大人も子供も「みんなガス室に向かった」 戦後75年、ユダヤ人女性が見た無数の死 アウシュビッツ生存者の消せない記憶(1)(2020.10.22 11:00
47NEWS)(https://www.47news.jp/5404267.html)

(⇦)アウシュビッツ・ビルケナウ強制収容所(第2収容所)に到着し、選別を受ける人々。制服姿で手前に立つのはナチス親衛隊員、左手前の縦じまの服の人々は収容者。1944年、親衛隊撮影(エルサレムの記念館「ヤド・バシェム」提供・共同)+++++ 第2次大戦中、ナチス・ドイツが占領下のポーランドに設置したアウシュビッツ強制収容所がソ連軍に解放されて今年で75年になった。欧州各国から約130万人が移送され、110万人以上が命を落とした。ガス室、餓死、銃殺、病死。あらゆる種類の死が待ち構え、収容所を生き永らえた人々は死の記憶とともに戦後を歩まなければならなかった。あの場所で何を見たのか、残り少なくなった生存者が体験を語った。3回続きで報告する。(共同通信=森岡隆)

(➡)アウシュビッツ・ビルケナウ強制収容所(第2収容所)のガス室に向かうユダヤ人の親子。1944年、ナチス親衛隊撮影(エルサレムの記念館「ヤド・バシェム」提供・共同)+++++ ▽偽りの音 貨車を降りた人々は笑い、あいさつを送ってよこした。軽やかな音楽が演奏されている。「それほどひどい場所ではないだろう」。人々の心中が伝わってくる。女性に男性、子どもに高齢者、みんなが目の前を通り過ぎる。行き先はガス室。彼らの運命を知っていたが、楽団の一員としてアコーディオンを弾き続けた。背後には銃を持ったナチス親衛隊(SS)隊員が立つ。この後間もなく、シャワーを浴びるとの説明を受け、ガス室に詰め込まれた人々。警告できるチャンスはなかった。演奏しなければ自分が撃ち殺されていただろう。自身も捕らわれの身だった。/ 大戦さなかの1943年、アウシュビッツ・ビルケナウ収容所(第2収容所)。ドイツ生まれのユダヤ人女性エスター・ベジャラーノさん(95)は当時18歳で、貨車で送られてきたユダヤ人たちの前で連日演奏していた。
人々は到着直後、ガス室に行くか強制労働に就くか、SSの医師に選別された。7割以上はガス室。子どもや幼子を連れた母親、高齢者、病人らはガス室行きだった。人々の不安を和らげ、ガス室に送る―。SSは約40人の女性で楽団を編成し、偽りを演じさせた。人体実験を重ねて「死の天使」と恐れられたSS大尉の医師ヨーゼフ・メンゲレが時には自分たち収容者の前に立って選別をした。誰かの顔が気に入らなければ手を右に振ったメンゲレ。それはガス室行きだった。左だと死までの猶予が与えられた。

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(⇦)アウシュビッツ・ビルケナウ強制収容所(第2収容所)で、所内に移動するユダヤ人の女性収容者ら。背後に立つのはナチス親衛隊員。1944年、親衛隊撮影(エルサレムの記念館「ヤド・バシェム」提供・共同)
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この連載が掲載されたのは、今から一年半前のこと。ぼくは既知の事実として、しかし改めて、目を凝らしてこの記事を読み、これはいつのことなのか、どうしてこんなことが起こったのか、「これが人間のすることか」そんなとりとめもない事々に思いを巡らせていました。ナチの「ホロコースト」に関して、ぼくはできる限り資料を集め、いろいろな観点から書かれたものを読んできました。おそらく半世紀以上、この問題に関心を抱き続けていたのです。「人、一人殺すことは、誰にも許されない」のは、人間社会で集団をなして生きていく上での「最低限度の約束」です。人が人を殺さないというのは「約束」なんであって、それを破る人間がいても、ぼくたちは「ひとごろし」を止めることはできないのです。人間社会は、実に脆(もろ)いつながり、関係で成り立たせられている。この「約束」を疑えば、実はどんな「崇高な規則=道徳・宗教」も根拠を失ってしまうばかりです。だからこそ、これは人間の人間に対する「至上命令」なのでしょう。しかし、これを踏みにじるものが出てくれば、それを防ぐ手立てはない。これもまた、「人間の無力(helpless)」の一つではないでしょうか。暴力の前に「道徳」は自らの存在を絶対否定されるのであり、しかしその「暴力」からの「人間性の回復」もまた、頼りない、壊されやすい「道徳」に縋(すが)るしかないのです。

この問題(強制収容所)に関して、数えきれない体験談も記録されてきました。もちろん、その大半は「収容所からの帰還(生還)」を果たした人たちによるものです。収容所の側にいた人々(つまりはナチに属し、それに協力した者)の残した記録や証言は、それに比して、極めて少数で、ぼくは数点しか見ていません。そのごく少数のものでも、「命令されたからやった」「自分ではそれを断ることはできなかった」「誰だって、その状況にいれば、やっていたことだ」という自己正当化というか、自己弁護に終始している印象を受けたのです。まず、責任回避、それが自分を生かす唯一の方途なのかもしれません。「仕方がないじゃないか」と、ぼくたちはいつでも日常生活で練習しているのです。(「長いものにまかれろ」、がいきわたると、集団は秩序を得るというのでしょうか)
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映画で映し出された「凡庸な女性」

この映画の監督は4人、ドイツ出身の監督とかつてナチスに統治されたオーストリア出身の監督による混合チームだった。彼らは作品の中でポムゼルの言葉に対して、直接の評価をくだしてはいない。/ カメラはおよそ103歳とは思えない明晰な口調、時折クローズアップされる顔に刻まれた深い皺、眼鏡の奥にある鋭い瞳を捉える。作品制作に4年、「過去を語りたくない」と拒否していた本人を説得するのに1年かかっている。/ 制作チームはゲッベルスを悪の権化としてではなく、一人の人間として位置付けようとした。彼のそばにいたポムゼルもまた同様である。彼女はそれまで放送局に勤めていた働く普通の女性だった。与えられた仕事をこなし、メディアの世界で友人ーその中にはユダヤ人もいたーより多くの給与を稼ぎ「優秀」と称される。/ 30代を迎えた彼女にある転職話が持ちかけられる。得意の速記を見込まれての打診だった。ナチスの宣伝省に入らないか?ーー。給与明細をみると放送局の給与に加えて、いくつもの手当がついている。「これは運命だ」と彼女は思う。やがて、彼女はゲッベルスの秘書として重用されていく。/ あの時代を生きたどこにでもいた「凡庸」な個人としての証言が、逆に時代を超えた「タイムレス」な言葉になる。それが制作チームの狙いだった。(以下略)「特集 ナチス宣伝相の秘書が残した最後の証言「私に罪はない」の怖さ」(https://www.huffingtonpost.jp/2018/06/15/a-german-life-20180615_a_23459673/)
(映画『ゲッベルスと私』予告編:https://www.youtube.com/watch?v=Zqd_krnWdy0))
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ブルンヒルデ・ポムゼルに関しては、彼女が書いた同名の著書に触れて、すでにぼくは駄文を書いています。「私には罪はない」といい、「どうすることもできなかった」という発言は彼女のすべてを表しているとも読めますが、決してそうではなかったでしょう。ヒットラーの盟友の秘書であったという事実と、そのヒットラーが率いるナチが犯した史上最悪ともいえる「ホロコースト」に、もしポムゼルに責任があるとして、いかなる「罪の意識」を彼女は感じたのか、それがどこにも見当たらないということに、ぼくは深く傷つけられたのでした。「だれだって、同じような立場にいれば、そうしたでしょう。いったい、それが罪なんですか?}と。「私は人を殺しもしなければ、傷つけさえしなかったのだ」という彼女の発言は事実だし、それ以上に何かを問うことは、あるいは問い詰めることは誰にもできないことなのかもしれない。「あの時は、仕方がなかったのだ」ー オスカー・シンドラーの「ユダヤ人救済」は天啓ででもあったのでしょうか。

昨日は「シンドラーのリスト」に触れ、本日もまた同じような事柄について、触れてしまうのは、なぜなのか。今の今、ウクライナで行われている「惨劇」は、ある人々に言わせれば、「ナチ以上に凄惨」ということになります。ぼくはナチの所業を現場で見たことがありませんから、確かにそうだ、とは言えません。しかし、ロシアが「人道回廊」と称して、多数(おそらく、今現在でも万に達するウクライナ市民)が、ロシアの地域内に誘引されていったと報道されています。この先は「希望に満ちた天国」と誘い出し、着いてみれば「逃げ場のない地獄」だったというのは、強制収容所だけではないと、ぼくは、ロシアの地にのみ開かれていた「人道回廊」のニュースを聞いて、卒倒しそうになりました。ナチ以上に残酷・残忍だという意味は、どこにあるのでしょうか。同じように、「シベリア抑留」も、ぼくの脳裏を離れないのです。アウシュビッツが、現代によみがえったのか、あるいはそれはドイツからロシアに、地続きでつながっていたのか。昔から、そう大学生の時から、ぼくたは「我々が生きているのは、一面においては、強制収容所ではないのか」という憂鬱な、しかし否定しようのない事実でもあるような意識に襲われてきました。地獄への人道回廊、それはナチが「甘言」を囁き、微笑みを浮かべて、多くのユダヤ人を引きずり込んだ「奈落の底」への帰還不能の道行きでした。それがいま、この時代に恥じることなく行われていることに、ぼくたちは「慚愧の念」を抱かないのでしょうか。そんなものを抱いたところで、仕方がなかろうではないか、というのでしょうか。
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「なおも模索しつづけるのです、わたしがこれほどまでにかくありたいと願っている、そういう人間にはどうしたらなれるのかを。きっとそうなれるはずなんです」(アンネ・フランク)(1944年8月1日 :最後の日記)
「私たちはもう起こったことを変えることはできません。私たちにできる唯一のことは、過去から学び、罪のない人々の差別と迫害が何を意味するのかを理解することです」(アンネの父、オットー・フランク)
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