欧米に「幽霊」徘徊中、陰謀論の渦を巻き

 【余録】「4人の警察官」は第二次大戦中にルーズベルト米大統領が唱えた戦後構想である。米英中ソの協調による平和維持体制を指す。のちにフランスが加えられ、国連安全保障理事会の5常任理事国につながった。大戦を止められなかった国際連盟の反省に立った構想だったという▲曲折もあった。問題はソ連が強く求めた拒否権の範囲だった。自らが加わる紛争への拒否権まで認めるか。米英両国は当初、反対の姿勢だったが、1945年2月のヤルタ会談でチャーチル英首相が容認に転じ、ソ連の主張がほぼ通った▲その判断が後々に禍根を残したということか。ロシアのウクライナ侵攻で安保理が「警察官自身の犯罪」にいかに無力かがあらわになった。ウクライナのゼレンスキー大統領が「国連改革が今すぐ必要だ」と訴えたのも当然である▲冷戦時代はソ連が頻繁に拒否権を行使して国際社会の一致した行動を妨げた。米国もイスラエルが絡めば行使をためらわず、近年は国際的影響力を高める中国の行使も増えて安保理の機能不全が指摘されてきた▲日本を含め、安保理の構成や拒否権の見直しを求める国は少なくない。だが、改革の声が高まると、普段は対立している5大国が足並みをそろえて特権を守ろうとしてきたのが現実である▲拒否権は英語で「VETO(ベトー)」。古代ローマで市民を守る護民官に与えられた特権が語源という。身を切る覚悟で安保理改革を主導し、ウクライナの市民を守る決意を示す大国の姿が見たい。(毎日新聞・2022/04/07)
国連憲章(序)「国際連合憲章は、国際機構に関する連合国会議の最終日の、1945年6月26日にサン・フランシスコ市において調印され、1945年10月24日に発効した。国際司法裁判所規程は国連憲章と不可分の一体をなす。」
第1条
国際連合の目的は、次のとおりである。

1.国際の平和及び安全を維持すること。そのために、平和に対する脅威の防止及び除去と侵略行為その他の平和の破壊の鎮圧とのため有効な集団的措置をとること並びに平和を破壊するに至る虞のある国際的の紛争又は事態の調整又は解決を平和的手段によって且つ正義及び国際法の原則に従って実現すること。
2.人民の同権及び自決の原則の尊重に基礎をおく諸国間の友好関係を発展させること並びに世界平和を強化するために他の適当な措置をとること。
3.経済的、社会的、文化的又は人道的性質を有する国際問題を解決することについて、並びに人種、性、言語又は宗教による差別なくすべての者のために人権及び基本的自由を尊重するように助長奨励することについて、国際協力を達成すること。
4.これらの共通の目的の達成に当って諸国の行動を調和するための中心となること。(以下を参照:https://www.unic.or.jp/info/un/charter/text_japanese/)

 「 国際連合へようこそ! 国連のガイドツアーたちがニューヨークにある国連本部の内部、安全保障理事会議場、経済社会理事会議場、信託統治理事会議場、総会議場、そして国連で展示されている展示物について説明します。(2021/09/27)(https://www.youtube.com/watch?v=2YRlOiCtYAc

 ベトナム戦争、アフガニスタン侵略、イラク(湾岸)戦争などの、近年における各地の戦争は、いわば国連の常任理事国である「米英仏中露」の覇権争いの趣を明確にしてきました。それ以外の各地の「紛争」(内乱)なども、構図は変わらなかったのは、当然で、ぼくたちは国連に過大な期待や役割を求めてきたのです。現在の国連がどのような経緯を持って創設されたか、言うまでもなくアメリカのルーズベルトの提唱にソ連のスターリンが乗った形で軌道が敷かれたのでした。ヤルタ会談島でスターリンの「拒否権」提示を、どういうわけですか、ルーズベルトは応諾しました。当時のソ連は与しやすいと踏んでいた形跡があります。その後の朝鮮戦争の経過などを見れば、それは明らかに間違っていたことが判然とします。

 今日に至るまでの国連の政治的役割を評価することは簡単ではありません。どんな重要な問題であって、「四(後に五)人の警察官」(ルーズベルトの言)の誰かが拒否すれば、どんな意見でも、それは通らないのです。その視点から言うならば、国連とは大国(何を持って大国というのか、どこよりも戦争で殺戮を重ねてきた「ワーストファイブ」というべきでしょう)の間の利害調整機関であり、世界地図の「現状維持」を図るための御用機関であると言いたくなるのです。国連軍ということがしばしばいわれてきましたが、実際に作ってみれば、それがA国の指揮下に入るか、それ以外のBCFSなどの意向が強く働くような性格を拭い去れなかったのです。ぼくはこの関連でも、誤解されることを恐れないで、「国連は弱くていい」ということを主張しています。これは、従前からのぼくの愚論です。間違って「武力」など持ってしまうと、それを錦の御旗にして、戦争を有利に導くこと利用することにしかならないからです。その悪例は一・二にとどまらない。

 いかなる紛争や戦争も「平和的手段によって且つ正義及び国際法の原則に従って実現すること」、これを貫くのはいうまでもありません。また、さまざまな問題の拮抗対立が国際間で生じる際には、「これらの共通の目的の達成に当って諸国の行動を調和するための中心となること」と謳っています。権利と義務の関連で、このことを考えてみます。日本の憲法で「教育を受ける権利」が明示されています。これは「児童の権利」ですが、子ども自身が権利を主張し擁護することは至難という以上にあり得ないことです。だからこそ「義務教育」という原則を設けて、子どもの権利を支える(支持する)のは「親権者」や「行政機関」の「義務」としたのです。

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 「弱いから折れないのさ」と、今は亡き岡部伊都子さん(随筆家)からしばしば聞きました。岡部さんは「学歴はあらへんけれど、病歴は大変なもんや」とも、自身でいわれていた。弱いから折れない、人生で折れないのは、生来が「弱いから」です。大半は、弱ければ折れるだろうと即断していますが、例えば「柳に腰折れなし」、あるいは「柳に雪折れなし」ともいうでしょう。柔軟ということは、貴重な態度であり、姿勢なんですね。この手の表現は無数にあるということは、それが人生の「真実」に近いからでしょう。これは、個人でも組織でも、大きな団体でも同じではないかとぼくは見てきました。落語の一門に「柳家」があります。よく知られた噺家では小さん、あるいは小三治、あるいは途中で破門の栄誉に遭遇した談志などの各師匠。一門の心は「柳で暮らせ」「柳に受ける」ということだったでしょう。確かに風は吹いているさ、でも止まない風はないし、それを受け流しておけば、必ず治まるのだというものだったと、ぼくは彼らの一席を伺って実感したことでした。

 国連もまた「柳で暮らせ」「柳に受ける」といえば、「お前さん、正気かい」と不審がられそうですが、問題を起こす側自体が「狂気」なんですから、それに対峙する方法というものはきっとあると言いたいのです。「馬の耳に念仏」といい、「釈迦に説法」というのは、わざわざ念仏や説法に及ばないという意味で、恐らく馬だって「念仏」の権威かもしれないのです。「ありがたい念仏であっても、馬なんかに聞かせたって無駄」と勝手に決め込んではいけないんですよ。目には目を、歯には歯を、凶器には凶器を、核には核をといっていたら、生命も地球もいくつあっても足りません。ぼくに特段の名案があるのではありません。あるはずもない。しかし、「武器よさらば」といって、「無手勝流」で極悪非道の「邪鬼」に対峙することは不可能で、まったく勝負になりません。

 今回の「ウクライナにおけるジェノサイド」をもたらしたのは、間違いなしに「ロシアの旗印を掲げた軍隊」でした。戦争犯罪を画に描いたような「殺戮」を、さも誇らしげに全世界に暴露し、しかもそれは「西側の偽装」だとしか言わない彼らの「情念の塊り」に、言葉も失っています。Pから始まり、その手下どもには無言の抗議、無抵抗の抵抗で立ち向かうことしかぼくたちに取るべき方法はなさそうに思うのです。地球上の仲間として、互いに狭い世界でともに共存することを自ら拒否したのが今次の「ジェノサイド」でした。「ペンは剣よりも強し」といい、「力なき者の力」、それはことば以外の何物でないのです。それを胸に収めて、静かに対峙し、反抗し、抵抗することです。

 国連をどうするか。今回の地獄絵図を放置してきたのは、国連というよりは国連加盟国の責任(仕業)です。この劣島の政府は、サハリンの天然ガス開発からは抜け出さないと言っています。「北方領土問題(交渉)は、単なる外交儀礼だ」と言ってのけた現ロシア首相。この何十年、手を変え品を変え、この劣島全体を愚弄してきたのです。それでもまだ、そのやくざな権力に縋り付いていくのか。「武士は食わねど高楊枝」というのは、やせ我慢であり、見栄っ張りであり、根性なしの証拠でもあるでしょう。いいではないか、人でなしの国家政府と,いったいどんな「外交」「交渉」がありえますか。ぼくも、早くから「外交官の引き上げ」を言っていましたが、それも見送るという。こんな姿勢が相手を、必要以上に増長させるのです。

 すでにどこかで、二度三度と名前を出したヴァーツラフ・ハヴェルという劇作家で、チェコの大統領でもあった人の逸話を書いて、駄文を終わります。前年(19891年)末、大統領に就任していた彼は、年明け元日に「新年のあいさつ」を国民に送りました。

 親愛なる市民の皆様、
 みなさんは四十年というもの、この日に私の前任者の口からいろいろ違った形で同じことをきかされてきました。いかに我が国が発展しているか、われわれが何百万トンの鋼鉄を増産したか、われわれがいかに幸福であり、いかに自分の政府を信じ、どのような素晴らしい前途がわれわれの前に拓けているかを聞かされてきました。
 みなさんが私にこの職務につくように提案されたのは、私もまた嘘をつくようにというためではないと信じます。
 わが国は繁栄していません。「新年のあいさつ」(阿部賢一「ヴァーツラフ・ハヴェル 力なき者たちの力」(NHKテキスト2020年2月)

 政治家は、すべからく嘘をつくと言われています。でも、ぼくは違う考えをしてきました「嘘をつくのが政治家だ」と。普段はほんとのことを言うけれど、たまには嘘も言う、それは、誰だってそうです。しかし政治家という職業人は「嘘をつくことが商売」なんです。嘘ではありません。なぜなら、ぼくは政治家ではないからです。フランスの元大統領が、プーチン大統領は「うそが習慣」と昔日を偲んで白状しています。   

 【パリ共同】フランスのオランド前大統領は、在任中にロシアのプーチン大統領と協議した経験を踏まえ「彼はうそをつくのが習慣だ」と明言した。フランス紙ルモンドが5日、インタビューを報じた。プーチン氏と対話するということは「口に出すことは実行せず、したいことは口に出さないと知りながら何時間も話を聞くことだ」と説明した。オランド氏は14年に勃発したウクライナ東部の親ロシア派武装勢力とウクライナ軍の戦闘を巡り、ドイツのメルケル前首相と調停役を務め、ミンスク合意をまとめた。当時、プーチン氏がオランド氏に対し、親ロ派勢力の指導者について知らないふりをしたと明かした。(上の写真は2014年12月、モスクワ郊外の空港で会談するロシアのプーチン大統領(右)とフランスのオランド大統領(ロイター=共同)(2022年4月6日 05時33分) (共同通信)

 政治家の言葉から嘘を引いたら、ゼロだというのは、わかりきったことです。ハヴェルは、当たり前に「嘘をつかない」大統領になったのです。政治は「権謀術数」だと言われるが、それも嘘です。そんな我儘な政治をして、権力を振り回したいというチャラい、卑しい「野心」の発露です。ぼくがことさらに国連を持ちだそうとしているのも、国連の会議には嘘がまかり通っているし、それを参加者は承知したうえで、「美辞麗句」を並べて、盛会を装ってきたのです。ある国連事務総長の「一日」をを追っかけたビデをを見ましたが、秒単位の多忙ぶりです。なぜ忙しいか、各国の政府代表と面会(記念写真)するからで、その数は数日間で百五十組に及んでいた。事務総長は、とても忙しそうでしたし、それ以上に楽しそうでした。これで難問山積の時代の中で、「世界平和」が築けるか、虚飾や虚偽が、国連の会議場や廊下を闊歩しているのです。

 しかし嘘をつかない政治家、まして大統領には、やがて民心(支持者)は倦(う)んでくるのも事実です。もっと派手な、格好いい、容姿のみすぼらしくない、国を誇りあるものにしてくれる大統領を!となります。しかし、国民のレベルに合わせて政治家が生息するとも言いますから、民度とか、賢さがはかばかしくなければ、ちょうど今の、この社会の政治家や総理大臣レベルでしか政治を語れないというのが実際のところです。それもこれも、「選挙民」が選んだのですから、ブーメランは自らに戻ってくるのです。

 「私は力をもたない」という自覚があるか。「本当に自分は弱い」という覚醒があるでしょうか。徹底した弱さ、至らなさの自覚から、何かが生み出されるのです。「力比べではない」交渉。「ことばあそび」や「多数決」を弄ぶのがデモクラシーではない。暴力しか頼るものをもたぬ「殺戮者」に向きあって、なお彼らをして膝を屈するほか方法がないことを教えるのもまた、「言葉の力」なんです。

 (「殺戮」はウクライナの所業だ、同一民族が殺し合っていると、いろいろな角度から情報が混乱して出て来ます。だれがどうだということの「犯人探し」は大事中の大事ですが、何よりも「無辜の民の殺戮」ばかりは、だれもが即中止を求めるに異論はないでしょう。だからこそ、一刻も早い「停戦」をと、願うばかりです。「戦争」は陰謀論の檜舞台です。この島にかかわらせて言うなら、「大本営発表」に始まり、「欲しがりません勝つまでは」に至るまで、情報の錯綜著しく、人心の錯乱は、語るも悲しい「フェイク」博物館であり、博覧会でもあったことを忘れたくありません)(このテーマについては、もう少し、愚考と駄文続けたいですね)

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投稿者:

dogen3

 語るに足る「自分」があるとは思わない。この駄文集積を読んでくだされば、「その程度の人間」なのだと了解されるでしょう。ないものをあるとは言わない、あるものはないとは言わない(つもり)。「正味」「正体」は偽れないという確信は、自分に対しても他人に対しても持ってきたと思う。「あんな人」「こんな人」と思って、外れたことがあまりないと言っておきます。その根拠は、人間というのは賢くもあり愚かでもあるという「度合い」の存在ですから。愚かだけ、賢明だけ、そんな「人品」、これまでどこにもいなかったし、今だっていないと経験から学んできた。どなたにしても、その差は「大同小異」「五十歩百歩」だという直観がありますね、ぼくには。立派な人というのは「困っている人を見過ごしにできない」、そんな惻隠の情に動かされる人ではないですか。この歳になっても、そんな人間に、なりたくて仕方がないのです。本当に憧れますね。(2023/02/03)