【地軸】テレビで会えない芸人 「角張った石はのみで削られる」は韓国。「強風は高山の頂に吹く」は英国。「出るくいは打たれる」の言い回しにもお国柄がある。 大修館書店「世界ことわざ大事典」によれば、これを「雷は高い木に落ちる」と例えるのがロシアである。ウクライナ侵攻後、反戦デモを弾圧し、軍に絡む「偽情報」拡散を厳罰化。戦争とも呼ばせない。横並びの沈黙を強いて異論を圧殺するのは、目算の外れた戦況へのいら立ちの表れだろうか。 先日は政府系テレビのニュース番組の生放送中、女性社員が「戦争をやめて」と大書した紙で訴えた。雷が打っても誇りある高い木は黙らせられない。胸を痛めるロシア国民も勇気づける一幕だった。 では言論の自由がある国はどうか。そう考えさせるドキュメンタリー映画「テレビで会えない芸人」が、あさってから松山市のシネマルナティックで上映される。権力者らを笑い飛ばす芸風で、もっぱら舞台で活動する松元(まつもと)ヒロさんを郷里の鹿児島テレビが追った。 松元さんが言いたいことを言って笑いを起こすほど、その姿を放送できない。そんなテレビの自己規制を問う。作中、松元さんは立川談志さんにもらった言葉をなぞる。「他の人が言えないことを代わりに言ってやるやつが芸人っていうんだ」。芸人をメディアに置き換えると…。 出るくいであろう。高い木であろう。そう誓い直す、新社会人や新入生を待つ春である。映画は25日まで。(愛媛新聞・2022年3月17日)

松本ヒロさん、ぼくはかなり前から見ていたし、知っていました。彼がコントグループ「ザニュースペーパー」の一員だった頃ですから、もう二十年以上も前になるでしょう。やがてぼくはほとんどテレビを見なくなり、ヒロさんがどうされていたか知らなかった。それがいまから十年ほど前になりますが、ある機会に彼がパントマイムをやっているのを知りました。さらにその直後だったか、芸人「松本ヒロ」の舞台公演を youtube で見ました。「憲法くん」だったろうか。まじめにお笑いをするという、実に至難な芸に挑戦しているという印象を持ちました。「九条」問題が盛んに論じられていた時代でもありました。
「テレビで会えない芸人」というドキュメントは、まだ見ていませんが、タイトルから、ぼくはいろいろなことを想像したり妄想したりします。まず、「芸人」ということ。二つ目には「テレビ」という媒体です。どちらも語り出せばきりがありませんが、その「芸人」は、今は絶滅危惧種ではなく、「絶滅種」だろうと思います。今日では芸人とは「お笑いタレント」のことだと錯覚というより、それがいっしょになってしまった。時代が悪くなったなあという感想をぼくなどは持ちます。「芸人」とは、一言では言い難いのですが、要は「芸人風情」と蔑(さげす)まれ、「国家に益無き遊芸の徒」などと言われた存在であったとぼくなどはとらえてきました。

今では使われない表現になりましたが、「河原乞食」などという語で呼ばれた人々であったかもしれません。この流れは深くて果てしがありません。時には「地下水脈」となり、時には「奔流」となって地上に流出することもありますが、殆んどは隠された世界で生き続けられてきました。このブログで、その歴史の触り部分を書くだけでも面倒なことであり、いささか疲れの原因になりそうですから、それはしません。ようするに「芸人」は、もうどこにもいないか、いてもなかなか見つけられない存在であるというばかりです。
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◉ かわら‐こじき かはら‥【河原乞食・川原乞食】〘名〙 (初め京都の四条河原で興行したところから) 歌舞伎役者を卑しめていった語。河原者。(精選版日本国語大辞典)
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だから「テレビで見られない」のが当然なのであり、会えない、見られないのは「テレビ」が悪いというような主張は、お門違いであると言いたいですね。「テレビで会えない」というものは、腐るほどありますし、それは実に「玉石混交」でしょう。あるいは「種々雑多」でもあります。玉ではなく「石」であり、「雑多」でもある中に「芸」は生まれ、「芸人」は生きるのです。亡くなった小さん師匠(五代目)や小三治師匠(十代目)、あるいは桂米朝師匠などが「人間国宝」として顕彰されたのを知って、ぼくは「落語は死んだ」と痛感しました。国家が与える・呉れると言っても固辞するのが当たり前だと思いますが、これは前もって申請(推薦)する人々がいて、その結果の「授与」なんでしょう。だれもなにもしないのに「人間国宝」にということはあり得ませんし、それを「いただく」のは、芸人道に反しませんかと、ぼくは強く思ったものでした。権力から蔑まされていたものが、忽ち「終身年金」をもらうのですから、驚天動地、まるで石川五右衛門が「警視総監賞」を押し載くようなものでしょう。(右上。「比例は共産党」というフレーズをバックにする「芸人」を、テレビが出すでしょうか、出すといいんですが)

テレビや新聞に出ないこと、それが芸人の定義だった時代が長かったし、ぼくはその節操、あるいは姿勢を尊重したいですね。テレビに出ると、言が腐ると、誰が言ったか。ヒロさんは、テレビに出るために、有名になるために「芸人」になったのだと言いますが、実はそうではなく、本物の「芸人」になると、テレビやマスコミは敬遠するのが筋だったのです。ぼくが教師の真似事をしていた時代、一人の学生が「音楽で身を立てたい」「ビッグになりたい」といって、修行を重ねてきたことを話してくれました。(彼は、今も「ミュージシャン」として活動していると思う)その彼に、「名が売れたら、終わりだよ」「有名になるのは、交通事故に遭うようなもの」と話して、驚かれたことがあります。その時期「トイレの神様」とかいう歌を歌って名が売れた女性歌手がいて、彼はその人と友だちだったとか。先を越されたと考えたのかもしれませんが、売れるのは宝くじに当たるようなもの、当たりくじを引くと、次々に「当たるくじ」を買い続けなければなるまい。自分を突き出すのではなく、受ける、当たる「音楽」を作り歌い続けなければならないんじゃないですか。「それが身を亡ぼすね」と、ぼくは偉そうに言ったのでした。ヒロさんのドキュメント、「テレビで会えない芸人」を知り、卒業生のことを想い出しました。(コバけんと、同級生たちは言っていた)
芸人というのは何でしょう。今は、もう滅んだという気がします。それはすなわち、「芸」というものが廃れたことを意味しませんか。ある辞書には以下のように書かれています。「1 学問や武術・伝統芸能などの、修練によって身につけた特別の技能・技術。技芸。2 人前で演じる特別のわざ。演芸・曲芸など」(デジタル大辞泉)仮に、芸とはこういうものとすれば、確かに今はもう、「芸不毛時代」です。「今もう秋、だれもいない芸」という挽歌が聞こえてきます。ヒロさんが、各地で受けることは素晴らしいことですが、受け続けるということはあり得ません。彼が変わるか、ファンが変わるか、あるいは両者が変わるか、それは避けられません。

その昔、「一年を十日で暮らすいい男」などと言われたのが力士でした。年に、一場所限り、十日間の興行でしたから。今は「一年を九十日で暮らす、しんどい男」と、年六場所、十五日間が六回。何とも大変で、怪我も病気もできないから、相撲がおかしくなった。つまらなくもなりました。あまり「テレビ」などに出すぎると、芸も錆びる。出すぎない方がいい。テレビに出るなどというのは自殺行為です。もう何十年も前になりましたが、「演芸(漫才や落語など)」がテレビに居場所を得てから、これはもうだめだとはっきりと感じました。案の定、その通りになりました。芸について、深く語った世阿弥は「秘すれば花」といいました。絶滅危惧種の「ヒロ」を守って、「天然記念物」にでもするか。まるで「鴇(朱鷺・とき)」のようであってほしくはないし、そのようにしてはいけないね。ぼくが住んでいる地域に「鴇谷(とうや)」という地名があります。鴇のたまり場だったということでしょう。この島のいたるところに「鴇」は生息していました。それが稲を食い荒らす、「害鳥だ」と言って、棒などで撲殺しまくってきたと言います。凄いことでしたね。虐殺ですよ。まるで、プーチンのよう。
それがまわりまわって、国指定の「天然記念物」だというのだから、笑わせるんじゃないよ、と鴇に㈹わって、罵(ののし)りたくなります。ヒロさん的な「芸人」が、「天然記念物」に指定され、檻に入れられ、二十四時間監視かめらで見守られ、身体にチップを入れられて、どうして「権力を嬲(なぶ)りもの」にする芸ができるというのでしょうか。「秘すれば花」だから、いつでもどこでも「見られる」というのはまちがいなんだと、いつかヒロさんに言ってやりたいね。
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◉ 芸人(げいにん)=芸能にたずさわる専門職業人。ただし,おもに江戸時代に定型化した庶民芸能に限っていう。歌舞伎界の役者,下座,振付師,花柳界の幇間 (たいこもち) ,また講談,落語,浪花節,義太夫その他音曲,声色,物まね,手品,漫才,曲芸などの寄席芸人や,太神楽,万歳,角兵衛獅子,居合抜きなどの大道芸人などがある。芸人の呼称は,単に職種的な芸能人の名よりも,芸人かたぎと呼ばれる職業意識が強く,一つの社会集団的なものを意味しているのも特徴といえる。 15世紀中頃,荘園領主の没落によって,寺社や朝廷をよりどころとしながら自活せざるをえなくなった芸能集団が成立する。猿楽,田楽,恵比須舁 (えびすかき) ,ささら説経,獅子舞,猿曳などの雑芸者がそれであるが,当時の社会機構はこれを職業人としてよりも,七乞食などと賤民視した。この弊風は近代にまで及ぶが,芸が売買されるところに,他の職業にはみられない厳格性と卑俗性の両面を持つ,芸人特有の気質が生じたといえる。(ブリタニカ国際大百科事典)
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「出る杭は打たれる」「高木は風に折られる」「誉は毀(そし)の基」「毀誉褒貶、相半ばする」などという類語には事欠きません。しかし、実際は「出る杭」というのは、「杭」の話であって、水平を乱す杭は切り取って、頭をそろえるのは当然でしょうが、人間は「出る杭」ではない。だから出ようが、出まいが、一向にかまわないではないかというのが、ぼくの単純な結論。「高木は風に折られる」というのも、考えてみれば、「自業自得」という部分もありそうです。隣の木の栄養まで奪って大きくなったのだから。人間の場合はどうでしょう。「他人の分まで盗る」というのはよろしくないこと。まるで、他国の領土を奪い取るような蛮行ではないですか。「テレビで会えない」、それが芸人という存在の値打ち。会いたければ、追っかけるしかない。どこで「口演」(興行)を打つのか、それを調べて追っかける。芸人と観衆の、在りし日の姿でした。全国を追っかけ、ついにはその一座に入った「芸人」をぼくは、きわめて身近にいて知っていました。その追っかけのエネルギーたるや、驚愕すべきものがありました。
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添田啞蝉坊を「芸人」といっても間違いはないでしょう。ぼくはこの路上演歌士について、何かと学ぼうとして来ました。「演歌」の源流に位置する芸人であったことは確かでしょう。いまなお、彼の「心」は生きているという気がしますし、生きていなければおかしいじゃないかという気もするのです。権力者、それはいったい何様なんだという気概、あるいは反骨ですね、ぼく(たち)に必要なのは。
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◉ 添田唖蝉坊(そえだあぜんぼう)(1872―1944)=演歌師。本名平吉。神奈川県大磯(おおいそ)に生まれる。14歳で上京して叔父の家に寄宿、船員を志したが長続きせず、横須賀で日雇い人夫などをしているうち、壮士の街頭演歌を聞き心酔、東京・新富町にあった壮士演歌の本部に入る。18歳のことで、以来、演歌師として盛名をはせ、明治後期から大正にかけて『ラッパ節』『マックロ節』『ノンキ節』『デモクラシー節』など数多くの演歌の作詞を行っている。堺利彦(さかいとしひこ)を知って社会主義運動に入り、その勧めでつくった『社会党ラッパ節』は有名だが、彼の資質はむしろ非政治的といってよく、「過去の演歌はあまりに壮士的概念むき出しの“放声”に過ぎなかった」という述懐のとおり、風俗世相を風刺、慷慨(こうがい)した『むらさき節』や晩年の『金々節』などによくその本領を発揮した。昭和に入ってからは演歌師を廃業、四国遍路や九州一円を巡礼、9年近い放浪の生活を送る。早世した妻タケとの間にできた1子が添田知道(ともみち)である。(ニッポニカ)
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