
塗りつぶされても恐れない、平和の壁画描く画家 ロシア【4月19日 AFP】ロシアの首都モスクワから車で2時間の場所にある人口約1万人のボロフスク(Borovsk)。元エンジニア、ウラジーミル・オフチニコフ(Vladimir Ovchinnikov)さん(84)は、この小さな町で何十年も前から建物の壁に絵を描いてきた。だが、ロシアがウクライナに侵攻して以来、ウクライナや平和をテーマにした絵を描くと塗りつぶされるようになった。/ 最近、近郊の村の以前は店舗だった建物に立ち寄ったところ、壁に描いた青と黄のウクライナ国旗が白いペンキで塗りつぶされているのを見つけた。/ 鉛筆を取り出し、その上にハトの絵を描き始めた。すると、住民の男性がやって来て「警察を呼ぶぞ」と言われたという。/ だが、オフチニコフさんは絵を描く試みを続けることに恐怖は抱いていない。「この年になると、何も怖くない」と語った。 /ボロフスクでは、ウクライナ国旗の色の服を身に着けた少女の頭上に爆弾が三つある絵を描き、3万5000ルーブル(約5万4000円)の罰金を科された。この絵も白く塗りつぶされたが、オフチニコフさんはその上に1羽のハトを描いた。/ 罰金が科されたオフチニコフさんに、150人以上から寄付が集まった。(以下略)(https://www.afpbb.com/articles/-/3400986?pid=24426945)(https://www.afpbb.com/articles/-/3401150?cx_part=common_focus)(2022年4月19日 18:12 発信地:ボロフスク/ロシア(AFPBB)
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「ペンは剣より強し」と、繰り返し言っています。この時、「ペン」とは,暴力をいっさい伴わない、しかも、じゅうぶんに「武力」と対峙しうる人間(個人)の姿勢であり態度であると、ぼくは疑わないのです。瞬間(刹那)的に見れば、どんな力強い「ペンのちから」も、一丁の機関銃の前では「虫けら」同然であります(個々の人間もまた「虫けら」と選ぶところがない扱いを受けることを、ウクライナの現実は嫌になるほど見せつけています)。しかし、その「ペンのいのち」は生き続けるし、時間と距離を超えて生きるのではないでしょうか。確かにオフチニコフさんの描いた「絵」は、ぼくのような無知であり、何事も一人前にできない老衰しきった人間のところにまで届き、「今少し活力を出しなさい」と教えてくれているのです。プーチンの、残忍至極の殺人行為のためのミサイルの爆裂も迫撃砲の嵐も、この房総半島の山中にまでは飛んでこない。飛んでくる力がないからです。すべてのいのちを「虫けら」と同然視しなければ、武力はなにひとつ破壊することはできないのです。戦時の殺戮の主役たちは、家に帰れば「よき父(母)」「よき夫(妻)」「優しい国民」であるのかもしれません。国家という「強制随伴装置」は、人間を劇的に作り変えるし、同じ国家は、その国民をいいように牛耳るのでしょう。「しかし、武を嫌い、文を求める人々」が、この世界にいる限り、「ペン」の潜在力は尽きることがないのではないか。「ペンは剣より強し」と、わがいのちのある限り、言い続けたいね。

「オフチニコフさんは、ロシア社会が新たに『分断』されつつあり、『非常に悪い方向』に進みかねないと懸念している。一方で、平和を促進する芸術の力を信じており、これからも絵を描き続けるつもりだ。/『私が絵を描くのは、自分なりの理解を示すため。そして多分、他の人に影響を与えるためでもある』と話す。/『政治に無関心な人』『何が起きているかを知らず、ただテレビの前に座っている人のために』」( 映像は14日撮影。(c)AFP/Romain COLAS)
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志を同じくする人はここにもいました。この人はフラスン人。「少しでも笑顔になって、人間らしさを取り戻せたら満足だ」とC215氏は言います。「パリの貧しい地区に生まれたギュミー氏は、過酷な人生を送ってきた。母親は10代で自分を産み、後に自殺した。自分自身もつらい別れを経験し、うつ病を患った。/ 破局後、グラフィティ・アートを制作するため仕事を辞め、娘の壁画を描いた。うつに対処するためだったと話す」(下記の記事参照)

仏アーティスト、ウクライナに壁画 「笑顔と人間らしさを」【4月10日 AFP】仏パリを拠点とするグラフィティアーティストC215ことクリスチャン・ギュミー(Christian Guemy)氏(48)は、絵に最後の仕上げを施す。ウクライナの首都キーウのバス停に青と黄色のスプレーで描かれた少女の絵が、周りの破壊された建物とコントラストをなす。/ スプレー缶を持ったギュミー氏はAFPに、「支援の印だ」と話した。「厳しい状況の中で、人々が少しでも笑顔になって、人間らしさを取り戻せたら満足だ」(以下略)2022年4月10日 15:00 発信地:キーウ/ウクライナ(https://www.afpbb.com/articles/-/3399086?pid=24389453)(AFPBB)

「子どもに罪はない」「子どもは戦争に耐える必要もない」とギュミーさんは言われる。ぼくはこれまでなんども「無辜の民」という語を使ってきました。「辜」とは「罪」「咎(とが)」「はりつけ」などという含意になるといいます。「書経」が典拠とされます。人災であれ天災であれ、その人自身にまったく「責任」がないことを指します。いきなり隣国からやってきて、「そこを明け渡せ、それは俺の土地だ。どかないなら、皆殺しだ」という、この「乱暴狼藉は」いった通りのことをする。「ジェノサイド(皆殺し」を、この時代にやってのけるし、それを世界はテレビなどを通してみているのです。「戦争についてのストリート・アートをやりたいなら、戦争が起きている場所で制作し、被害と現状を伝えるものでなければならない」とギュミーさんは話しておられます。「被害者の側に、自分はいたい」というのです。(右はチュニジアで描かれたギュミーさんの作品「猫」)
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「戦車とことば」と並べて語る人もたくさんおられます。「ペンと剣」と同じような表現でしょう。「戦車」は語れないから、「砲弾」を連射するしかない。言葉を失っているから、自らの意図を「暴力」で表すしか方法を持たないのです。よく「問答無用」といわれるのは、この事情を表しているのではないでしょうか。「腕力に物を言わせる」とも言いますけれど、それは「相手に語るべき、人間に共通する言葉を持たない」ということを証明しているのです。戦争も、根っこには同じで、共通の「言葉の不在」ですね。「外交」とか「交渉」というのは、基本は言葉による「対話」です。対話は「言葉による(によって成り立つ)共同体」の必須の条件でもあります。その不可欠の条件を持たないということは、相手を仲間として認めないということと同義であり、あるいは「敵」視するからこそ、いともたやすく「暴力行使」に及ぶのでしょう。子どもの世界で問題になる「いじめ」の構図も同じです。共通の言葉を持たないから、敵対できる。これはいつでも、どこでも生じうることです。自分では持っていると思われた言葉が、いとも簡単に暴力に代わるのです。親子だったり、兄弟・姉妹だったり、あるいは親友や仕事仲間だと認め合っていたもの同士が、突如として「敵」になることで、事件(戦争)が発生するのです。
自分は言葉を持っていると、自信を持ってい言えるでしょうか。持っていると思っていた言葉は、何かの拍子に奪われ、あるいは言葉の力が、根底から損なわれます。その瞬間には、暴力が芽生えているのです。「ペンは剣より強し」といいますが、その「ペン」は瞬時に「剣」に代わりうるのです。ぼくたちは、そんな危険性を冒しながら、日常生活を「綱渡りしている」というべきかもしれません。大切なことは「「戦車と言葉」というときの「言葉」、どんなことがあっても「戦車」に変えてしまわない、代わってしまわない、そんな「言葉」を、わが身のうちにいつでも育てておかなければならないのです。これは、実に至難の業ですけれど、それをやり遂げようとしなければ、何時でも「暴力」は蔓延(はびこ)る。

ペンは剣より強し、それは単なる例えでもなければ、ことわざでもなく、何時でも、誰にでも、実際に経験してもらわなければならない「生きる方法」(文化)でもある。上に見た、二人の画家は、そのことを、実に雄弁に、ぼくに示されています。「無辜」とは「無実」であり、その事実(内容・中身)がないという意味になります。有名無実などという表現がそれを示しているでしょう。死の苦しみを受ける「覚え」がない多くの人々、そのような人々がどうして死命を制せられ、苦しみや不幸を背負わされなければならないのか。ぼくたちは、身代わりになれるのでしょうか、なれないのでしょうか。この「プーチンの戦争」が続く限り、ぼく(たち)は、この問いから逃れられません。
(露軍の戦車等の「Z」マークにはいろいろな解釈がなされていますが、もっともはっきりしているのは「7」を逆向きに並べたものだというのが本当らしい。従来から言われている、「5月9日」は独ソ戦の「戦勝記念日」で、本年は77回目だというので、その記念日のために、「P」の戦果を顕彰したいという計画のための「ウクライナ侵略」であり、そのための「武力攻撃の」続行だという。なんともたまらない「頽廃」であり、「堕落」の極致だというほかありません。愚かしいこと無比、無双、無類です。残酷だというなら、ナチだってといいたくなりますが、一刹那にしか存在しない権力者「P」の顕彰のために、かかる残虐行為を遂行する、「愚」という点では、右に出るものなしですね、そんな「屑・塵の勲章」のために無辜無数の民は「殺戮」されたというのですから、「無念」やるかたなしです。
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