ロシア人のゾンビ化を許してしまって

 【日報抄】「ロシアがウクライナを攻撃した」。ウクライナ北東部に住む女性が、ロシアで暮らす母親に電話で告げた。返ってきたのはこんな言葉だった。「違う。あなたの軍が戦争を起こしている」▼親子がそれぞれ住んでいる場所は国境を挟んで1時間ほどの距離という。戦火を逃れてポーランドに出国した女性は母親が自分の言葉を信じようとしないことを涙ながらに話した。海外の通信社が報じていた▼ウクライナとロシアは文化面などで深くつながる。互いの国に家族や知人がいることも珍しくない。そんな中、この女性の母親はロシア当局の主張を固く信じているようだ。肉親の言葉にも耳を貸そうとしない様子に女性は胸がつぶれる思いだろう▼こうした状況に一矢報いようとしたのか。ロシアのテレビ局でニュースの生放送中、女性社員が「戦争をやめて」と書かれた紙を掲げた。「プロパガンダを信じるな」とも記されていた▼社員の父親はウクライナ人、母親はロシア人という。今回の行動はロシア社会の一部に衝撃を与えたはずだ。だが現地ではこうした行為は処罰対象で社員は拘束された。当局は今後、さらに強硬になるかもしれない▼ロシアと西側の分断が鮮明になってきた。体制や政治が絡む分断がどれほど災厄を生むかは朝鮮半島を見れば明らかだ。拉致問題の背景にも分断がある。悲劇を繰り返してはならない。テレビ局社員の行動がロシア当局の主張に風穴を空ける一歩にならないか。あまりにはかない願いだろうか。(新潟日報・2022/03/16)
 【天風録】〈NO WAR〉生放送の衝撃 広場で「ハリー・ポッター」を携えていて拘束された女性がいる。青と黄の2冊の背を合わせてウクライナ国旗に見立てたという。隣国へ、なおも兵を進めるロシアで起きた信じられない話▲白い紙を掲げただけで取り調べられた女性もいる。〈NO WAR〉と書き込んでよ―と世界に訴えたのかもしれない。ロシアの司法の仕組みはよく知らないが、当局はいかなる罪状で調書を仕立てるのだろう。心ある取調官なら戸惑うに違いない▲ロシア主要テレビの生放送中、キャスターの背後で〈NO WAR〉と紙を掲げた女性が現れる。局のスタッフである彼女は顔も名前も明かし、自国の独裁者を非難した▲日本の新聞にはロシアの反体制知識人が匿名で手記を寄せる。「プーチンはウクライナだけでなくロシアも殺した」。別の新聞ではロシアの元高官が実名で電話取材に応じ、現役外交官に「良心の辞職」を呼び掛けた。ソ連崩壊後の混迷を知る人だ▲勇気あるテレビ局の女性は「ロシア人のゾンビ化を許してしまって恥ずかしい」と言う。映画のゾンビは何かに操られた群衆だろう。それでも正気に戻った人に、戦争を「特別軍事作戦」と偽ることはもはやできぬ。(中國新聞・2022/3/16)

 「お前は、井の中の蛙だ」というのは、「井の中にいる、蛙(かわず)」ではなく、外から井戸を覗いている誰かでしょう。世界には深浅大小取り交ぜて「井戸」ばかりのような「世間」があるのだといいたいし、「蛙の天国」が溢れているようにも思われます。昨日、飛び込んできたロシア第一チャンネルでの出来事は、何であったか。詳細は分からないし、それが近く明らかになるとも思われませんが、彼女一人の行動ではなかったことは確かです(彼女の行為を知っていた人(支持者?仲間?)が、きっといたはず、この国営テレビ局に)。同じ井戸の中にも、空を見上げている蛙(人)、あるいは密かに井戸の外に出て行って、また井戸に戻っていった(きた)蛙(人)もいたのです。ロシアという大きな「井戸」で、もっとも愚かしい蛙じゃない、「人間」はプーチンであるでしょう。その下に、プーチン的蛙が、何重にも何層にもなって、蠢(うごめ)き、犇(ひし)めいているのです。ぼくは、彼女の映像を見ていて、ただちに、プラトンの書いた「国家」第七巻の「洞窟の比喩」を想起しました。

 面倒は言いません。下の図に示されているとおりのことが「日常世界(世間)」に生じていることだとします。洞窟の奥に「囚人」がいます。これは何を隠そう、「私たち」です。洞窟の入り口近くに「灯り」があり、その灯りの前を「人・物・事が行き来する」と、その<quasi object>、つまりは「影」が洞窟の壁に映し出される。囚人(自分で判断できない人々)はその影を見て「本物だ」と思いこんでしまう。これが「ドクサ」というものでしょう。臆見とか通念とか、世間の常識というもの、あるいは「空気」であるかも。「みんなが正しい」というから、「自分も正しい」と思いこむ。この「思いこみ」を、暴力的に徹底するのが政治であり、最もうまくいけば、それは独裁政治になり、全体主義になる。なぜなら、「あれは影だ」という人間は、たちまちのうちに「非難の的」になるからです。その非難を正当化するために、権力はさまざまな機構を作る。テレビ局も裁判所も、警察署も、もちろん「議会」だってそうです。さらに言えば、「正義」「不正」だって作るのです。

 真顔で「ウクライナが戦争を仕掛けてきた」「核開発をしている」という「ドグマ」を総力を挙げて作り出したのがプーチン、それは「完璧なフェイク」だと井戸の外の多くの人は知っていたが、井戸の中の「囚人」(考える自由を持たない人々、だから、だれかの言ったことが正しいと、囚われているのだ)だけは、「ドグマ」を盲信した。信じる努力をしたからではなく、信じた振りをしている方が楽だから、無駄な詮索を受けたくないからと、盲信したつもりでした。それが独裁権力の付け目なんですね。「独裁の強さであり、弱さ」です。信念からのものではないから、「盲信」から逃げ出す糸口(ほころび)はいつでも用意されているのです。この「侵略」が起った最初の段階で、ぼくは「ほころび」が見えた気がしたので、プーチンは「墓穴」を掘ったと言いました。飛び切り大きな「墓穴」が今も掘られています。まるで川の土手のようなもの、盤石のように見えていても、地殻変動が起こり、そのたびに「地盤」は緩んできていたのです。独裁権力は「強いし弱い」ということに、当人ばかりが気が付かないんですね。

 この壁に映った「影」を見ていた「囚人」の一人が洞窟の外に出た、そして洞窟の仕組みがどういうものであるか、それを知ったのです。井戸の中から、外の世界に出たことのある人は、井戸の中の状況がわかるのです。「『ロシアがウクライナを攻撃した』。ウクライナ北東部に住む女性が、ロシアで暮らす母親に電話で告げた。返ってきたのはこんな言葉だった。『違う。あなたの軍が戦争を起こしている』」と。この場合、井戸の外の景色(事態)を知っていたのは娘さん。母親は(影を盲信して)「違う。あなたの軍が戦争を起こしている」。親子であれ、夫婦であれ、片方は洞窟におり、片方が外に出たことがある、そんな二人の関係は、傍から見るほど修復は易しくないことがほとんどです。分かりうことは困難を極めるのです。「見るべきものを見る」と人は言う。しかし「影」をして、「見るべきもの」と錯覚している人は、信じられないほど多くいるし、「自分は無知であるということを一切認めない、その手の「無知」だけに手強いんですよ。 

 だから、「おかしいことはおかしいと」いうことはなんでもないことでもありますが、時には、いのちを懸けて「おかしい」と言わなければならないことや場合があるんでしょう。「無知」派本当に侮れないんです。「おかしいのはお前の方だ」と、必ず言います。ぼくはプラトンの哲学がまったく「真理」にかなっていると、まるで「洞窟の中の囚人」のようにいうつもりはないが、これこれ、こういう理由でおかしい、間違っているということを言うために、身命を懸けなければならないという「不条理」が今のこの瞬間にも、間断なく繰り返されているのです。(しかし、同じことは、この島社会でも、ついこの前まで強力に行われていたし、今だって、隙あらばと、いつでも、ぼくたちの眼前に「影」を映し出しているのです。いったい誰ですか、そのけしからん奴は)

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

(引用した図のURL:http://chanelkant.blog.fc2.com/blog-entry-249.html)

◉ 洞窟の比喩(どうくつのひゆ)(allegory of the cave)=プラトン国家』第7巻で述べられている有名な比喩。第6巻における線分の比喩で相対的に区別された可視的世界と可思惟的世界の類比が,洞窟の中で入口を向けて頭を一方向に固定させてつながれている囚人を想像することによって語られる。囚人は背後の火によって前面の壁に映じる人や動物のを実在と思い込む。これが可視的世界に対するわれわれの関係である。囚人は解放されて火の光に照し出された影の本体を見ても,やはり影のほうを真実と思い込む。哲学的教育はいわば地下薄明に馴れた人間のが,より明らかな真実在 (イデア) の世界 (可思惟的世界) へ,さらに太陽に象徴される可思惟的世界 (ノエトン) そのものを成立させる究極的存在 (のイデア) へと転回するようにしむけるのである。

◉ 井の中の蛙(いのなかのかわず)=見聞の狭いことや、それにとらわれて、さらに広い世界のあることを知らないことのたとえ。井戸の中のカエルが、東海に住むカメに、自分の住居の楽しさは無上であると自慢したところ、カメが海の話をし、海では千里も遠いうちに入らず、千仞(じん)の高さも海底の深さに達せず、時の長短や量の多少でいっさい計れないのが東海の大楽であるというと、カエルは驚きあきれて、返すことばもなかったと『荘子(そうし)』「外篇(がいへん) 秋水(しゅうすい)」にあり、韓愈(かんゆ)の『原道(げんどう)』にも「井に坐(ざ)して天を観(み)る」などとある。「井の中の蛙大海を知らず」「井(かんせい)の蛙(あ)」ともいい、単に「井蛙(せいあ)」「井底(せいてい)の蛙(あ)」ともいう。(ニッポニカ)

OOOOOOOOOOOOO

OOOOOOOOOOOOO

 「ロシア人のゾンビ化を許してしまって恥ずかしい」とマリーナ・オフシャニコワさんは、いのち以上のものを懸けて訴えた。そして、プーチンは、即座に彼女を踏みつぶせなかったのだと、ぼくは想う。彼女は「洞窟の外」「井戸の外」に出て行った人でしたが、再び洞窟(井戸)に戻った。なぜか。「影」は本物ではないと、同胞に知らせるためでした。(プラトンが書いている通りのことをした)いったん太陽が輝く世界を見た人は、恐らく、再び昔の暗い「洞窟」には帰りたくなかったに違いありません。しかし、昔の仲間たちのことを想えば、再び洞窟に戻ることをみずからに命じたのです。(裁判所は即決で「罰金三万円」という判決を下したという。この先、彼女がどのようになるのか・されるのか、まったく予断は許されないと思います。彼女の、さらなる苦難は続くのです、決して呑気な話ではない)(https://www.youtube.com/watch?v=ICaTg1Z2hhI

 「洞窟の比喩」と同時に、ぼくは「赤ずきん」を想い出していました。これもなかなかの凄みを持っており「童話」などと気軽に言ってはいけない内容ですね。そして、「ロシアの森」「モスクワの林」には、本物とは比較を絶した凶悪至極の「狼」が、美しい衣装(鎧)の下で「銃剣」を握っているんですね。 プーチンは「狼」だと言えば、狼は、色を成して怒るでしょう、「おれはあれほど、えげつなくはない」「あんなに卑怯な真似はしない」、と。似たり寄ったりではあっても、人間は、いったん度を外せば、何でもやりきるから、手に負えない、まるで「✖✖✖」のごとし、と狼は言うでしょう。「歯止め」というものがプーチンにあったとは思われないんです。行くところまで行くでしょう。

◉ 赤ずきん(あかずきん)Le petit chaperon rouge フランス語 Rotkäppchen ドイツ語=フランスの民話をペローが再話して、『がちょうおばさんの話』(1697)に収めたのでよく知られている。おばあさんからもらった、きれいな赤ずきんをかぶった娘が、おばあさんを訪ねて行く途中、オオカミに出会う。オオカミは先におばあさんの家へ行って、おばあさんを食べ、そのベッドに入って、おばあさんになりすまして娘の到着を待ち、娘を食べてしまう。『グリム童話集』(第26番)では、このあと、猟師がオオカミの腹を切り開くと、娘とおばあさんが無事に出てきて、3人でオオカミの腹に石を詰め込み、オオカミは石の重みで死んでしまう、というすじになっている。(ニッポニカ)

_____________________________