廃墟となったウクライナの街に響くチェロ。「建物を破壊できても魂は破壊できない」と反響広がる【動画】 ハリコフ在住のチェリストが廃墟の中でバッハを奏でる動画が話題になっています。/ ロシア軍の侵攻を受けて破壊されたウクライナ北東部の都市「ハリコフ」。人口は約140万人。首都キエフに次ぐウクライナ第二の都市だ。ミサイル攻撃で破壊された街の中で、現地在住のチェリストがバッハを演奏する動画がアップされて世界で反響を呼んでいる。 ■短調の悲しげな調べが廃墟の街に響く(https://youtu.be/lQHzO11LcKU);デニス・カラチェフツェフさんが演奏しているのは「バッハ無伴奏チェロ組曲第5番」。/ 短調の悲しげな響きが、廃墟となった街に響いた。SNS上では「暗い曲を選んで、現在の苦悩や絶望を表現しようとしている」「芸術は戦車に負けることはない」「建物を破壊できても魂は破壊できない」とコメントが寄せられている。 ■「力を合わせて街を再生させましょう」と訴える この動画は日本時間3月23日、YouTubeやInstagramに投稿された。カラチェフツェフさんは「戦争を生き抜くために奮闘している英雄的なこの都市を愛しています」として、街の復興のための資金を募っている。/「私の名前はデニス・カラチェフツェフです。私はチェリストでハリコフ市民です。私は戦争を生き抜くために奮闘している英雄的なこの都市を愛しています。私たちは力になれると信じています。戦争が終わったら私たちは都市と国を復元し、再建できると信じています。そこで、ハリコフの街でプロジェクトを立ち上げました。人道支援と建築物の修復のための資金を集めることが目的です。力を合わせて街を再生させましょう!」(https://www.huffingtonpost.jp/entry/kharkiv_jp_623c8253e4b0f1e82c549895)(HUFFPOST:2022年03月25日)

破壊されつくした「廃墟」の真ん中で、音楽の「ミューズ(muse)」が立ち現れたのです。元来は「女神」の呼称でしたが、今の時代、なおさら全土が「戦禍」に傷めつけられ、苦しんでいるウクライナです。神々が総力を挙げて、「不正」「非道」に立ち向かわないはずがない。さらに言えば、museは「音楽」に限られず、広くは「学問芸術」全域をつかさどる女神たち(九人姉妹)でしたから、武力や暴力、今なら「軍事力」に対峙して、「学芸」が有する知恵の総力を傾けて、この窮地を救い、民衆の不幸を根底から癒す働きをするために、ここに一人の「チェリスト」が現れたというのでしょう。もちろんデニスさんだけではありませんで、そのほかに、「侵略」開始以来、多くの方々がそれぞれの拠点(いかにも危険で、何時襲われるかもしれない、まさしく窮地に立たされて、ですが)から救いの音色(ミューズの福音)を発信し続けています。その音楽に救いを求めるのは、まず何よりも音楽家その人でした。そこに救いがあると信じるからこそ、他者にも救いの音となるべく、そ福音を届ける、決死の覚悟がなされたのです。
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音楽は戦闘の気分を高めてくれもすれば、悲しみや絶望の深さに沈められている人々に「かすかな光」を届ける作用をもします。軍歌にもなれば(軍歌として悪用もできるし)、精神の安らぎや情念の解放をもたらす「福音」にもなるのです。画像で紹介した三人の方々の「音楽」を聴いていて、ぼくは涙を禁じえなかった。それは、何時でも繰り返し自問してきたことでしたが、「もし、ぼくがウクライナの、爆弾が投下されている街に住んでいたなら」という執拗な想念が拭い去れないからです。多分、ぼくのことだから、兵隊に行く年齢であったら、脇目もふらずに飛び出していただろうし、今のような後期高齢者となっていても、武器を持ち、それがなければ、石ころ一つであっても、侵略する側に投げつけて、つれあいいわく、いの一番に「殺される」に違いありません。さすれば、いま死を賭して戦っているのは、ぼくの代わりになってくれている人なんだということです。三人の音楽家以外にも、できる範囲で「戦争」ではなく、「人間への尊敬」「他者への敬意」の念を奮い起こしてくれる人々は、ウクライナの地にも、ロシアにも、その他の多くの地域にいることをぼく知っています。

戦争と音楽、これは今までにも繰り返し問われてきたものです。ぼくは多くの音楽家(芸術家)の戦時下の言動を学んできました。驚くべき過激な発言で「敵の撲滅」を懇望していた「音楽家」や「文学者」を知っています。誰彼と名前はあげませんが、そのような場面に遭遇して、お前はどうすると、いつでも問われてきました。平時と戦時ではなく、戦時下の「平和」の瞬間を音楽の演奏を通して実感しようとされているのだと、ぼくは強く感じています。「敵を殺傷する」ために使われるのは「音楽」ではなく、疑いもなくそれは武器であり、凶器です。戦時には武器(となる音楽)を、平時には音楽(戦時と変わらない武器でもあります)を、そのような「音楽=武器」を首尾一貫して生みだしていた、少なくない音楽家をもぼくは学んで来ました。そこから、金輪際、音楽は「平穏」のために、学問は「平和」のためにこそ、成し遂げる価値があるのだと、深く知るようになったのです。
あえてそのような大仰な言葉を使う必要がないのかもしれません。でも、ここに自分を失いたくない、他者に尊敬の念を持つ、人間性の清らかさに信を置く、そのような「愛国者」がいると、ぼくは言ってみたくなるのです。武器ではなあく、暴力などではなおさらない、他者に届けたい思い、届くであろう福音を響かせる「愛国者」がいるのです。祖国防衛とか敵を殲滅してしまえというのではなく、「わが祖国」に寄せる、取り換えの利かない懐かしさと暖かを失いたくない、そんな「愛国国者」がいるのです。「かの山 かの川」にくるまれて育った、温もりを銃弾で壊されたくないと「抗う」人々がいるのです。 一でも早い戦争の終結を、ぼくは想いを共にする人々と祈る。
本日は、三月三十一日。特別の一日であるのではありませんが、長年の習慣で、年度末でもあり、明日からは新年度です。いましばらくは、つらいことですが、コロナ禍も戦禍も収束を見ることはできそうにありませんが、「その日」のために、まずは、一日一日を注意深く過ごしていきたいものです。転ばないように、他人を傷つけないように、よい睡眠がとれますように。いかにも翻弄されそうな「喜怒哀楽」も、高いところから見れば、凹凸のない、なだらかさを持っていることがわかります、そんな日々を過ごしたいですね。

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