【春秋】たった数時間なのに、見終わるころには登場人物が他人とは思えなくなる映画がある。ウクライナのマイダン革命を追ったドキュメンタリー「ウィンター・オン・ファイヤー」がそうだ。2013年~14年、自由と民主主義を求め圧政に抗(あらが)った人々の93日間に密着した。▼親ロシアの大統領が約束を破って、EU加盟への道を閉ざした。憤った市民は広場(マイダン)に集まる。女性も老人も幼子もいる平和的なデモ行進に、武装した大統領の親衛隊が襲いかかる。多くの犠牲を払いながらも誰も諦めない。「子供たちの未来を守りたい」。口々に語るどの顔にも勇気と希望の光が宿っていた。▼あれから8年。どうか、みな無事でと忘れがたい面影を思う。弁護士も建築家も路上清掃者もジャーナリストもホームレスも赤ん坊も母親もいた。様々な宗教の指導者は、今度も祈りつつ砲撃に耐えているかもしれない。彼らが命懸けで守ろうとした未来が目の前で踏みにじられている。現地の映像を見るたび胸が詰まる。▼マイダン革命時、キエフの歴史あるミハイル修道院は市民の要請を受けてすべての鐘を一斉に鳴らした。1240年にタタール人が街に侵入したとき以来、と映画の中で修道士が語っていた。鐘は今、果たして鳴っているだろうか。一刻も早く危機ではなく、平和と自由を知らせる響きに変わるよう、願わずにいられない。(日経新聞・2022/03/30)
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今日のウクライナ問題を活写しているような映画が二本、ほぼ同時期に作られ公開されていました。二本の映画を同時に観ました。ぼくにしてはまことに珍しいこと、一本はコラム氏が書かれていた「ウィンター・オン・ファイヤー」で、もう一本がいわくつきの「ウクライナ・オン・ファイアー」でした。ほぼ同時期の作品で、しかも同じ問題を異なった視点で記録する(映像化するか)という、ある種の現実認識、あるいは歴史解釈ともいえるような、深くて大きな問題を観る側に提示してきます。この点について、ぼく自身はこの立場でというのではありません。一見すると、前者は「内乱」の様相を示しており、後者は、文字通りに「戦争」(ウクライナ内における「EU派対ロシア」の、もう少し言葉を継ぎ足せば、ロシアの侵略に対するウクライナの「防衛戦争」の趣を見せています。しかし、実際には、このような「内乱」や「戦争」を仕掛けてみたり、長引かせてしまう、まず表に出てこない、闇の「権力」が蠢動しているのだということもまた、考えさせられます。現実に進行している「戦争状態」の先駆けというか、これまでのウクライナの(二十世紀に限ったとして)置かれた地理的位置と、歴史的(一例はナチの侵略から生じた独ソ戦)経緯の中での翻弄された国の、今も再燃している運命的な戦い(闘争)の前哨戦をなすものでした。ウクライナ自体が分裂、NATOに属するかしないか、その問題がそっくり、国内では西地域が欧州派で、東側がロシア派に分裂し、文字通り国を二分して争う状況が続いているのです。
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🔲(https://www.netflix.com/jp/title/80031666) (https://www.youtube.com/watch?v=XxP0Iy_aQmk)「2013年にウクライナで発生した学生デモが大規模な公民権運動へと発展した93日間の様子をとらえ、第88回アカデミー賞長編ドキュメンタリー部門にノミネートされたNetflixオリジナルのドキュメンタリー。13年11月、欧州連合協定の調印を見送ったヤヌコービチ大統領に抗議するため、キエフの独立広場でデモが発生した。当初は学生たちを中心とした平和的なデモだったが、治安部隊が武力をもって押さえつけようとしたことから衝突が激化。参加者の数は瞬く間に膨れ上がり、暴力が暴力を呼ぶ過激な革命へと変貌していく。多くの人々の命が失われたこの革命の過程を克明に描き、自由を求めて闘う人々の姿を映し出していく」 2015年製作/98分/イギリス・ウクライナ・アメリカ合作 ・原題:Winter on Fire: Ukraine’s Fight for Freedom)(映画.com:https://eiga.com/movie/83550/)
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🔲(https://www.nicovideo.jp/watch/sm40138028)「『ウクライナ・オン・ファイヤー』は2014年の親米派によるクーデターや、それ以前から引き続くウクライナを巡る欧米ロシアの矛盾に迫り、なぜプーチンが今回の軍事行動に及んだのか、その動機やもう一方の側の主張を知り、視野を広げるうえでも観るべきドキュメンタリーであろう。目下、西側メディアによって「ウクライナ可哀想」一色に染め上げられた大洪水のような情報に対して、そもそもの矛盾の根源を捉え、NATOの東方拡大やアメリカが何をしてきたのかについても客観視するうえで、学ぶべき素材を提供していたといえる。ところが、現行のプロパガンダに反する作品であり、欧米にとっては触れてはならぬ急所だったことから封殺されている。ウクライナ危機を巡る深層について触れてはならぬという力が働き、第三者ぶって引っ込んでいるアメリカの支配層が何をしてきたのか暴いてはならぬという強力な意志が示されているのである」(長周新聞・https://www.chosyu-journal.jp/column/23047)

◉ ストーン(Oliver Stone)(1946― )=アメリカの映画監督。ニューヨーク生まれ。エール大学中退。1967年、陸軍に志願入隊し、ベトナム戦争を体験。1971年、ニューヨーク大学に入学。マーティン・スコセッシ監督のもとで映画制作を学ぶ。アラン・パーカー監督の『ミッドナイト・エクスプレス』(1978)で脚本を担当し、アカデミー脚本賞を受賞したあと、1986年、ベトナム戦争を扱った監督作品『プラトーン』を発表。最前線で戦う一小隊の悲劇を描いたこの秀作でアカデミー賞4部門を制覇し、一躍、世界に名を馳(は)せる。以降も、『7月4日に生まれて』(1989)、『JFK』(1991)、『ナチュラル・ボーン・キラーズ』(1994)、『ニクソン』(1995)など、力強い描写で政治や社会の暗部を照射する佳作を次々と手がけ、1980年代以降のアメリカを代表する監督として不動の地位を確立する。『ウォール街』(1987)では、二度目のアカデミー監督賞を受賞している。(ニッポニカ)
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「アメリカの映画監督マイケル・ムーアは16日、インターネットのポッドキャスト(音声番組)でウクライナをめぐるマスコミ報道を批判し、「アメリカ人をウクライナに入れたりロシアと空中戦をして、第三次世界大戦を起こしてはならない」と呼びかけた。/ 番組案内は「プーチンがウクライナに侵攻してから3週間、延々と繰り返されるニュース・サイクル。チャンネルを変えると、同じ話、異なる専門家。しかし、戦車が路上の車や死体を吹き飛ばす映像や、恐怖で逃げ惑う難民、殺されるアメリカ人ジャーナリストなど、恐ろしい映像の背後で、もっと不吉ななにかが働いている」「私たちアメリカ国民は、私たちを戦争に導こうとする他のアメリカ人(政治家、評論家、元将軍、より大きな利益を求める企業の親玉たち)に操られていることを明確にしなければならない」と訴えている。/ 番組はウクライナのゼレンスキー大統領がアメリカ議会で演説する直前に放送された。ムーア監督の発言のあらましを紹介する。(以下略)(長周新聞・https://www.chosyu-journal.jp/kyoikubunka/23069)
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二つの国が、ヨーイドンとばかり、同時に、気持ちを一つにして戦争を始めることはありええないでしょう。戦争(侵略)を仕掛けるものがきっとあります。そのきっかけになるのは、要するに「何でもあり」で、極端なことを言えば、ゼレン何とかいう、某国の大統領が気に入らない、夜中にトイレに行こうとしたら、どこかで犬が吠えた、そんなことだって、戦争を起こす理屈にしようと思えばできる。仕掛けられた闘いに「反撃」「防御」するのは「正当防衛」というのであって、それまでも「戦争」だから止しなさいとは言えないでしょう。現時のロシアの「侵略戦争」は、理屈も道理も通らないし、よしんばそれを強引に通したところで、武力・暴力に訴えるのは論外、しかもいたるところで「戦争犯罪行為」に該当する暴虐非道を重ねているのです。ただちに戦争を止めなければ、当たり前に考えれば、だれもそう思っているかといえば、決してそうではないのも確かなんですね。

ぼくの立場は、この武力行使が起った段階で明言しています。「プーチンの戦争」であるから、それを止める手立てをこそ、万全を尽くし、万難を排して探らねばならないのだ。にもかかわらず、実は世界の「名だたる」といってみたくなる政治家連中には、「この戦争をどうする」かについて、独自に判断することも実行することもできない相談であることが、まことに悔しくも情けなくもありますが、火を見るより明らかになりました。今回の当事国同士による「停戦への話し合い」に、ロシアの「オルガルヒ」といわれる「富豪」の一人が参画していました。まだまだ「表舞台」には姿を現さない「帝王」や「天皇」「皇帝」があちこちに潜んでいるのでしょう、その人々が誰であるか、ぼくたちが知らないだけで、実は世界の政治も経済も、その正体がバレているけれども、姿が見えない「透明人間たち」によって支配されているのです。
あまり好きな言葉ではありませんが「水清くして魚住まず」という。あるいはその反対ともいえませんが、これはかなり好きな方で、「清濁あわせ飲む」というのもあります。どんなところにも人の集まりが生まれ、そこが世間となるのですが、その世間を、それなりに「軋轢なしに」渡るには、先の二つのことわざが効いてくるのでしょう。それが政治の世界となると、もっと激しく、清濁ではなく「濁々ばかり飲む」とか「濁々しか飲まない」、あるいは「水濁として魚ますます盛ん」という世界です。「戦争と平和」は、ぼくにはまるで「賽の河原の石積み」のように見えてきます。だから、現状に無関心でいいとは思わないどころか、汚いこと賤しいこと、許せないことが目に入り耳に聞こえたら、老骨に鞭打ってでも立ち上がるという気概は失っていない。老兵以上ではありませんが、不正や不義のためには武器を取ることには躊躇しない。
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◉ 賽の河原(さいのかわら)=親に先だって死んだ子供が苦を受けると信じられている冥土(めいど)にある河原。西院(さいいん)(斎院)の河原ともいう。ここで子供が石を積んで塔をつくろうとすると、鬼がきてそれを崩し子供を責めさいなむが、やがて地蔵菩薩(じぞうぼさつ)が現れて子供を救い守るという。このありさまは、「地蔵和讃(わさん)」や「賽の河原和讃」などに詳しく説かれ、民衆に広まった。賽の河原は、仏典のなかに典拠がなく、日本中世におこった俗信と考えられるが、その由来は、『法華経(ほけきょう)』方便品(ほうべんぼん)の、童子が戯れに砂で塔をつくっても功徳(くどく)があると説く経文に基づくとされる。また名称については、昔の葬地である京都の佐比(さい)川や大和(やまと)国(奈良県)の狭井(さい)川から出たという説、境を意味する賽から出たという説などがある。(右は青森県「恐山」の賽の河原)
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