、薄れていくでしょうね。それはそれで、一理も二理もあると、ぼくは考えています。しかし、目上とか目下などではなく、人間に対して、ある種の「尊敬心」があると、おのずから言葉使いにもそれがにじみ出てくるのではないでしょうか。
ぼくはかなり「辞書好き人間」を自認しています。理由は単純で、この「言葉」をいかに説明し、解説できているか、それを読む(見る)のが趣味のようなものになってしまったからです。
ぼくは最も熱心に読んだのは諸橋轍次氏の「大漢和辞典」でした。今でも簡略版と本格版の二セットを所有しています。暇な折には、どこでも開いて面白ければ読みふけります。「諸橋轍次(もろはしてつじ)著の漢和辞典。大修館書店刊。全13巻(うち索引1巻)。1943年第1巻が刊行されたが,戦災により中止。戦後1955年―1960年に刊行された。収録する親文字4万9964字,熟語約52万6500語に及び,用語例の豊富さと出典の確かな点で,なお高い評価をうけている」(マイペディア)この時点を作り上げる「執念」はどこから来るのでしょうか。ぼくの想像をはるかに超えています。


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● 諸橋轍次(もろはしてつじ)(1883―1982)=漢学者。新潟県の生まれ。東京高等師範学校(後の東京教育大学。現、筑波(つくば)大学)卒業。中国に留学後、母校教授、東京文理科大学教授や附属図書館長、静嘉堂(せいかどう)文庫長などを歴任した。著書は『詩経研究』『儒学の目的と宋儒(そうじゅ)の活動』『支那(しな)の家族制』など多数あるが、1927年(昭和2)から1960年(昭和35)にかけて完成した『大漢和辞典』(本巻12巻・索引1巻)は、その生涯をかけた大著である。同書は途中、1945年3月の東京大空襲で全資料を焼失したが、戦後に再起、総ページ数約1万5000、収録された親字4万9964字という、日本における漢和辞典のもっとも大規模なものである。第1巻が刊行された1943年の翌1944年に昭和18年度の朝日文化賞を受けた。1965年文化勲章を受章。(ニッポニカ)
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誰が言ったか知りませんが、「なるほど」などというのは目下に対して言うものであり、それらを称して「大名言葉」というらしい。大名は使ってもいいが、下々はダメとでもいうのでしょうか。今の時代にも、こんな「言葉の礼儀」をうるさく言う人がいるのかもしれません。このほかに「ご苦労」とか「ご苦労さま」や、「了解しました」、あるいは「とんでもございません」なども、その手の言葉として、目上に対して不用意に使うと、お里が知れるというわけ。ぼくは、このことに関してはかなり「無礼」です。このような言葉使いには、面倒な頃は言わないできました。若いころに、一回りも年上の先輩に用事を頼まれて、片付いたと報告をした際に、つねに「ご苦労」といわれていた。ある時、「申し訳ないのですが、その言い方はやめてくれませんか」といって、それ以降は使わなくなったということを思い出しました。繰り返しますが、言われていい気がしない言葉は、だれがどうだという以上に、それを言われた人間の感情の問題でしょ。

「大名言葉」というくらいですから、上から下への一直線でしか用いられないものとされていたのかもしれない。しかし、どんな言葉を使うか、よりも、どういう心持で使うかということの方が、よほど肝心でしょう。昔、ある総理大臣が「言語明瞭、意味不明瞭」などと盛んに言われていたことがありますが、彼は、言葉を操って、相手をごまかすための言葉を使っていたのですから、この手合いがどんなに丁寧に話したところで、相手を尊敬していないことには変わりがないのです。政治家の言語能力が、はなはだ「貧相」になったのも、このことと無関係ではないでしょう。近年、さかんにいわれる「~させていただきます」というのは、耳障りなだけでなく、「させてやらないよ」といいたくなるほど、不分明な表現ではないですか。これを使えば、何を言ってもいいというような下種の心が見え透いています。

ぼくは、今でも毎晩「ラジオ深夜便」を聞きながら眠りますが、この放送で最初から気になっている言葉使いが「今夜(本日)のご案内は、●×ペケ子でした」などという言い方です。この放送会社は「言語の専門家(アナウンサーも、当然含まれます)」ばかりですから、はっきりした方針があって使われているのでしょうが、奇怪な言葉使いで、ぼくは気に食わないんですね(ぼくの勝手ですが)。邪推するに、聴き手を「尊敬しているので」、謙譲語(視聴者を立てる風)のようなつもりで、連日連夜使っているのでしょう。これこそ、「案内はだれだれでした」というほうが、よほど明瞭じゃないかと、いつも聴きながら「改められる日」を待望しています。この「案内」の代わりに、「担当」という語を使うとどうなるのでしょうか。この会社の方針では「みなさま」を立てる(尊重するつもりらしい)のでしょうから、きっと「今晩のご担当は、いろはにほへどでした」というのでしょうね。ぼくなら迷わず「今晩の担当は、山埜聡司氏でした」というでしょうね。この違いは、本当に「相手を立てる」かどうか、その心持の有無にあるんですか。疑わしいねえ。
(この深夜便、時には「なかなかいいなあという、視聴者の便り」があります。それが聞けたことをとても幸せに感じられるのですね。もう三十年ほどにもなるでしょうか。こんな話がありました。一人の女性からの便りです。「私は八十何歳。独身です。戦時中に約束した人がいましたが、彼は招集されました」「その後どうなったかわかりませんが、私は今でも一人で待っています」とありました。それを聞いた、ある地方の女性視聴者から、「ひょっとしたら、あのお手紙の男性は、私の従兄弟かももしれません。彼は戦後、無事に復員して、その後は結婚もしないで、数年前に亡くなりました」という手紙が届いた。担当者が了解を取りつつ、そのお二人の女性がお会いになったという。いろいろ話を聞くうちに、お互いが「相手を気遣って、独身をとおしていた」ということでした。こんな、飛び切りの「機縁」があるんですね。三十数年「深夜便」を聞いていて、こんな「人生の縁(えにし)」を知ると、まるでわがことのように、人間というものは…、そんな思いが募ります。もちろん、その反対もあるのは当然ですが)

言葉は生きているというのではなく、それを使う人間によって、言葉は美しくも醜くもなるというのでしょう。ここでも大岡信さんの「ことばの力」を想起します。面倒なことを言うなら、この「語」はこんな場合には使ってはいけないという「忌み言葉」がありました。面倒なことですね。今でもあるのでしょうか。ぼくの親父が土佐生まれだったせいで、高知(土佐)が好きで、その高知の標準語(=土佐弁)も好んでいました。今はどうだか知りませんが、土佐弁には「謙譲語」とか「尊敬語」が男女に限らずなかったといわれます。だから「自由民権運動」が起こったというのは、ちょっとできすぎですが。房総半島にも、「丁寧語」「謙譲語」を使わない地域がありました。男女問わず、「おれ」「お前」で通していた、そんな時代を、ぼくは知っています。使用言語において、平等というか、分け隔てなしというのは、気持ちの上でも、実にすっきりするものですね。
「本日は、ここまでにさせていただきます」
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