ささやかな言葉の、ささやかさの意味

 【水や空】桜色の花 新聞を春の色で染めようと、きょうの紙面は「さくら版」。満開を迎えたあちこちの名所をカメラマンが訪ね歩いた。すでに桜を見に出掛けた人も、今年も自粛という人も、どうぞ紙上でお花見を▲桜の淡いピンクは季節をほの温かく彩っている。心安らぐその桜色について、詩人の大岡信(まこと)さんはこう書き残した。〈私のような素人は、桜が満開の時、その咲いている花から色をとれば簡単に桜色がとれると考えてしまうのですが〉…。染織家に話を聞くと、まるで違ったらしい▲花びらをグツグツ煮ても、薄い灰色にしかならない。〈桜の色は桜の木の真っ黒なごつごつした皮からとる〉ことを知って驚いた、と著書「名句 歌ごよみ〔恋〕」(角川文庫)にある▲しかも煮出すのは、つぼみを付ける頃の木の樹皮に限られるという。色素が枝の先にまで達する時節に皮を煮ると、淡い桜色が染み出してくる▲目に見えないが、桜の季節には木の幹にも樹皮にも、色が満ちている。〈ものごとには幹があって根っ子があって…最後に花が咲くというのが、全てのものの真実です〉と大岡さんはつづっている▲きょうが社会人としての、あるいは新天地での第一歩という人も多い。一日一日、私という樹木の幹を、樹皮を、枝を育てた先に、桜色の花の咲く日がきっと待つ。(徹)(長崎新聞・2022\04/01)

 ある言葉、あるいは文章というものにも、草花や樹木などと同じように、それが萌え出し、開花・結実し、もっとも輝く時季、そんな時候があるのではないでしょうか。何時だって、一語たりとも変わらない、一つの文章であっても、一年の中で、その時期に、きっとその文章を読んでみたくなる、今が読みごろと感じるような、そんな文章があるのかもしれません。繰り返し読むたびに、ある種の発見、見直しなどが起ってくる、それは同じ桜の木を見るたびに、自分の中に生まれてくる一つの感動というものに似ていると、ぼくは経験してきた。他の人は知りませんが、ぼくには、毎年、ある時期になると読みたくなる文章がいくつかあります(それは音楽についても言える。決まってその季節に聞きたくなる音楽がいくつも、ぼくにはある。あまりにも俗に塗(まみ)れてしまったような「第九」(ベートーベン)、「四季」(ビバルディ)などは、それほど好みませんが、季節の音楽という意味では、その典型です。それがいけないというのでは、毛頭ありません。季節の訪れに合わせるように、ぼくたちの感覚がある種の「芸術作品」(文章や音楽などを含む)に疼(うず)くのだと思います)。大岡信さんが書かれた文章「ことばの力」は、ぼくにとっては、その代表的な文章となっています。(この「教材」については、昨年三月二十七日のブログでも触れています)

 これまでにどれくらい、この「ことばの力」を読んだことか。一回読んだから、それで終わりということがなかった。それは小さいときに「満開の桜」を堪能したから、もうこれ以上は見なくてもいいのだ、そんな人がいるのかどうかしりませんが、そんなことはなくて、ぼくにはいつでも機会があれば見たくなるのです。年々歳々、桜に対する感じ方・接し方が微妙に変わってきたのが自分でもわかるし、恐らく、もうこれでいいのだということはないのでしょう。「ことばの力」は、ぼくにとって、年々歳々、その深みや彩(いろどり)が変化して止まない、そんな文章になっているのです。これで分かったというのではなく年齢を重ねるとともに、ことばに対する感受性は深まったり、鈍感になったりするのに応じて、この文章もまた、まるで読み手の力量・程度に歩調を合わせるように、ゆっくりとついてきてくれる、そんな感覚をいつでも持つことができます。初出はいつだったか、雑誌「世界」という地味な場所に出ていたと記憶します。単行本化されたのは、一九七八年、花神社からでした。(ある時期からは、中学校「国語」教科書教材として採用されてきました)

 この文章(エッセイ)を書くきっかけになった折については文中に記されています。その志村ふくみさんに「一色一生」という著書があります。これを大岡さんの「ことばの力」と合わせて読むと、文章というものが人生にとってどんな力やはたらきを持っているかが実感されるような気がしてきます。手軽に「言葉は道具」といってしまうのも、確かに頷(うなず)けるところはありますが、その「道具」によって、人は(ぼくは)力をもらったり、力を奪われたりするのです。ことばに、必要以上に何ものかを加えるべきではないのは、その通りですが、逆に、必要以下に貶めることも避けたいのです。志村さん(の本)についても触れたい、でも、ここでは止めておきます。大岡さんの「ことばの力」は、志村さんの仕事や人生に「呼応・感応」することから生まれたことを知るだけでも、このエッセイ、「ことばの力」の含んでいることばの力に、ぼくは心を動かされ、そのたびに、人間が発する「ことば」のはたらき(の優れている部分)を忘れたくないと肝に銘じてきたのでした。

 奇妙な言い方をしますが、どんな人が口にして(発して)も「洗濯機は洗濯機」です。使う人によって、その機能・役割を変えたり止めてしまうことはありません。それと同じことが、それぞれの「ことば」にもいえるでしょうか。「ある人があるとき発した言葉がどんなに美しかったとしても、別の人がそれを用いたとき同じように美しいとは限らない。それは、言葉というものの本質が、口先だけのもの、語彙だけのものだはなくて、それを発している人間全体の世界をいやおうなしに背負ってしまうところにあるからである。人間全体が、ささやかな言葉の一つ一つに反映してしまうからである」と大岡さんは言う。ぼくは、しばしば「いうこととすること(言動)(知行)(知徳)」が同じでない人間は安心できないということを語ったり書いたりしてきました。もっというなら、「口ではなんとでもいうことができる」ということです。もちろん、この(安心できない人の)中に自分が含まれていることを否定できません。正直を装うのもことばです。誠実であるということを、ことばを尽くして他者に説明することはできます。しかし、実際に、その人がどんな行動をしているかを見れば、その人の口から出てきた「ことば」は偽りであったということが判明する。(「雄弁な政治家(口八丁・手八丁)」などの瀰漫や「振り込め詐欺」の横行は、「ことばの力」の、皮肉なことに、その反証でもあります)

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◉ 大岡信【おおおかまこと】=詩人,評論家。静岡県三島生れ。東大国文科卒。読売新聞記者,明治大学教授,東京芸術大学教授を務める。東大卒業後,谷川俊太郎らの《櫂(かい)》に加わり,1959年,吉岡実清岡卓行らと《》を結成。詩と批評を発表した。1956年の処女詩集《記憶と現在》以降,詩集には《春 少女に》(1978年。無限賞),《水府》《地上楽園の午後》などがある。評論活動も多彩で,《蕩児の家系》(1969年。歴程賞),《紀貫之》(1971年。読売文学賞),《詩人・菅原道真――うつしの美学》(1989年。芸術選奨文部大臣賞)など。また《朝日新聞》連載(1979年―2007年)の《折々のうた》は広く読者の関心を得た。1994年度の恩賜賞・日本芸術院賞を受賞。《大岡信著作集》全15巻。大岡玲は長男。(マイペディア)

◉ 志村ふくみ =1924- 昭和後期-平成時代の染織家。大正13年9月30日生まれ。母の小野豊に基礎をまなび,黒田辰秋,富本憲吉,稲垣稔次郎(としじろう)らにも師事した。植物染料による紬織(つむぎおり)をつくり,日本伝統工芸展などで活躍。平成2年紬織で人間国宝。5年文化功労者。19年井上靖文化賞。滋賀県出身。文化学院卒。随筆集に「一色(いっしき)一生」(昭和58年大仏(おさらぎ)次郎賞),「語りかける花」(平成5年日本エッセイスト・クラブ賞),「白夜に紡ぐ」など。(デジタル版日本人名大辞典+Plus)

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 「言行不一致」を咎められた経験がまったくない人間はいないでしょう。それほどに、自らの深みから発する言語というものは稀であるということですし、思わず「心にもないこと」を言ってしまうことが避けらないことを言い当てているでしょう。誰が使っても(口にしても)「正しいことば」「美しいことば」というものはないと、大岡さんは言われます。口から出てきたことばは「正しい」「美しい」と思われそうに聞こえるかもしれませんが、その「正しさ」や「美しさ」は、それを口にした人の誠実さや繊細さが伴わなければ、いかにも「軽薄」かつ「白々しい」響きしか持たない。よく「心に響かないことば」「他者に届かない話」というようなことが指摘されるのも、これを指して言うのです。

 「美しい桜色に染まった糸で織った着物」を見せてもらって、大岡さんはこの桜色は、てっきり「桜の花びら」から煮詰めて得られたと考えた。その淡いピンクはいかにも花びらのものだと早合点したのでした。ところが、「実際はこれは桜の皮から取り出した色なのだった。あの黒っぽいごつごつした桜の皮からこの美しいピンクの色が取れるのだという」、さらに「この桜色は一年中どの季節でもとれるわけではない。桜の花が咲く直前のころ、山の桜の皮をもらってきて染めると、こんな上気したような、えもいわれぬ色が取り出せるの」とも志村さんは続けられたという。

 一人の人間を、一本の桜(でなくても構わないでしょう)と見立てる。そこからどんなことが言えるのか。ぼくは、この「ことばの力」を教材にした授業に何度も参加したことがあります。それぞれが工夫・苦心して、教師たちは、この教材に取り掛かり、子どもたちと格闘していたのを、今でもはっきりと記憶しています。そして、その授業の後でいつも、この「教材」は中学生にはむずかしすぎると感じたものでした。文章が難解だというのは、それが表現しようとしている内容が容易には理解できないものだったからで、それは高校生でも大学生でも、あるいは大人であっても受け止めるのは困難ではないでしょうか。それだけ、「ことば」や「ことばの力」というものを、ぼくたちは「1+1=2」というように、なんとも安易に解している証拠でしょう。そして、ことばに逆襲もされるのです。

 同じ「言葉」でも、使う人によって、それを受け取る側には異なった反応が生まれるでしょう。「つらいけれども立ち直ってね」といわれて、だれもがその気になるかどうか、その気になって実際に「立ち直る」ことができるかどうか。教師が頻繁に吐くことばに「よく考えなさい」「静かにしましょう」などがあります。これはことばですか、それとも「笛」「信号」のようなものですか。そして、いっかな「効き目がない」のは、どうしてでしょうか。こんなところにも、「ことばのちから」が問われています。暴力と同等・同質の「ことば」は、ことばではない。それはまったく反対の、暴力そのものです。「口より、手が早い」というのは、発するべき言葉がないということ、あるいは貧困であることを言うのです。

 しばしば「文は人なり」といわれてきましたが、さらに一歩進んで「ことばは人なり」といいたいですね。口から出るのは、「一枚の花弁(はなびら)」のような「ことば」です。その「ことば」が力を持つには、桜の「花弁(はなびら)」が背負っている木全体の「縮図」としての風合いであり色合いであるのと同じように、その人自身の「精神の縮図」にこもる「ちから」によるのでしょう。誰もが使う「ことば」にちからを与えるのは、そのことばを発する人自身の「姿勢(や態度)」そのものです。それを、ぼくは思想と言ってきました。ことばの力は「思想のちから」であり、その人の「生きている姿勢(態度)」が示す力であると、ぼくはこれまでの生活経験のうちに確信するようになってきたのです。

 人間という存在は「ことば」からできているのです。

(参考)   言葉の力        大岡 信

 人はよく美しい言葉、正しい言葉について語る。しかし、私たちが用いる言葉のどれをとってみても、単独にそれだけで美しいと決まっている言葉、正しいと決まっている言葉はない。ある人があるとき発した言葉がどんなに美しかったとしても、別の人がそれを用いたとき同じように美しいとは限らない。それは、言葉というものの本質が、口先だけのもの、語彙だけのものだはなくて、それを発している人間全体の世界をいやおうなしに背負ってしまうところにあるからである。人間全体が、ささやかな言葉の一つ一つに反映してしまうからである。
 京都の嵯峨に住む染織家志村ふくみさんの仕事場で話していたおり、志村さんがなんとも美しい桜色に染まった糸で織った着物を見せてくれた。そのピンクは淡いようでいて、しかも燃えるような強さを内に秘め、はなやかで、しかも深く落ち着いている色だった。その美しさは目と心を吸い込むように感じられた。
「この色は何から取り出したんですか」
「桜からです」
と志村さんは答えた。素人の気安さで、私はすぐに桜の花びらを煮詰めて色を取り出したものだろうと思った。実際はこれは桜の皮から取り出した色なのだった。あの黒っぽいごつごつした桜の皮からこの美しいピンクの色が取れるのだという。志村さんは続いてこう教えてくれた。この桜色は一年中どの季節でもとれるわけではない。桜の花が咲く直前のころ、山の桜の皮をもらってきて染めると、こんな上気したような、えもいわれぬ色が取り出せるのだ、と。
 私はその話を聞いて、体が一瞬ゆらぐような不思議な感じにおそわれた。春先、間もなく花となって咲き出でようとしている桜の木が、花びらだけでなく、木全体で懸命になって最上のピンクの色になろうとしている姿が、私の脳裡にゆらめいたからである。花びらのピンクは幹のピンクであり、樹皮のピンクであり、樹液のピンクであった。桜は全身で春のピンクに色づいていて、花びらはいわばそれらのピンクが、ほんの先端だけ姿を出したものにすぎなかった。
 考えてみればこれはまさにそのとおりで、木全体の一刻も休むことのない活動の精髄が、春という時節に桜の花びらという一つの現象になるにすぎないのだった。しかしわれわれの限られた視野の中では、桜の花びらに現れ出たピンクしか見えない。たまたま志村さんのような人がそれを樹木全身の色として見せてくれると、はっと驚く。
 このように見てくれば、これは言葉の世界での出来事と同じことではないかという気がする。言葉の一語一語は桜の花びら一枚一枚だといっていい。一見したところぜんぜん別の色をしているが、しかし、本当は全身でその花びらの色を生み出している大きな幹、それを、その一語一語の花びらが背後に背負っているのである。そういうことを念頭におきながら、言葉というものを考える必要があるのではなかろうか。そういう態度をもって言葉の中で生きていこうとするとき、一語一語のささやかな言葉の、ささやかさそのものの大きな意味が実感されてくるのではなかろうか。美しい言葉、正しい言葉というものも、そのときはじめて私たちの身近なものになるだろう。(中学校『国語2』、光村図書出版)                                  

 (志村さんの言われた「桜の木」はどんな種類のものだったか、ずっと疑問を持っています。世間に氾濫している、あの「種類」でないことは確かではないですか。あの木の皮から、産まれてくるなら、「桜の木」そのものの天稟なのかもわかりませんね)

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投稿者:

dogen3

「上を思えば限りがないと、下を見て咲く百合の花」になれるものなら、という想いです。それこそ、「高嶺の花」ですが。「昨日は俗人 今日は僧、生涯胡乱(うろん)これがわが能」と自称した一休さんは、一面では「相当な人物」だったと、歳をとるとともに思わされています。