無辜の民が傷つく戦争は憎悪しか生まない

 生来、ぼくは「国旗」「国歌」というものを好まない。理由は単純であり、ここに話すほどのことでもありませんが、時と場合には、いずれの国のものであれ、その国を象徴するという点では、それを尊重してきました。卒業式や入学式に「国旗」「国歌」はそぐわないと感じてきましたから、記憶に残る限り、そのような「儀式」に、積極的に参加したことはない。参加を強いられたことはありましたが、それにも大半は背中を向けてきたという、いわばどうしようもない「へそ曲がり」でした。今は、「曲がっているへそ」こそが、ぼくの「へそ」、それが正常な状態になってしまいました。なぜ嫌いか、嫌いになったか。「ウクライナ侵略」をつぶさに見せつけられるにつけ、国家のシンボルが旗になっているでしょ、国家は国旗になっているんですね。国は旗そのものなんです。この島社会には、明治以降かなりの期間を通して、戦争に明け暮れていました。その戦いの最中には、何時だって「日の丸」がついて回っていました。旗は国であり、国は天皇であるという、よく理解できない「教条(天皇制国家主義というイデオロギー)」が、ことあるごとに人民にのしかかってきたし、その旗によって、犠牲を強いられてきたのです。ハサミでもなんでも、使いようなんですね。(ヘッダーはキエフ(キーフ)の街並み風景、花は「ライラック」か。:https://tabiprogress.click/kiev-park)

 数日前に急逝された、俳優の宝田明さんのことが、出身県の新聞の「コラム」に出ていました。

 【日報抄】ぼたん雪が舞っていたという。終戦から1年半後の1947年冬。村上町(現村上市)の民家の軒先で母と一緒に魚を売っていた少年に、みすぼらしい格好の若者が近づいてきた▼満州で生き別れた兄だった。抱き合って再会を喜んだが、すぐに兄はこう言った。「何で俺を置いて帰ったんだ」。終戦後、兄はソ連軍(当時)に労働に駆り出され戻らなかった。日本人の引き揚げが決まり、少年の一家は連絡先の張り紙を残してやむなく帰国したのだった▼兄はその後、日本の社会になじめず60代で世を去った。少年は満州で兄を探す途中、ソ連兵に撃たれたり、女性が暴行されるのを目撃したりした経験があった。長じて「軍人だけでなく、無辜(むこ)の民が傷つく戦争は憎悪しか生まない」と話している▼少年は後に映画スター・宝田明となった。「ゴジラ」の主役に抜てきされ、撮影初日に「主役の宝田明です」とあいさつすると「ばかやろう。主役はゴジラだ!」という声が飛んだ。「『ごもっとも』と恐縮するしかなくて」と振り返った▼水爆によって生まれたゴジラが、人間の手で海の藻くずと化すラストに号泣した。「ゴジラも水爆の犠牲者。同情を禁じ得なかった」。ユーモラスな役も演じられる二枚目だったが、戦争について語る際は端正な顔立ちをゆがませた▼宝田さんの訃報が届いた。無辜の民も傷つくのが戦争の本質だと指摘した言葉は、今のウクライナの惨状に重なる。亡くなる直前まで戦火の行方を心配していたようだ。(新潟日報・2022/03/19)

 宝田明さん死去87歳 壮絶な戦争体験、旧満州から村上に引き揚げ 東宝の看板スターとして銀幕で人気を集めた宝田明(たからだ・あきら)さんが14日午前0時31分、肺炎のため東京都の病院で死去した。87歳。/ 宝田さんは、旧満州から新潟県に引き揚げてきた壮絶な戦争体験を踏まえ、晩年まで反戦への思いを訴え続けた。/ 村上町(現村上市)出身の父は戦時中、南満州鉄道(満鉄)に勤務していた。当時11歳だった宝田さんは終戦を父母や兄弟とともに中国ハルビンで迎えた。旧ソ連が進駐後は、父や兄とともに強制使役に駆り出された。/ ある日、連行される日本兵を見に貨車に近づいたらソ連兵に脇腹を銃撃された。「麻酔なしで銃弾を腹から取り除く手術を受けた時の激痛は忘れられない。僕はいまだにロシアが許せない」と語っていた。/ 旧満州から命からがら引き揚げてきたが、兄とは生き別れた。終戦から1年半後に村上で兄と再会を果たした。自身が俳優として脚光を浴びるのとは対照的に社会になじめなかった兄のことを、戦争のもう一つの悲劇と捉えていた。(左上、10日にインタビュー取材に応じた宝田明さん)(以下略)(2022/3/19 7:00(最終更新: 2022/3/19 7:44)

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 ぼくは、宝田さんについて知るところはほとんどない。あっても、なんだそんなことか、と軽侮されるのがオチのようなことでした。映画は「ゴジラ」を含めて数本、テレビドラマなども何度か見た程度でした。満州からの引揚者だということは知っていましたが、詳細を、求めて知ろうとはしなかった。訃報に接し、報道などを通じて、いくばくかを知り、彼のそれまでの行動に納得が行く気がしたのです。「この人は、歴史を生きていた」「戦争体験をつかんで、放さなかった」(あるいは「戦争体験が、彼を放さなかった」のかもしれません)ということを直感しました。(これは自慢することではありませんが、ぼくは興味本位で「大陸からの引揚者」について、その後の人生をいかに生きられたか、有名無名を問わずに、調べたことがありました。実に多くの人が「戦後」を生きられてきました。興味を持った理由らしいものといえば、「ぼくも引揚者だったかもしれない」という、怖れに似た感覚・記憶がいつもぬぐい切れませんでしたから)

 数日前も役場に行って、「ホストタウン」としてロシアを招いたことについて、公務員として、一町民として、現下の情勢に照らして、皆さん(役場内)で話合いをしたらどうですか、と余計なことを言ってきました。公務員として戦争に反対というのではなく、一人の「人間として反対」(あるいは「断固賛成」でもいい)という気持ちが生まれることを、ぼくは望んでいるのでしょうね。とにかく、早く、一刻も早く、殺し合うことだけは止めてほしい。(「予想と期待」が半々のような気分ですが)もう少しで「片が付く」と思っている。

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投稿者:

dogen3

「上を思えば限りがないと、下を見て咲く百合の花」になれるものなら、という想いです。それこそ、「高嶺の花」ですが。「昨日は俗人 今日は僧、生涯胡乱(うろん)これがわが能」と自称した一休さんは、一面では「相当な人物」だったと、歳をとるとともに思わされています。