花は咲けども山吹の 実のひとつだに…

 山吹色の涙 このところの陽気で、山々では春が駆け足で進んでいる。桜が散り始めたかと思えば、山吹がやや赤みのある黄色の花を付け始めた。万葉の時代から、和歌にも詠まれてきた▲「春はとかく桜に気を取られがちだが、その後には山吹の花を追い掛ける」。染織家吉岡幸雄さんの本にそんな一節がある。いにしえより四季の彩りを身の回りに引き寄せようと、その色に衣を染め、まとったという。山吹色として今も親しまれる▲別名は「黄金色」。ロシアの侵略がなければ、ウクライナの小麦畑は夏、黄金色の穂が波打つはずだった。青色と黄色の国旗が示すのは、澄んだ青空と「世界の穀物庫」と呼ばれた肥沃(ひよく)な大地。原風景をまとわせた国旗に誇りを感じる▲先ごろ、「NO WAR」の横断幕を掲げた約750人が原爆ドームを囲んだ。残虐の限りを尽くすロシアに停戦や反核を迫り、ウクライナの平和を祈るために。山吹色やレモン色の服で参加し連帯を示す姿もあった。「できることは限られるけれど何もできないわけじゃない」。その訴えは涙声になっていた▲豊かな実りをもたらす大地を、砲弾が飛び交う。踏みにじられ、灰色に染まっていくのがやるせない。(中国新聞・2022/04/14)

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 殺風景な拙庭にも「山吹」が咲いています。それより前は菜の花や連翹(れんぎょう)でした。春に咲く花は色とりどりではありますが、中でも「黄色」が特に目立ちます。春に黄色とは、なぜなのか、原因を調べると、生物学の大きな課題であったりします。このことに関して、不勉強のために、読んだり聞いたりしたことがありません。それにしても「山吹」は質素(清楚)でかつ瑞々しく、そして凛としているのですから、独特の雰囲気を漂わせているところがあります。(ヘッダー写真は:https://bunshun.jp/articles/-/52349)

 数年前、ちょうど今頃でした。近所に散歩に出かけていた時、ある一軒の大きな家の広い庭に「山吹」が咲いていました。家の奥さんでしょうか、庭の手入れをしておられた。「よく咲いていますね」と声をかけた。その際に、ぼくは「七重八重花は咲けども山吹の実の一つだになきぞ悲しき」と、誰に言うことなしに詠みだしたところ、その奥さんが、「道灌ですね」と応じられた。ぼくは驚愕しましたね。こんな田舎にというのは間違いですが、風流なご婦人がおられたことに、ぼくは、ただただ、うれしくなりました。なんと「七重八重…」をご存じだったとは、といまだにその家の前を通るときに、「道灌」を思い出すのです。

 「山吹」と聞くと、ぼくはいろいろな場面を思い出します。中でも、武将太田資長としての存在が、歌詠みに精進する新生面を併せ持つ人として、最も印象深く記憶しています。落語「道灌」は話の格としては「初歩」級、「小話」なんでしょうが、落語らしい「笑い話」としてはなかなか面白い。そんな「小話」でも、誰の話で聞くか、それは決定的ですね。もっぱら、ぼくは志ん生師匠で聞いてきました。(*古今亭志ん生「道灌」:https://www.youtube.com/watch?v=L4_nzf8ecX0)                

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◎ おおた‐どうかん【太田道灌】室町中期の武将。歌人。扇ガ谷(おうぎがやつ)上杉定正の執事。資清(すけきよ)の子。名は持資(もちすけ)、のち資長。江戸城などを築いて関東一帯に勢力を広めたが、山内・扇ガ谷両上杉氏の対立のため上杉顕定の中傷により主君定正に暗殺された。歌集に「花月百首」がある。法名春苑道灌。永享四~文明一八年(一四三二‐八六)(精選版日本国語大辞典)

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 「ある日、道灌が部下と狩りに出かけたところ、突然の雨に見舞われ農家で蓑(みの)の借用を申し出た。/ 応対に出た若い娘はうつむいたまま、山吹の一枝を差し出すのみ。/ 事情が分からない道灌は /「自分は山吹を所望したのではない。蓑を借りたいのだ」/ と声を荒げるが、娘は押し黙るのみ。/ しびれを切らした道灌はずぶ濡れになって城に帰り、古老にその話をした。/ すると、古老は /「それは平安時代の古歌に“七重八重花は咲けども山吹の実の一つだに無きぞ悲しき”という歌があり『蓑』と『実の』を懸けています。/ 貧しい家で蓑一つも無いことを山吹に例えたのです。/ 殿はそんなことも分からなかったのですか」と言われた。(右は西日暮里駅前の「山吹娘」像。心ない、不細工な仕業ですね)

 道灌は自らの不明を恥じ、その後歌道に精進したという話である。/ これは戦前の教科書に載っており、年配者には知られた話である。/ 実話かどうか不明だが、江戸中期の儒学者・湯浅常山が書いた「常山紀談」に載っており、庶民は好んでこの話を講談や落語で取り上げた。/ 現在、山吹の里を自称する町は関東に十数ヶ所あり、新宿区にも「山吹町」と言う地名がある。/ 因みに植物学的に言えば八重山吹は実をつけずに株分けでしか増えないが、普通の山吹は実をつける」(太田道灌「山吹の娘」:https://www.doukan.jp/about/episode2)

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 新宿の山吹町は、通いなれた町でした。道灌が「狩り」をしたのはどのあたりだろうと、それこそ繁く通いました。少し先には「神楽坂」があります。また、荒川区西日暮里駅の近くに「道灌山」があります。 その地点を「不忍通り」が通じています。この山がどうして「道灌山」と呼ばれたのか、諸説あり、それぞれになんとでもいえるねえ、という気がしますます。それなりの「根拠」があっての命名ですが、なかなか一筋縄ではいきません。この地にも何度か足を運んだことがありますし、この山で記憶の底から浮かび上がってくるのは「子規と虚子」の離別の場面です。命に係わる大病をした子規は、俳句という大事を託すために「虚子」に因果を含めて話を尽くすが、どういうわけか虚子は拒否したのです。この時期、虚子は「小説」で身を立てるつもりであった。虚子の「小説」も読みましたが、低俗な「風俗小説」という印象しか残っていません。もちろん、明治のこの時期の「小説」全体がそうだったとも言えます。だから、虚子は小説の先駆者たらんとしたのかもしれません。結果は、俳句のほうが数段も上だったといえばどうでしょうか。「声涙ともに下る」子規のたっての懇願も拒まれたのでした、その結果は、子規の死期を早めたのかもしれなかった。子弟が「離別」を果たした山上の茶店も、現在は、もちろんありません。子規たちが健在だったころの景観が夢のうちに偲ばれます。

 江戸期には海のそばでもあり、ここからは富士山も眺められたといいます。子規は、日清戦争の従軍記者として大陸に渡るも、喀血して神戸に帰国します。そして松山に帰り、漱石と同宿し、療養に励んだ。やがて回復し、漱石から借金して上京、その途次に奈良に赴き、東大寺前の茶店で柿をたらふく食ったとされる、その時に詠まれたのが「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」でした。当地で詠んだかどうか、諸説があります。それは、ぼくにはどうでもいいこと。(だれが作ったか、傑作だったのは「柿食へば金が無くなり法隆寺」というのがあった。どなたか知りませんが、なんとも粋ですね。(この部分は、すでに触れています)とにかく、子規は柿が大好物だった。(この辺りは、書きたいことが目白押しです。でも本日はやめておきます)

漱石が来て虚子が来て大三十日(子規)  ・柿くふや道灌山の婆が茶屋(子規)

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 数日前に志村ふくみさんの仕事に触れました。本日は染色家吉岡幸雄さんです。三年前に亡くなられました。京都の染色家の大御所だった人でした。ぼくの親父は「刺繍」を生業にしていたので、染色にも織にも経験を重ねていました。ぼくがまだ小学校のころから、染屋さんや糸屋さんに使いに行かされた。京都の街中まででしたから、かなりの距離があった。その当時から、ぼくが品物(糸、染料など)を購入しに行った、それらの商店は当時も、古くからの暖簾を守っていたはず、しかしぼくはそれらにまったく興味を抱かなかった。その中には吉岡さんのお店もあったかもしれない。まったく記憶に残っていないのです。今頃になって、その仕事ぶりが、とてつもなく歴史を感じさせてくれるのを知り、ひたすら愕然としています。吉岡さんの後継(六代目)は三女の更紗さんだそうです。

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◎ 吉岡幸雄 よしおか-さちお 1946-2019 =昭和後期-平成時代の染色家。昭和21年4月2日生まれ。昭和48年美術図書出版「紫紅社」を設立。63年生家の「染司よしおか」5代目当主となる。平成4年奈良薬師寺「玄奘(げんじょう)三蔵会大祭」での伎楽(がく)装束,翌年には奈良東大寺の伎楽装束を制作。日本の色を探求し,伝統的な植物染めによる古代色の復元技法探究。平成21年京都府文化賞功労賞。22年菊池寛賞。京都府出身。早大卒。著作に「京都町家 色と光と風のデザイン」「日本の色辞典」「日本の色を染める」「源氏物語の色辞典」など。(デジタル版日本人名大辞典+Plus)

UUUUUUUU

 ウクライナの情勢は、ここにきて、予断を許さないままで推移しています。いつまでも続くとは考えられもしないこと、この「殺戮」が続く中でも、なお、和平を求める「極小の光」がともっていることを念じています。表向きは情報合戦の様相を呈していますが、あるいは「停戦交渉」が間断なく続けられている風にも見えますが、そんな中にあって、当事者と第三者で、深く静かに潜航して「和平を探っている」のではないかと、そんなことはあり得ないのに、淡い期待をぼくは持っています。「青と黄色」は青天白日の「空」と豊饒な「大地」を示しているというのですが、その大地に向け、空中に向かってミサイルや爆裂弾が雨あられのごとくに投下・発射されています。環境が傷つくだけではなく、人の心身もまた回復不能なまでに痛めつけられています。

 しばしば、「ペンは剣より強し」と言ってきました。ここにおいて、剣は武器であり、人間を殺傷するための戦闘用武具・装置です。それに対してペンは、単に報道に限定されず、記事や写真にかぎらず、武力に対峙しうるすべての人間の営みであると、ぼくはいいたいのです。例えば防空壕から流される「ライブ演奏」しかり、あるいは戦地ではないけれども、文化や芸術がもたらす人間の営み、それらはすべて「ペン(何者かを殺傷するための武器にあらず)」と言えます。暴力が文化(人間の生活。営み全体)を踏みにじるのが許せない、すべての怒りもまた、文化という人間の生活の流儀であり、よく武力に対抗しるのです。大型武器の前で、人間は卑小ではない。人間の歴史や生活を破壊する行為は、人間の破壊にまで達します。それを阻止するのもまた、「ペンのはたらき」なんです。「目には目を 歯には歯を」ではなく「武器よさらば」という決断が、この危機を救う基盤を作るでしょう。破壊の先に何が残るのか、荒廃と頽廃、それしかもたらされないのです。それを放置し、等閑視することは人間に許されるものではない。 

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投稿者:

dogen3

「上を思えば限りがないと、下を見て咲く百合の花」になれるものなら、という想いです。それこそ、「高嶺の花」ですが。「昨日は俗人 今日は僧、生涯胡乱(うろん)これがわが能」と自称した一休さんは、一面では「相当な人物」だったと、歳をとるとともに思わされています。