春を病み松の根つ子も見あきたり

 【滴一滴】春を待ち望む思いが伝わってきた。「お城山の桜はまだですかなあ」。かつて勤務した津山市ではそんなあいさつを耳にした。市民が親しみを込めて「お城山」と呼ぶのは、市中心部にある津山城跡の鶴山公園だ▼明治時代に天守閣などが撤去され、代わりに桜が植えられた。今年はもう開花し、きょうあたりが満開の見込みだそうだが、寒の戻りが予想される。城跡のそばに立つ津山文化センターには、こんな句碑もある。〈花冷えの城の石崖手で叩く〉▼作者は市出身で新興俳句をリードした西東三鬼。61歳で亡くなってからきょうで60年になる▼大胆、モダンな作で知られ「サンキュー」をもじって俳号にするユーモアもあった。古里を詠んだ句が晩年の句集に見える。〈父のごとき夏雲立てり津山なり〉。18歳で津山を離れたものの、慈しみ育ててくれたことへの感謝は消えなかったのだろう▼生家に近い津山市西寺町の成道寺にある句墓碑を先に訪ねた。代表句の一つである〈水枕がばりと寒い海がある〉が刻まれた碑はきれいに手入れされ、お彼岸らしくオレンジ色の菊が生けてあった▼入賞者が先月、発表された津山市などの俳句賞「第29回西東三鬼賞」には、3800句余りが寄せられた。お城山の桜と同様、時代を超えて親しまれることにも「サンキュー」と感謝しているだろう。(山陽新聞・2022年04月01日)

 岡山県はしばしば足を運んだところで、それもかなり気ままなぶらり旅が多かったようです。大した理由もなく、早くから「備前焼」が好きだったので、安いものばかりでしたが、たくさんの酒器を買い集めた時期もありましたし、花器も手元に置きたくなり、今でもそれを使って野花を活けたりしている。焼き物漁(あさ)りといった見物を兼ねた散歩が発端でした。俳句を作る能力は皆無でも(断るまでもなく、俳句に限りませんが)、下手の横好きで、駄句の小山ぐらいは残しています。このブログの駄文と同様に、とてもよそ様にみていただき、読んでいただくような代物ではありません。岡山に関わらせると、まず西東三鬼さん、彼にはかなり早くから親しんでいました。時に仰天するような破綻というか破調というか、そんな句のいくつかが新鮮であったし、また時には実に老成した俳人だなあと勘ぐったりしたこともしばしば。しかし考えてみれば、三鬼さんは六十二歳で亡くなっている。もと歯科医でしたが、なかなかの暴れ者という風貌を持ち、さらには、ある時期からは俳句にのめりこみ、俳壇の刷新というよりは、打破を目指していたこともありました。

 本日は四月一日、「西東忌」にあたっています。何をどう血迷ったのか、霊前に額ずいてみようという「仏ごころ」が生まれてきました。このところ、実に嫌な「侵略戦争」に打ちのめされているような状況で、この一か月余を過ごしてきたので、我が先輩の三鬼さんの「抵抗」と「反骨」の心意気に感じさせてもらおうとしたのかもしれません。また、ぼくは備前焼好きの岡山ひいきですが、それが津山となればまた別格の感情が湧いてきて、押しとどめることもできないのです。岡山は「黍団子」、だから「桃太郎」と連想が働きますが、それが津山となるとどうでしょう。山中の辺鄙で不便、この二つは同義ののようで、辺鄙にもかかわらず便利というところはまずないのが相場でした。けれども、津山は違っていました。その経緯を話すとなると、中世以来の備前・美作地方の歴史に触れなければなりませんが、本日は「日が悪い」ということで、パスしておきます。何時か触れたいですね。

 津山はいいところで、まるで自分の「ふるさと」のような言い方をしますが、実にのどかなところでした。久しく訪れていませんから、現状はわかりません。山は本当にいいですね。ここは劣島の「金庫」というか「鉄庫」でもあったのです。「もののけ姫」に出て来そうですね。津山には後輩が役場勤めをしており、この御仁を見るだけで「津山はいいぞ」といいたくなる。ぼくの知っているK君、風貌は牛の如く、体格は象の如く、性格は掴みどころのない「ウナギ」のような、それでいて、気は優しくて泣き虫のようでいて、…。こんな青年は、ぼくの知る限りでは、あまり出会わなかった。役所勤めの初期は「納税係」という、ぼくの天敵のような部署に配属され、その後も転々と役所内を回っているようですが、なんと彼は根っからの「撮り鉄」だったと思う。(もう一人、どうしようもないくらいに生来の「撮り鉄」の後輩がいました。彼の風貌もまた牛の如く、体格は象のごとく…、まるでK君じゃないかという、今では「鉄道記事(ばかりではありませんが)」をよく雑誌等に書いているジャーナリストになられています。この人も、イニシャルはK君です)

KKKKKKKKKK

◉ 西東三鬼(さいとうさんき)(1900―1962)=俳人。明治33年5月15日岡山津山市に生まれる。本名敬直。日本歯科医科専門学校卒業。東京共立病院歯科部長在職中、同人誌『走馬燈』を知り、日野草城欄に投句新興俳句運動の新鋭として台頭する。1935年(昭和10)1月『旗艦』に参加、この年同人誌『扉』に参画、『京大俳句』に加盟。「水枕(みずまくら)ガバリと寒い海がある」「算術の少年しのび泣けり夏」など独自の句境を切り開いた。40年新興俳句総合誌『天香』に加わり、俳句弾圧事件に連座、検挙される。第二次世界大戦後、47年(昭和22)現代俳句協会創立に参与。あわせて山口誓子(せいし)を擁し『天狼(てんろう)』発刊(1948)、編集長となる。同時期に別途、『雷光』『激浪』を主宰。52年『断崖(だんがい)』を創刊主宰。57年総合誌『俳句』編集長。61年俳人協会の設立に参加。昭和37年4月1日、癌(がん)によりす。句集に『』(1940)、『夜の桃』(1948)、『今日』(1951)、『変身』(1962。没後、第2回俳人協会賞受賞)がある。戦後の句「中年や遠くみのれる夜の」「赤き火の哄笑(こうしょう)せしが今日黒し」など。(ニッポニカ)

◉津山市=(略)中心の津山は1603年(慶長8)森氏が入封して鶴山に築城して津山藩の城下町となり、やがて松平氏にかわり、明治まで続いた。津山県、北条県を経て岡山県に編入。現在は岡山県美作(みまさか)県民局の所在地。古くから出雲(いずも)往来の中継点でもあり、津山往来、片上往来、倉敷往来、倉吉(くらよし)往来、因幡(いなば)往来があり、吉井川水運も発達していた。美作地方の商業中心地であるとともに軽工業が発達し、木材、木製品、和紙、製糸、雑貨品などの生産があったが、1974年(昭和49)の中国自動車道の開通を契機に内陸工業地域として草加部(くさかべ)、綾部(あやべ)、院庄の3工業団地などに弱電、機械などの工場が立地している。1998年には津山総合流通センターが完成した。市の北部では稲作や果樹栽培、酪農が行われている。(ニッポニカ)

 西東三鬼について
 新興俳句の旗手、鬼才と呼ばれた西東三鬼(本名=斉藤敬直)は市内南新座の生まれ。津山中学に学び、両親を失った18歳で東京の長兄に引き取られ、歯科医になりました。患者に誘われて俳句を始めました。俳号、三鬼はサンキューをもじっているようです。/ 33歳で俳句入門して、3年後の昭和11年、「水枕ガバリと寒い海がある」を発表。その鋭い感覚が俳壇を騒然とさせました。「十七文字の魔術師」の誕生であり、「ホトトギス」的伝統俳句から離れた新興俳句運動の記念碑でもありました。/ 戦時色が濃くなってきた時代に、三鬼の「昇降機しづかに雷の夜を昇る」が世情不安をあおるとして弾圧を受け、無季を容認した新興俳句は三鬼が幕を引く結果になりました。/ 三鬼は、弾圧のショックを胸に東京の妻子を捨てて神戸に移住しました。

  露人ワシコフ叫びて石榴打ち落す

 三鬼は、特高警察の刑事につけ狙われながら雌伏していました。NHKテレビドラマ「冬の桃」は、その時代の三鬼の随筆をドラマ化したもので、小林桂樹が三鬼に扮して好演、再放送されるほど好評でした。/ 俳句がすべてだった三鬼は、昭和17年、転居した神戸市内の西洋館(「三鬼館」と呼ばれる)の和室の畳まで売り払い、「天狼」創刊運動費にあてるほど、徹底していました。/ 終戦後、三鬼は俳句活動を開始、同志と現代俳句協会を創設、昭和23年、山口誓子を擁して俳誌「天狼」創刊の中心になりました。編集長になり、自分も「激浪」を主宰し、28年ぶりに帰郷しました。そして昭和37年、惜しまれつつ永眠しました。4月1日は西東忌、三鬼忌として歳時記に不滅のものとなっています。/ 平成4年4月5日、 三鬼句碑が生誕の地、津山市南新座に建てられました。三鬼の生家は平成2年に老朽化により取り壊されたので、同じ町内に句碑を建てることになったものです。刻まれた句は、

  枯蓮のうごく時来てみなうごく

 昭和21年、奈良・薬師寺で詠んだ作品で、代表作の一つです。(津山市公式サイト:https://www.city.tsuyama.lg.jp/life/index2.php?id=59)

 駄文を連ねるのも気が引けますし(断ることもなく、いつでも、とても「気が引けている」のです)、三鬼さんの俳句について御託を並べるのも「身の程知らず」であることを、だれよりもわかっているので、以下、順不同に、いくつかの三鬼作を掲げておくだけにします。

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頭悪き日やげんげ田に牛暴れ  ・野遊びの皆伏し彼等兵たりき  

・限りなく降る雪何をもたらすや  猫一族の音なき出入り黴の家  

・薔薇に付け還暦の鼻うごめかす  ・炎えている他人の心身夜の桜  

・老眼や埃のごとく桜ちる  ・亡者来よ桜の下の昼外燈

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 朝方、小雪が降っていました。寝起きのつれあいに「雪が降っているよ」と告げると、「うそっ」と返しがあった。今日は「四月一日」だ。昨夜に地震あり、朝方には降雪(というほどでもなかったが)。天災に人災、両者の混合災害と、ことごとくの襲来に見舞われた、新たな年度開きになりました。毎日が「四月一日」のような。虚実定かならぬ、日々の連鎖です。その「日常」に沈没し、あたら身を滅ぼさないように、アンダンテで、あるいは、レントのゆとりをもって、わが地歩を踏みたいですね。

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