発見から創造へ ー 教職の可能性と限界と

  教育者と写真家の「対談 発見から創造へ」について

 大学を卒業して田舎に帰り、山の中学校の教師になろうなどと、まったく漠然と考えていた時期がありました。漠然と考えたというけれども、実際にはほとんどなにも考えていなかったに等しいと、後から振り返って、恥ずかしくなるほどです。その後は、田舎にも戻らず、あいかわらず「風来坊」のような頼りない生活を続けているうちに、どういうことか、実にうかつでしたが、学校の教師のような仕事についていました。それも教育や道徳を課題にするような(教師の真似事)人生が、何時とはなく始まり、気が付いてみれば、なんと四十数年も続いたのです。惰性の働き、慣性の法則が、ぼくの場合にはいかに強かったか、我ながら驚くばかりでした。真似事とはいえ、教師の仕事を見よう見まねで始めてしまい、最後までその核心部分が分からないままで、逃げるようにして学校を去った。

 その間、ぼくはひたすら「教育という実践」「教師の仕事」に関して、あらゆるものから学ぼうとしていたのは確かでした。得られたものはあまりたいしたものではありませんでしたが。それは当然で、まず知的方面での才能の欠如、加えて「向学心」というか、少しでもいいから「学びたい」という気力・努力に著しくかけていた。その両方をあわせて「才能」「才覚」というなら、ぼくはまったく学ぶことを知らない「無知・無能」であり、手に負えない「怠け者」であったというほかありません。ただ、そんな拙劣極まりない人間でしたが、本だけは読んだ。読みに読んだ(といっても、たかが知れています)。世に「研究」という領域の仕事があり、多くの華々しくも目覚ましい「成果」が誇られていますが、ぼくはただ先人の驥尾に付すという姿勢を一貫してきたにすぎません。この「驥尾に付す」を、ぼくごときが使うなどというのは笑止千万ではありますが、「優れた先人」の後を追っかけるということで、重点は「優れた人」にあります。基準は何もない、ただ、ぼくの経験と直感(直観)という出鱈目な判断力が、たった一つの秤・尺度でした。

 そんな中でも、ぼくはごく若いころから斎藤喜博さんの書かれたものはよく読んだ。本当に繰り返し読んだものでした。大学時代に少しばかりでしたが因縁ができた教師からの勧めもありました。が、とにかく暇があれば斎藤さん、来る日も来る日も喜博さんでした。そんな塩梅で、「斎藤教育学論」「喜博教育実践論」なるものを、手当たり次第に読みふけったものでした。どうして引き込まれたのか、一言でいうことはできません。しかし、誤解を恐れずいうなら、「教育は芸術だ」「教師は芸術家たれ」というニュアンスの、彼の「教育真言教」に惚れたのだと思います。「デモ・シカ教師」論が蔓延っていた時代社会に、斎藤校長の仕事は、無知で無能な若者さえも動かす「迫力」があったのでしょうか。教師の仕事は(芸術に等しい、というのはさておいて)、多くの氷魚tが想定しているよりンはるかに貴重な仕事であり、職業だと思いたかった時期でした。でも、その当時、ぼくには、教職というものに関しては、何もわかっていなかったのでした。(左写真は斎藤喜博氏)

 爾来、三十年を経てからは、ぼくにも、少しはゆとりというか、余裕が出てきたともいえるのです。つまり「教育はそんなに御大層なものなんですか」、教師は子どもを、マジで「育てられない」のではないですか、「学校に接近しすぎると、火傷(やけど)をするよ」というような、学校や教師というものから少し距離を置くだけの「成長」があったのかもしれないし、「学校や教師とは不即不離のつきあい」に思い至るところがあったと、自分では考えています。学校万能でもなく、教職聖職論でもない、当たり前の「仕事」、「生業としての教職」を、少しは地道に慮る(おもんぱか)ることができるようになったともいえます。なんだ学校なんて、大したことができる場所でもないじゃないかという加減(気分)も少しはありましたが、むしろ学校や教師が何でもかんでも「子どもに対して、与える・教えることができる」という教育万能論に大きな疑い、いやむしろ「不信感」を持つようになったということです。

 それは、単に学校にだけ問題の根があるのではなく、深く広く時代や社会の「世相」(世評・ドグマ)に依拠していたことの狭さからくる、至らなさ、間違い(欠陥)に、ぼくが遅まきながら気が付いたということでした。そのような部分については、このブログ(駄文集録)の端々に、如実に表れていると、自分なりに見ていますます。要するに、「教師の側」からばかり「学校・教育」を考えるのは可笑しいのではないか、もっと「子どもの側から」「生きている現実の生活」から、学校や教師を見直さなければならないという地点に、ぼくは足場を築くようになったともいえます。そこから、「教育」「学校」というものの見え方が、がぜん色あせてきましたね。それはぼくの「成長」であったとは、とても思えないのですが。だからといって、「学校教育」が重要ではなくなったということにはなりませんでした。ただ、入試の合否や偏差値、学歴偏重にいささかの不思議も感じない学校教育全体への、ぼくなりの「総反撃」のようなものが生まれかかっていたともいえそうです。

 若いころに、夢中になった斎藤さんの「教育芸術論」の中核部を少しばかりではあれ、語っているのが、この「対談集」でした。中でも写真家の土門拳さんとの対談は、ぼくにとても刺激的であった。まだまだ土門さんは全盛期のころだった時期に、二人の邂逅がありました。斎藤さんは、すでに現役を退かれ、あるいは「全国授業行脚」を続行している時期であったかもしれません。斎藤神話が広宣流布されていた時代になっていたでしょう。ぼくが教師をしていた時に、盛んに斎藤さんを授業で扱っては、先輩の教授連中から「軽侮」「揶揄」されたことがしばしばありました。「アイツはロクな研究もせずに、小学校教師に入れあげている」という具合に。まったくその通りでしたから、「確かに」という感じがありはしました。しかも、現実には「入れあげている」以上だったので、ぼくは、連中の非難には目もくれなかった。「読みもしないで、何かを言うなよ」とさえ思っていた。 

 以下、ほんの触りの部分だけですが、紹介しておきます。こんな両者の発言をどのように読むか、読むことができるか、そこがとても大事であると、ぼくは思います。(右上写真は土門拳氏)

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 斎藤 土門さんにおたずねしたいのですが、カメラ芸術ってものは、文学とか絵画よりも、たとえばぼくなんかが撮ってもここにあるこのコップならコップが撮れてしまうというように、なにかちょっと抵抗がないわけですね。だれでも何でも撮れてしまう。(中略)これはぼくの独断的解釈で押しつけみたいな意見ですが、そういう通俗的になる要素を持っていると思われるカメラ芸術のなかで、土門さんのような通俗的でないものをつくり出していくことは、どういうことなのか、そういうことを質問したいのです。なぜこういう問題を出すかっていうと、教育という仕事は、もともと教師をひじょうに通俗的な人間にしてしまう要素が、じゅうぶんにあると思うからです。それは、自分が駄目な教え方をしたために子どもが駄目になっているときでも、この子はできないんだ、社会がわるいからこうなっているんだといえば、それで済んでしまうところがあるからなんですね。(中略)

 土門  これは写真でも映画の芸術でも、カメラというメカニズムが対象と自分のあいだに介在していますから、新米がシャッターという物理的な力があればこと足りてしまうことにもなるのですが、その背後に人間がいるということですね。そうじゃないと、人間の感情、意志、思想がカメラになにも関係ないってことになっちゃうでしょ。(中略)このコップなら写す人はガラスという質感なり、コップ本来の美しさを写そうという期待と欲求があってやるんだから、…。

 斎藤  …ぼくはいまの〝期待と欲求〟という言葉をひじょうにいい言葉だと思ってきいておったんですがね。これは教育のばあいでも、期待と欲求の高いAという教師が子どもたちの前に立っているときと、それのないBという教師が子どもたちの前に立っているときとでは、ぜんぜんちがうものになってしまうからです。これも教師の仕事を追求していくばあいに忘れてはならない問題だと思うのです。

 土門  作家のがわはべつに個性的なもの、あるいは独創的なものを、つっこもうなんて思っていることは一度もないわけですね。要するに、そんなことは考えていない。その結果を、みるがわがいろいろなものを感じたり、あるいは私個人のくせ、個性というか独創というか、それをみるってことはあるけれど、作家のほうは一度も考えたことはないですね。(中略)

 斎藤  授業のばあいでも、一人ひとりの教師が土門さんの言葉でいえば期待と欲求が強烈であるか、またそのような方向がより高く正しいかどうかにかかってくるんじゃないか。その上で教授学をつくり、教科の体系の近代化、現代化をはかり、それを武器として、つまり、いいカメラ、いいフィルムがあればよい条件がそこにあるように、なおいいものができるんじゃないかと思っているのですが、〝背後にある眼〟について、もう少しお話していただけませんか…

 土門  一般教養…といっては語弊があるが、ほんものということですね。跳ぶ、ということも、ほんとうに跳ぶことをみ、知らなければいけない。ガラスひとつ撮るにも非ガラス的なものを知っていなければならない。(中略)ほんものを教えることをしっかりやらなければいかんと思いますね。(以下略)(1966年6月、東京にて対談) (土門拳・斎藤喜博「発見から創造へ」)

HHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHH

 土門さんも斎藤さんも故人となられています。この自意識のかたまりのようなふたりが思いっきりぶつかったら、さぞかし大変なことになっただろうと思われますが、まあ、淡々と対話が進んだといえそうです。(全部をご紹介すればいいのですが、いずれ機会を見つけて)このような「芸術論」というか、職業観について、ぼくは、今ならかなりの批判をぶつけたい気がします。でも、それはまた機会を改めて、ですね。(誰だってカメラで写真」が撮れる、それは猫だって「ピアノが弾ける」というくらいに、ばかばかしい意見ですね。「期待と欲求」というものは、大なり小なり、ほとんどの教師は持っているでしょう。持っているけれども、それが実現される可能性は、写真を撮るのとは比較にならない困難さがあるのです。教師も子どもも、同僚も、親も、何もかもが人間だからです。生身(生物)が相手と、「静物」とでは吉良べること自体が間違いではないでしょうか。

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 その斎藤さんが教師の仕事を次のように言い切っています。いかにも彼らしい。 斎藤さんは、土屋文明さんの薫陶を受けた「歌詠み」でもありました。短歌誌「ケノクニ」を主宰され、強烈な「短歌(啖呵)集」が、後に残されました。「教師は芸術家だ」と思うのは喜博さんです。質の高い授業が芸術であると、果たして言えるかどうか、言ってもいいけど、その根拠になるものは何か、じゅうぶんに喜博さんは言い当てていないと思う。これは「表現」の問題であり、教職にはそんな要素は無駄とは言いませんが、むしろ、「芸術」的創造というなら、子どもの側に当てはまるのではないですか。

《私は教師は芸術家だと考えている。教師の仕事としていちばん大事な場面である授業も、それがほんとうに創造的なものであり、探求的なものであれば、その授業は、芸術と同じ高さになり、芸術と同じ感動を人に与える。そして、そういう授業をすることによってだけ、子どもも教師も満足し成長し、自己変革をとげることができる》(斎藤喜博『授業入門』) 

 若かった頃、斎藤さんのこのような言葉を聞いて(読んで)、ぼくなどは卒倒しそうになりました。すごいことをいう人もあるのだな、と。もちろんそれを否定する理由を少しももたなかったし、彼が言おうとしている意味がどのようなところにあるのか、自分のささやかな経験からも分かりそうな気がしたのです。だから、「入れあげた」わけですね。実に若かったというほかありません。一面的にしか「教育」「学校」を見ていなかったという意味です。子どもの立場に立てていなかったんでしょうね。

《そういう授業をするためには、教師はいつも芸術家の創造態度と同じ態度を持ち、一時間一時間の授業を、作家が作品をつくるように、そのときどきの創作として創造していかなければならない》

 といわれれば、ただうなだれるばかりということになりますね。その気持ちは、今だって強くあります。この部分を解明するためには、かなり面倒な文章を書かなければならないし、いまのぼくには、そんなことには、それほどの興味がないのです。

 作家、画家、音楽家、…ときて、並んで「教育家」とくれば、なんの違和感もなく受けいれられるでしょうか。これらの、芸術家といわれる人々(職業)はすべて、なんらかの創作活動、言葉の正しい意味で、創造行為をしている人たち(職業)であるといわれます。創造行為とはなにか、自らの内から、未だ形をなさない思想や感情を、言葉・色彩・音という手段(道具)(材料)を用いて<形を与える>ということでしょう。一言でいえば、<表現する>のです。教師の仕事は「子どもという作品」を生み出すことだという先入観、自己体験に基づく「予見」「予断」が、斎藤さんにはあった(ある)ように、今でも感じます。絵や彫刻、あるいは音楽や小説を作るのと同じような意味合いで、「子どもを作る」ということはできないでしょ、むしろ、子ども自身が「成長」というキャンバスに、思うような絵を描くことをしているんじゃないでしょうか。教師は、それを見ている、聞かれればアドバイスする、野球の監督やコーチのような位置にいるのであって、言われたことを「やる・やれない」は、選手にゆだねられているのです。 

 野球の監督やコーチだって、その仕事は創造的・表現的行為であるでしょう。だから、教師の仕事である「授業」は、そのような意味における<表現行為>であるのだろうと、ぼくは考えています。そこで、<表現行為>ということについて考えてみたいのです。教師の仕事である授業と<表現行為>とにどんな関係があるというのか、といぶかしく思われるかもしれない。誰でも、何かについて文章を書くときのことを想定して下さい。ある課題を与えられ、それを文章に表現するのは、まぎれもなく〈表現行為〉だといえるかどうか。問題はその<表現行為>の内容ですよ。誰かの文章を借用することは記録・記述ではあっても「表現」ではない。そのようなときに、教師の仕事にとって子どもはどんな位置づけになるのでしょうか。それが問題ではないですか。(ここで、斎藤さんが言われた「写真を撮る」のは、素人でもプロでも「映す・写す」という点では「差」はなかろうという意見を考察するべきなんでしょうね。そして、土門さんが言われた「期待と欲求」というものを教師にも重ねてみると、さらに何が明らかになるか、この先の議論は、少し先までの「宿題」にしておきます)

 どこかで触れておいた、大岡 信さんの「言葉の力」を思い出してほしい。あれをそっくり書写しても自分の「表現」にはならないでしょう。当たり前だといわれますが、世の多くの人はその程度のことをして(言って)いるにすぎないんじゃないですか。どんなにささいなことであっても、文字にとらえきることはそんなに簡単ではないのです。表現するというのは<express>に該当します。一例を上げれば、レモンを絞って、なかから「レモン汁」を絞り出すことです。レモンには「レモン汁」があります。果たしてぼくたちの中には、つねに「(果汁に似た)絞り出されるべき液体(言語などによって、内容を与えられるもの)」があるといえるのでしょうか。中にある「X」を、「ex(外に向かって)」「press(圧して出す)」、その内容こそが「独創的」であることを、人にも自分にも「期待」され、「欲求」されるのでしょう。

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〇土門拳 (どもんけん)(1909-1990)=昭和時代の写真家。明治42年10月25日生まれ。名取洋之助の日本工房で報道写真をまなぶ。昭和14年退社し,古寺巡礼の取材をはじめる。戦後は「絶対非演出の絶対スナップ」の写真リアリズムをとなえ,木村伊兵衛とともに写真界をリードした。平成2年9月15日死去。80歳。山形県出身。日大中退。写真集に「ヒロシマ」「筑豊(ちくほう)のこどもたち」「古寺巡礼」など。【格言など】丸めて手に持てる,そんな親しみを見る人々に伝えたかった(「筑豊のこどもたち」をざら紙に印刷した理由)(デジタル版日本人名大辞典+Plus)

〇 斎藤喜博(さいとうきはく)(1911―1981)=教育研究家。群馬県佐波(さわ)郡芝根村(現、玉村町)に生まれる。1930年(昭和5)群馬県師範学校卒業。長く小学校教員を務め、1952年(昭和27)佐波郡島村小学校長、1964年境小学校長となる。また戦後一時期、教員組合役員としても活躍。民主主義教育のあり方を授業実践のなかで厳しく追究し、民間教育運動や教授学研究に大きな影響を与えた。主著に『未来につながる学力』(1957)、『授業入門』(1960)がある。(ニッポニカ)

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