いつも「学校って何だろう」と疑っている

<あの不思議な場所>。詩人の茨木のり子さんは、「学校」をこう表現した。<校門をくぐりながら蛇蝎(だかつ)のごとく嫌ったところ/飛びたつと/森のようになつかしいところ>。共感する人も多いのではないか。▼福岡市でこの春、新たな「森づくり」が始まった。九州初となる公立夜間中学「福岡きぼう中学校」だ。週5日夕方から4時限、美術や保健体育も含めた9教科の授業を行う。▼市教育センターを改装した学びやに、15~82歳の30人を迎えた。入学式を伝えるニュースは校名通り希望に満ちていた。「やっと中学校をやり直せる」。いじめに遭い、小学5年から不登校になったという30代男性の言葉が胸に残る。▼公立の夜間中学は現在、15都道府県に40校ある。国は2026年までに全都道府県と政令市に1校以上の設置を目指す。不登校や外国籍の子どもが増える中、学びの選択肢が広がる意義は大きい。▼鹿児島県教育委員会はパンフレットを作成し、ニーズを把握する調査を近く始める。本年度中に検討委員会を立ち上げ方向性を示す考えだ。離島を抱える地域特性も踏まえた構想を望みたい。▼茨木さんの詩は続く。<今日もあまたの小さな森で/水仙のような友情が生れ匂ったりしているだろう/新しい葡萄(ぶどう)酒のように/なにかがごちゃまぜに醗酵(はっこう)したりしているだろう>。にぎやかで薫り高い、多様な森が増えるよう願う。(南日本新聞・2022/05/01)

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 本日から皐月です。「爽(さわ)やかな」「薫風(くんぷう・かぜかおる)」という形容句がつく「五月」ですが、今年は、重苦しいというのか、鬱陶(うっとう)しいというのか、あまり爽やかでも、風薫るという風情でもなさそうな、そんな雰囲気の中の五月入りではあります。コラム氏の記事にあるように「福岡きぼう中学校」という「夜間中学校」が、さまざまな思いを持った人々の願いが集まって出発します。一時期、いくつかの「夜間中学校」に赴き、そのありようを学ぼうとした時期もありました。各地の行政のほとんどは、「夜間中学校」を必要悪視して、いわば「弱い者いじめ」のような扱いをしてきました。それがどういう風の吹き回しだったか、「夜間中学校」待望論が台頭し、今ではそれなりの「市民権」を得ている状況であるといっても、まだまだ、その多くの願いは、じゅうぶんに聞き届けられていないのです。この「夜間中学校」に関してはどこかで触れていますので、繰り返しません。そこは、それまでの人生で教育に恵まれなかった人たちにとっては、なんとも形容しがたい「避難所」であり「安息場」でもあるということもできます。

 二年前の五月某日、ぼくは、茨木のり子さんの「学校 あの不思議な場所」などを巡って、極め付きの駄文を書いています(https://http836.home.blog/2020/05/27/)。ぼくも人並みに、茨木のり子という詩人を読んできました。早い段階から亡くなられるまで、ほとんどすべてといっていいほどに、彼女の書くものを目にしてきました。そこから学んだものは何か。ぼくには詩心(しごころ)などはみじんもありません。誰よりもよく知っている、そんな人間が、茨木さんをはじめ、あまたの「詩人」に引き付けられるのはなぜか。一編の詩は、作者の「自叙伝」だと考えているからです。無駄を省き、虚飾を捨象して綴られた、数百字の「自伝」だと思うのです。一言でいえば、詩とは詩人の「経験の純化(言語化・抽象化)」であり、「生活体験の骨肉化」だといえるでしょう。その意味は?

 おそらく「詩」というものは、その人の「感性」「感受性」が生み出すものだと思われています。それも、あながち間違いではないでしょうが、それ以上に、誰もがする「経験」が元手になっているという意味です。その「経験」をがっちり把握し、見事な言葉選びによって、強固な文章による、「経験の砦」を築くのです。逆に、詩を読んで、作者の「経験」が読み取れなければ、それは、ぼくには、積極的に受け入れられないものとなる。この「経験(体験)」ということを強調すると誤解されるのですが、どこまで行っても、詩は作者の「自己経験の表現」だという、極めて当たり前なことに思い至る。よく使われる陳腐な表現を用いるならば、極め付きの「私小説」あるいは「日記」なのだと、ぼくは見ています(それだけが「詩」であるはずがないのは当然です)。こういって、詩を平板化もしないし、平凡化もしているのではありません。また、それだから読めばよく分かるというものではありません。難解この上ない「詩」というものがありますから。「学校 あの不思議な場所」はどうでしょうか。時々、ぼくは茨木さんの詩、ことに「自分の感受性くらい」を、「反省文」なんだといってきました。作品の値打ちを落とすためにそういうのではない。戦時中、模範的な皇国少女だった茨木さん、だから「今となれば、自分の感受性くらい、自分で守れ」となるのです。「皇国少女」「小国民」であったからこそというのが、彼女の、戦後の詩人としての「出発点」であったといいたいからです。彼女の足場は「戦時中」にあったのです。この時、彼女の「感受性」は、彼女のかけがえのない「経験」でもあったのです。その「感受性」によって間違いを犯したという「反省」、あるいは「覚悟」から、彼女の詩は生まれたのです。

学校 あの不思議な場所
校門をくぐりながら蛇蝎(だかつ)のごとく嫌ったところ
飛び立つと
森のようになつかしいところ
今日もあまたの小さな森で
水仙のような友情が生まれ匂ったりしているだろう
新しい葡萄酒のように
なにかがごちゃまぜに醗酵したりしているだろう
飛びたつもの達
自由の小鳥になれ
自由の猛禽になれ 

 作者は「学校」を受け入れているのでしょうか。あるいは学校にいながら、それを拒絶しているとも読み取れます。学校は「二律背反」ともいうべき機能や性質を持っているのだといえばどうでしょうか。一人ひとりには必要悪だと、ぼくが言うのも、それと同じような意味合いで、「矛盾」を学校は抱えているからです。「長短」併せ持つ、不思議な場所。物を学ぶのは、学校の専売ではないし、それ以外の場所で、もっと効果的に学ぶことは可能です。その証拠に、みんなが学校に行くようになる時代の前には、学校不在の期間は悠久の昔から続いていたのでした。この島に人が住み着いてから、そのほとんどは「学校不在」でした。しかし、それでも「教育」という働きはいつでも行われていた。だから、ぼくは常に、学校のなかった時代の「教育」という視点を忘れたくないと思い続けてきたのです。では、どうして学校は作られたのか、これに関しては、このブログで繰り返し、卑見を曝(さら)け出してきました。個々人が求めて作られたものではないというところに、ぼくたちは問題の所在を認める必要があるのではないですか。だから、人によっては「あってもなくても困らない場所」なんだと思う。そういう観点からみても、学校というのは実に不思議な場所です。

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 弱い者の一人として 「わたしたちは仲間です」。筆箱の中で小さく折りたたまれた紙に〈うすい筆跡で魚の小骨みたいな字で〉書かれていた。川上未映子さんの小説「ヘヴン」の冒頭だ▼学校でいじめに遭う〈僕〉と〈コジマ〉が友達になる物語だ。ひどい暴力の中で育まれる友情が踏みにじられることのないよう願いながら読んだ▼川上さんは、人生の本質は「失われる」ことだと取材に答えている。理不尽に壊され、失われる弱い者を丁寧に描く作品が多くの人を引きつける。「ヘヴン」は英国の文学賞「ブッカー賞」の国際賞で最終候補になった▼北海道旭川市でいじめを受け、凍死した中学生の母親をネット上で中傷したとして3月に愛知県の女性が侮辱罪で略式起訴された。1月にも男性が略式起訴されている。国会で侮辱罪の厳罰化を巡り審議が続いている▼事実を解明するために闘う母親を冷笑し、傷つける風潮があるのは不条理だ。弱い者の一人として支え合うことが私たちの役目ではないか。誰も理不尽な被害に遭うことのない社会をつくるために。(琉球新報・2022年4月30日 )

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 旭川の「いじめ自殺事件」に関しても、どこかで触れました。「学校におけるいじめ」という点ではまれにみる悪質なものであり、その「中学生の死」を巡って、教育関係者の対応は、まともな人間なら思いも及ばないような「破廉恥」なものでした。人間の死に対する「ぶじょく」だと、怒りを込めて言いたい。さらに悲惨極まりないのがネット上の、「誹謗中傷」「名誉棄損」などというのもかわいく思われるような、これまた悪質極まる、はなはだしい「人権侵害」です。「やりきれない」というのは「被害者や、その関係者」の「陳述」「弁明」であって、「やりきれない」という語は、ぼくたちのような傍観者が口にすべき言葉ではないでしょう。ここまでくると、学校というのは不思議でも何でもない「残酷・無残な場所」そのものです。今なお、この事件は多くの問題を抱えながら、問題のありかを求めるところにまで至っていないようで、逆に「被害者」がさらに「いじめ」「恥辱」を受けるような事態が引き起こされているともいえます。

 先日も、事件や事故が発生した段階での教育・学校関係者の対応が、言葉に窮するほどに「頽廃の極み」に至っていることを述べました。「人命軽視」ではなく「人命無視」だといわなければならないほど、子どもの命を守る姿勢に欠けているものがあるのです。すべての関係者がそうであるとはもちろん言えないが、「偉い人」ほど「人間の屑だ」などという、はしたない言葉を使いたくなります。事態は深刻の度を深めているというほかありません。ネットの暗闇から「人を撃つ」というのが、まるで一種の流行文化(ポップ・カルチャー)のように、「悪の華」が開いています。実際に、このような問題に腐心しながら、教室で生徒たちと打開策を求めようとする教師たちもいる。機会あるごとに、このような課題に関して議論を重ねることが大事です。答えは見えてはこないが、問題の深さが分かるだけでも、貴重な機会・経験になるからです。もちろん、法律で規制するのは第一歩ですが、それで終わりにしてしまえば、さらに「中傷」は悪質になって、深刻の度合いも深くなるばかりです。この時代、この社会には「犯罪行為」に対して確信犯が、いくらでもいるからです。(参照:https://www.jiyu.ac.jp/blog/info/74783)

 法治国家だからといって、何事も「法律で規制」するとどういうことが起こるか。おそらく、人間は今以上に「判断力」を失うでしょう。判断しなくていいことばかりが生活の場面で増えてくるからです。法律の禁止事項の増大が人間を「賢くする」とはとても考えられないのです。刑法において「人を殺してはいけない」という条項はありません。だから「殺してもいいのだ」となるのでしょうか。「(刑法)第199条  人を殺した者は,死刑又は無期若しくは5年以上の懲役に処する」とあります。この条文は何を意味しているのか。それを知ってか知らずしてか、殺人事件は日常的に発生しています。規制(歯止め)があるから、殺人行為はしないというように、人間はできて(つくられて)いないのです。規制(法律)の有無に関係なく、犯罪は犯されるし、被害者は生み出されるのです。被害にあう、加害者になるなどという、できれば避けられる「事件」「事故」がどうして断ち切られないのか、そこにこそ、人間の「未熟」「未完成」がうかがえるのです。

 川上未映子さんが言われる「人間の本質は失われること」というのは、こういうことも際しているのでしょうか。「失われる」というのですから、持っているし、持っていたのです。それが「奪われる・奪われた」のはどうしてなのか。羞恥心も思いやりの心も、あるいは同情心や敬愛の情(尊敬する心持)も、いつかきっと奪われ(失われ)るのでしょう。法律で規制する、あるいは教育で「歯止めをかける」、それは大切ですが、それでも中傷や名誉棄損などの人権侵害、まぎれもない「犯罪行為」が続発するのはどうしてなのか。「戦争」が悪であり「犯罪」であると、誰もが言ったり聞いたりしているし、それが起こらないことを願っているにも関わらず、起こるのです。

 問題の根っこは、自制心や自己抑制を無にするような働きが、人間の内部に大きく育っているのです。他者を傷つけたい、支配し征服したいという本能に似た「情動(emotions)」「情念(passions)」のもとに、人間は存在しているということを、忘れないことです。これもまた一つの、実に素朴な感覚・感受性でもあるのです。だからこそ、「自分の情念くらい」「自分の情動くらい」というべきなのでしょう。人間も、一面では、一個の器械(道具)です。したがって、道具固有の「諸刃」があることになります。「スマホ」も同じですね。自分を傷つけるかもしれぬが、他者も傷つける、そのことを失念しないこと、自分が傷ついていることに自覚がないというのが、もっとも深刻なところですね。他者を傷つけると同時に、自分自身も、それによって傷ついているのです。自傷行為、自己虐待というか自己殺傷なんですね。だからこそ、言いたくなる。「自分の諸刃くらい、自分で守れバカ者よ」どんな人間も間違いを犯す、失敗をする。肝心なのは、間違いや、失敗に気づくこと、気づいたら、それを改めること。人間のできる最大の善行は、これに尽きるのです。これが「人間の賢さ」です。

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投稿者:

dogen3

「上を思えば限りがないと、下を見て咲く百合の花」になれるものなら、という想いです。それこそ、「高嶺の花」ですが。「昨日は俗人 今日は僧、生涯胡乱(うろん)これがわが能」と自称した一休さんは、一面では「相当な人物」だったと、歳をとるとともに思わされています。