ロシアを恥じるとは思わなかった

ロシア人ピアニスト、ボリス・ベレゾフスキー氏=2014年1月、仏ナント(AFP時事)

 ロシア人ピアニストの発言が波紋 キエフへの電力遮断呼び掛け【パリAFP時事】著名なロシア人ピアニスト、ボリス・ベレゾフスキー氏(53)が、ウクライナへの圧力を強化するため首都キエフに対する電力遮断を呼び掛け、クラシック音楽界に衝撃を与えている。/ 1990年のチャイコフスキー国際コンクール優勝者で、世界中で公演活動を行ってきたベレゾフスキー氏は10日、政権寄りテレビ局のトーク番組で「彼らを気遣うことをやめ、包囲して電力を遮断できないのか」と発言。「西側メディアが言っていることは全くのうそだ」とし、「われわれはこの戦争に勝利する必要がある」と述べた。/ これに対し、ドイツ出身のピアニストで指揮者のラルス・フォークト氏はツイッターに「元友人からのこれらの発言は信じられない。友情は正式に終わりだ」と投稿。ベネズエラ人ピアニストのガブリエラ・モンテーロさんも「とてもがっかり。音楽的偉大さと共感は、必ずしも両立しない」とツイッターに書き込んだ。(左写真:ロシア人ピアニスト、ボリス・ベレゾフスキー氏=2014年1月、仏ナント)(AFP時事))(時事通信・2022年03月17日20時51分)

 反戦」ロシア人スターが退団 ボリショイ・バレエ【パリAFP時事】世界最高峰とされるロシアのボリショイ・バレエ団のロシア人プリマバレリーナ、オリガ・スミルノワさん(30)が退団し、オランダ国立バレエ団に移籍することが16日、発表された。ロシアのウクライナ侵攻以降、ボリショイ・バレエ団では外国人ダンサーの退団が相次いでいるが、地元出身スターも祖国を離れることになった。(写真右:ロシア人バレリーナ、オリガ・スミルノワさん=2016年12月、モナコ)(AFP時事)(時事通信・2022年03月17日17時35分)

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 オリガ・スミルノワさんは、別の新聞記事によると、以下のように語っておられます。

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 「ロシアを恥じるとは思わなかった」スミルノワさんは3月に入り、「現代の見識ある世界においては、文明社会は平和的な交渉によってのみ政治問題を解決することを期待している」などとする文章を公表。/「ロシアを恥じることになるとは思わなかった。才能あるロシアの人々、私たちの文化、運動面での業績をいつも誇りに思ってきた」、「しかし今や、以前と以後を区別する線が引かれたと感じている。人々が死んでいき、頭上の屋根を失ったり家を後にせざるを得なかったりしているのは痛ましい」とした。/ そして、「数週間前、こんなことが起こると誰が予想しただろうか。私たちは軍事紛争のただ中にはいないかもしれないが、この世界的大惨事に無関心ではいられない」と書いていた。(略)(BBCNEWS|JAPN・2022年3月17日)

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 このような芸術家の政治問題に対する判断・行動を考える際、特に旧ソ連(現ロシア)において、ぼくはロストロポーヴィチ(チェリスト)をまず思い浮かべます。もちろん、彼の演奏もずいぶん聴きましたが、なによりもソルジェニツィイン問題に果敢に関与し、断固として自らの行動を曲げなかった彼の姿勢に、ぼくは驚きを禁じ得なかった。優れた音楽家である前に、果断の人という印象をぼくは抱きました。ソ連(やロシア)において、権力の弾圧に抵抗した人は無数にいたが、大半は知られざる「抹殺」「抹消」という政治手法で闇に葬られてきました。ソ連の「水爆開発の父」とされたサハロフ博士も反体制の烙印を押され、政治的強権によって自由を拘束されたことがありました。国家の栄誉を受けた多数の著名人は、その政治発言や姿勢が反体制であるという烙印を押されることで、例外なく自由(人権)を奪われていくのでした。おそらく、この半世紀だけの事例をあげようとするだけで、一晩も二晩も費やさざるを得ないでしょう。それでも、「反体制派(人権侵害を許さない人々)」は数の上からいうなら、圧倒的に少数です。(Mstislav Rostropovich – Tchaikovsky’s Andante Cantabilehttps://www.youtube.com/watch?v=vNG1RIq-VD4

 スミルノワさんのような方は、必ずいます。彼女の後に続く人は陸続として、ということになります。おそらく、ベレゾフスキーさん自身は「自分を守るための発言」で、それが国家に守られていることの告白でもあります。国家権力に守られる芸術って、何ですか。「とてもがっかり。音楽的偉大さと共感は、必ずしも両立しない」という他国のピアニストの発言が、もっとも当を得ているのではないですか。ふだんは気がつかないし、意識もされない。しかし「いったん緩急あれば」、体制派、反体制派がはっきりします。「体制」は極めて保守的であって、あわよくばその体制を永続させたい、すなわち自らの権力を死守するものであって、それに反対する者は、誰彼構わず、抑圧し拘束するのです。野放しにしておくと、「己の愚昧・愚鈍」が暴かれるからです。そんなゴミのような権力にくっつくというのは、どういうことなのか。

 誰だって、一貫して、自らの姿勢を貫くことは容易ではない。「子曰。參乎。吾道一以貫之。曾子曰。唯。子出。門人問曰。何謂也。曾子曰。夫子之道。忠恕而已矣」(「論語 里仁・第四」)何度か、この部分を出しておきました。それは、いかにも生きる中の核になるような姿勢であり、そうありたいと思いながら、根が軟(やわ)ですから、この「箴言」をぶら下げて生きていこうという、小人のお呪(まじな〉いのようなものです。危急存亡という事態は、一人生にはめったにないが、皆無ではないのです。ロシアの「圧政」が牙をむいた今、ロシア人にさえ襲い掛かってくる、破天荒な事態に、人は己の行動の道筋をどこに求めるか、基準をどこに置くか、それは、ぼくたち自身にも問われているのです。

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◉ アンドレイ サハロフ(Andrei Dmitrievich Sakharov)(1921.5.21 – 1989.12.14)=ソ連物理学者。レーベフ物理学研究所員。モスクワ生まれ。モスクワ大学(物理数学部)[’42年]卒。1945年レーベフ物理学研究所員となり、I.タムの研究チームに加入。’53年ソ連初の水爆の開発に大きく関与し、「ソビエト水爆の父」と呼ばれる。’58年放射能汚染の重大性から、核実験の中止をフルシチョフ要請。60年代半ばからソ連の体制に批判的から反対制の立場をとる。’70年人権委員会を設立するが、’80年ゴーリキー市に国内流刑される。’86年流刑は解除されるが、抵抗の姿勢は変えなかった。’75年ノーベル平和賞受賞。(20世紀西洋人名辞典)

◉ ストロポービチ(ろすとろぽーびち)Мстислав Леопольдович Ростропович/Mstislav Leopol’dovich Rostropovich(1927―2007)=アゼルバイジャン出身のチェロ奏者、指揮者。首都バクーの生まれ。父はチェロ奏者、母はピアノ奏者の音楽一家に育ち、モスクワ音楽院でチェロ、作曲、指揮を学ぶ。ソ連、東欧のコンクールをいくつか制覇したあと、1955年アメリカ楽旅、チェロをバイオリンのように楽々とこなす驚異的な技巧に加え、豊かな響きと豪壮な表現によって、カザルス以来の名手と評価された。同年、ソプラノ歌手ガリーナ・ビシネフスカヤと結婚。58年(昭和33)初来日、以来たびたび来日し、日本の子供たちの音楽教育にも携わっている。68年にモスクワで指揮者としてデビュー、ボリショイ劇場の指揮者を務めるかたわら、外国にしばしば客演した。/ 彼は1964年にレーニン賞を受けるなど多くの栄誉を授けられたが、70年、ソ連の反体制作家とされるソルジェニツィンを擁護して当局対立、長期の国外旅行を禁止された。しかし74年5月、2年間の海外旅行が許可され、のち夫人、娘も出国を認められて75年からアメリカのワシントンに定住。77年ワシントンのナショナル交響楽団音楽監督に就任(94年まで。91年以後は桂冠(けいかん)指揮者)。78年一家はソビエト市民権を剥奪(はくだつ)され、以後アメリカを本拠に世界各地で活躍。89年に名誉回復された。90年2月、16年ぶりに故国を訪れ、モスクワなどでコンサートを開いた。(ニッポニカ)

◉ ソルジェニーツィン(Solzhenitsyn, Aleksandr Isaevich)[生]1918.12.11. キスロボツク [没]2008.8.3. モスクワ近郊トロイツェリュコボ = ロシアの小説家,歴史家。コサックのインテリ一家に生まれた。ロストフ大学で数学の学士号を取得,モスクワ大学の通信教育で文学を学んだ。ソビエト連邦が第2次世界大戦に参戦すると召集され,戦功により勲章を授けられたが,終戦の直前にヨシフ・スターリンを批判した疑いで告発され,収容所(ラーゲリ)に送られた。1956年のスターリン批判のあと釈放され,翌 1957年正式に名誉を回復,本格的な創作活動を始めた。第一作『イワン・デニーソヴィチの一日』Odin den iz zhizni lvana Denisovicha(1962)で一躍文名を高め,『クレチェトフカ駅の出来事』Sluchai na stantsii Krechetovka(1963),『マトリョーナの家』Matrënin dvor(1963)など,ソ連社会の矛盾をついた先鋭な主題をもった作品で世界的な注目を浴びた。/ ところが反体制的な言動のため,1966年以後国内で作品発表ができなくなり,長編小説『ガン病棟』Rakovy korpus(1968),『煉獄のなかで』V kruge pervom (1968)などの作品が次々に国外で出版された。そのため作家同盟を除名されたが,1970年にはノーベル文学賞を受賞した。長編『1914年8月』Avgust 1914(1971)も国外で出版,1973年にはパリで『収容所群島』Arkhipelag Gulag 1巻を発表,ソ連 50年の陰の歴史,ラーゲリに照明をあて,ソ連当局を徹底的に批判した。そのため 1974年国外追放となり,一時スイスに滞在したが,その後アメリカ合衆国に移った。この間『収容所群島』の 2巻と 3巻,自伝的作品『仔牛が樫の木に角突いた』Bodalsya telyonok s dubom(1975),『チューリヒのレーニン』Lenin v Tsyurikhe: glavy(1975)を発表した。ソ連がグラスノスチを導入後,国内でも作品が解禁され,1990年正式に市民権を回復した。1994年5月,20年ぶりにロシアへの帰国を果たした。(ブリタニカ国際大百科事典)

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 「( ソルジェニーツィンは)2000年にはプーチン大統領と面会している。プーチンに対してロシアの文化、言語、宗教を保護するよう訴えた。2007年6月13日にロシア文化勲章を受章、このことはプーチン路線を事実上「追認」したものと報道された。それに止まらず12月の下院選を前にしてドイツ紙・シュピーゲルの取材に答え、エリツィン前大統領を酷評するとともにプーチン大統領への明確な支持を表明。「打ちのめされ、国民も意気消沈したロシアを引き継ぎながら、徐々に善実に復活させた」とプーチンを絶賛した」(Wikiwand)作家の目が曇っていたのか、プーチンの芝居が上等だったのか。権力から、何か貰うというのは、どうしようもない堕落です。

 2008年8月、作家の死に際して、またもや、はるか後の「戦争犯罪人」は顔を出しています。いったんは首相(殊勝)に成り下がっていた「プーチン首相は式典後に放映された談話で「その人生と仕事を通じて、アレクサンドル・ソルジェニーツィン氏は、あらゆる形態の圧政に対する社会の抵抗力を大幅に高めた」と弔辞を述べ、氏の作品は学校教育のカリキュラムの中で「それに値する位置」を与えられるべきだとも語った。(よく言うね)(https://www.afpbb.com/articles/-/2501066)こんな時にも、下手な、見え透いた「芝居」をうっていた。大統領の椅子を永久化しようといろいろな画策を弄している最中の「作家の死」でした。「国民の前」で思い切り、軽薄な芝居を演じなければならないことを知っていた。だから、「大作家の死」を利用したのです。大統領の椅子は、子飼いというよりは手下のメドベージェフに貸していた。「大統領の椅子」は、まるで蔦屋(ツタヤ)の商品そのものでしたね。

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 「彼(ウクライナ市民)らを気遣うことをやめ、包囲して電力を遮断できないのか」「西側メディアが言っていることは全くのうそだ」「われわれはこの戦争に勝利する必要がある」と「チャイコフスキー国際コンクール優勝者」がいう。ぼくはコンクールは「殺人行為」だと思っていますから、彼の発言は理解します。もちろん、理解するけれど、彼のいうことは狂気そのもので、明らかな間違い、解釈の余地はゼロです。音楽家が音痴では「商売に障る」けれども、政治的に「音痴」であっても、許されると考えているんですかな。(こういうい危急存亡の際に、誰彼の本性が露見するんですね)

ロシアを恥じることになるとは思わなかった。才能あるロシアの人々、私たちの文化、運動面での業績をいつも誇りに思ってきた」「しかし今や、以前と以後を区別する線が引かれたと感じている。人々が死んでいき、頭上の屋根を失ったり家を後にせざるを得なかったりしているのは痛ましい」「数週間前、こんなことが起こると誰が予想しただろうか。私たちは軍事紛争のただ中にはいないかもしれないが、この世界的大惨事に無関心ではいられない」とプリマ。  

 時には国を信じて、時に国を疑う、それが当たり前の感覚ではないでしょうか。ぼくたちは「国家」に殉じる必要はないし、国家の過ちを救うことがあってもいい、というよりそうありたい。それはどんな道を歩くかにかかわりがないんです。願いはひとつでも、たどる道はいくつもある。

 人間の「美しさ」というのは、「顔貌(容貌)」「見映え」「才能」などではないと、ぼくは考えてきました。このことだけは「吾道一以貫之」、紆余曲折ありながら、貫こうとしてきたと言えそうな気がします。孔子先生の「一」とは何か、と問われ、曾子は「夫子之道。忠恕而已矣」、先生は一貫して「忠恕」(自分の良心に忠実であることと、他人に対する思いやりが深いこと:デジタル大辞泉)だったと答えたのでした。ぼくは、これを「美しい」と言いたいんですね。

(二月二十四日以来、ぼくはこの「ウクライナ侵略」問題に関心を抱いてきたというより、無辜の民(新生児・乳児・幼児・さらに産婦を含め)、数千数万の人々が「いわれなき言いがかり」のゆえに殺戮されている、その人々の無念の涙や遺体(死体)が、目に焼き付き、記憶の襞にこびりついて、どうしようもないほどの怒りに襲われているのです。何もできないもどかしさが募ると同時に、祈る心や切々なんです。いましばらくは続くでしょうか。

 (ヘッダーの写真はアメリカ映画「スパルタカス」1960年制作、カークダグラス主演。「スパルタクスの反乱」については、早い段階で触れています。いつかまた、触れてみたくなりました。反乱の核心である、スパルタクスは「一人ではなかった」というところに、ぼくは何よりの勇気を与えられたのでした。「(反乱の首謀者である)スパルタクスはどいつだ」とローマ軍に問われ、「私がスパルタクスです」と、反乱軍の奴隷兵士・剣闘士の全員が名乗り出た」)

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