「ウクライナから愛をこめて」

 【小社会】 日本でまさか 日本に留学経験もあるウクライナの作家オリガ・ホメンコさんは2011年、祖国で流れるテレビニュースに衝撃を受けた。東日本大震災があり、福島で原発事故が起きていたからだ。▲「きちんとしている日本でまさか」。被災地を心配する一方で、自身のつらい記憶も呼び覚まされていった。1986年、旧ソ連時代のウクライナで起きたチェルノブイリ原発事故。▲中学生だったオリガさんは当時約130キロ離れた現首都キエフで暮らしていた。市民は当初何も知らされず、オリガさんが避難したのもずいぶん後。それもあってか避難先では「被ばく者が来た」と反応されたという。▲エッセー集「ウクライナから愛をこめて」にある。多感な中学生は深く傷ついたに違いない。130キロ離れていても影響があった。原発の地元となれば、計り知れないほどのものを失ったろう。福島第1原発事故もそうだった。▲「日本でまさか」と思ったのは外国人だけではなかった。日本人自身が、国も電力会社も安全への認識が甘かったのを思い知った。原子力は手に負えないと痛感した人も多いが、日本ではいまも原子力を手放す流れにはない。▲震災と原発事故からきょうで11年。折しも、ロシアがウクライナに侵攻し、原発や核兵器の脅威が取り沙汰される中で迎えた。戦争被爆国にもかかわらず、国内では非核三原則の見直し論も浮上。原子力を巡る「日本でまさか」は続いている。(高知新聞・2022/03/11)

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◉ ウクライナ(うくらいな)Ukraine 英語 Ukraina ウクライナ語=ヨーロッパ東部、黒海に面する共和制国家。かつてはソビエト連邦の構成共和国の一つ、ウクライナ・ソビエト社会主義共和国Украинская ССР/Ukrainskaya SSRであったが、1990年7月共和国主権宣言、1991年8月独立宣言し、国名を「ウクライナ」とした。西はポーランド、スロバキア、ハンガリー、ルーマニア、モルドバに、北はベラルーシ、東はロシアに接する。面積60万3500平方キロメートル、人口4845万7102人(2001センサス)、4474万人(2014年世界銀行)。首都はキエフ。国内にクリミア自治共和国と24州、2特別行政区がある。(ニッポニカ)

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 毎日のように「ウクライナ侵略」問題に触れています。それでどうなるというものではないのですが、気持ちがどうしてもそこに行くから、触れるしかないような、そんな状態でかれこれ一か月近くを過ごしています。これまでにはなかった明け暮れですね。実際に侵略される側の人々の恐怖や悔しさ、おそらく言いようのない怒りや底なしの悲しみが彼・彼女らを襲っているでしょう。言語道断の殺戮を積み重ねている「ロシアの悪徳政治」に対して、国連をはじめ多くの国々が作り上げている「平和維持」機能がまったく役に立たないばかりか、そのロシアが国連安保理事会の常任理事国であり、気に入らない決議案に反対を投じれば、他国は指をくわえてみているほかないというのですから、国連もまた「侵略」に加担しているということでしょう。欺瞞に彩られた「世界」というべきか。惨!

 入ってくるニュースや映像は、日に日に、侵略する側の残虐さの拡大と深刻の極限値を示しています。無差別爆撃はいかなる正当性も持たないだけに、一層残虐の度を加えているのでしょう。ソ連崩壊までのウクライナは、「ソヴィエト連邦」を構成している一つの強力共和国でした。それ以前、帝政ロシア時代まではさまざまな事変や戦争で、自らの領土を他国によって踏みにじられてきたのです。近年になってから「世界の穀倉地帯」とも「石炭や鉄鋼の宝庫」とも言われ、ソ連時代は連邦の中でも大きな役割を果たしていました。地理的には、西側に多くの「EU加盟国」と国境を接しています。EU何するものぞというロシア(プーチンピ)には、ウクライナのEUか加盟方針は放置できない、由々しき状況という、格好の「侵略の口実」になりました。ロシアの武力行使の一因でした。

 今のウクライナ共和国(独立宣言した)になったのは、わずか三十年前のことです。なぜ「侵略」したのか、それは極めて単純に言えば、本来がロシアのものだったという言い分があるからです。それだけでは理由が弱いというのか、EUに加盟すると、ロシアの安全が脅かされるということもあったでしょう。だから、何年もかけて実に周到に、親ロシア勢力を潜り込ませ、多数派を形成して、ウクライナの「内部崩壊」をもくろんでいたのは事実です。プーチンという「孤独な独裁者」(独裁者は、誰だった孤立しています。気軽に仲間を増やすことに異常な警戒心が働くのは、みずからの心情を知悉していればこそです)、彼の性格はどんなものか、ぼくは話したことももちろん付き合いもありませんから、その実際は知りませんが、猜疑心のカタマリであろうことは想像できます。だれも信用できない、おそろしく閉鎖した心の持ち主ですが、そもそも、彼に「心」があるのだろうかという見方もできます。

 いろいろな専門家たちが、この「戦争」の展望(行く末・帰趨)を語っていますが、なんとでもいえることですから、お気楽と言えばその通りでしょう。ぼくは専門家でも評論家でもありませんから、何とも言えない、怒りや悲しみが募るばかりですから、精神の健康上からすれば、甚だよろしくありません。後輩にロシア研究の歴史家がいます。都内の大学の教員をしてますが、その人たちに聞いても、明日の天気を予想するよりも曖昧なことしか言えないはずです。第一、侵略を犯した「独裁者」そのものが、どのように終わるのか、終わらせるのかわからないのですから、他人がわかろうはずもありません。若し、ぼくに一縷の望があると言えるなら、経済封鎖という「ロシア囲い込み」、あるいは「兵糧攻め」が一定の効果を、恐らく本日(十二日)から具体的な封鎖措置が始まるとされていますから、発揮し出すと、きっと状況の変化が生まれるでしょう。というか、風が変わるに違いありません。「風待ち」「風邪頼み」とは、いかにも情けないですね。(以下の写真はFNNニュースオンライン・2022/03/11 )(https://news.goo.ne.jp/article/fnn/nation/fnn-329784.html)

 無条件降伏だけが「停戦交渉の成否を握る鍵」と、最初から強面で、一歩も譲る気配を見せないのは、いかにも、このKGB育ちの常套手段、口癖でしょう。交渉する気がないということ、世間を欺く「交渉のテーブルにつくだけ」ですから。しかし、強がりばかりが通用するというものでありません。この「侵略」が始まった時、ぼくは「義勇兵」として出かけるつもりがあるんだと、友人に話したら、「足手まといになるから、止めなさい」と窘(たしな)めれました。今でも気持ちは変わらない。後期高齢者は資格がないと言われるか。これまでにも、いろいろな戦争や戦闘を、この耳目で経験してきましたが、幸か不幸は、具体的な戦争・戦闘の「酷薄」「非道」が見えてきませんでした。一例でいえば、ベトナム戦争時、多くの人たちが現地に入り、たくさんのレポートを書いています。すべてではないにしても、かなりの部分を読んでいました。それでも、十分に「実態」が伝わってこなかったと、ぼくには思われたのです。悲惨極まる事態が判明したのは、戦後のことでした。

 たしかに、戦争を仕掛ける側と仕掛けられる側の戦いには、最初から「動機」や「大義」が違っていました。どんな理屈を並べ立てようが、武力や軍事力で物事を決めるというのは、まったく理があるものではないからです。そのような意味から、ぼくはいつだって、知っているかぎりの「戦争」「戦闘」では、仕掛けた側よりも仕掛けられた側に立ちたいという姿勢を自らに課していたように思う。今回の「侵略」に関していえば、当然<I resolutely stand on the side of Ukrainian citizens.>ということです。そして、今回ほど理不尽であるという怒り、許しがたい蛮行だという感情がふつふつと湧いているのは、そんなにあることではなかった。(いずれの戦争だって、恐らくその当時は、同じような強い感情にぼくは動かされていたに違いはありません)でも、ぼく一人がいきり立っても、無意味だと自分でも思います。その「無意味(nonsense)」を百も承知で貫きたいという念慮、それがぼくの生きる態度の根っこにあります。無意味は「意味」をくじく力を持っているというのが、ぼくのささやかな信念(belief)です。(わけのわからない言い方ですな。物事は「計算では答えが出ない」ときの方が多いということ)

 ホメンコさんの本を読んで、ウクライナは「フクシマ」だと、つくづく考えました。チェルノブイリ原発はウクライナが作ったものではありません。福島も、県民が原発を作ったのではないことは誰もが知っています。その地に原発立地を進めたのは「権力の側」(戦争を仕掛ける側)です。チェルノブイリの場合は、旧ソ連でした。しかし、事故が起った後は、住む環境ではなくなり、いまなお被爆・被害を受け続けている人が多くいるのも、両者に共通しています。「後始末は所在地の責任で」というものでしょう、実質は。首都圏の電力を賄うのに、どうして福島が…という感情はいつまでたっても消えなかったし、チェルノブイリでも同じでした。(上の写真はBBCニュース「33年後のチェルノブイリ訪問」より:https://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-47248881)

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 普段の気軽な駄文とは調子が異なって、自分でも奇妙な感情に支配されているような、そんな錯覚を起こしています。この理不尽な「侵略」が終焉を見るまで、ぼくの怒りと悲しみは消えないようです。これからもいろいろな側面から、このような「蛮行」がなぜ生じるのか、その蛮行を熱烈に支持する勢力がいつだって存在するのはなぜなのか、そんなよしなしごとを、ぼそぼそ口ごもることになりそうです。

 「駄文・雑文の山」を築いてきた報いでもあるのでしょう、パソコンの調子がすこぶるよくありませんし、メモリー(120GB)もほぼ尽きそうになりました。新規に、今の十倍余の容量のハードに代えるべく準備をしているところです。うまくデータの乗り換え(移動)ができることを願っていますが、あるいは暫時、休息日が入るかもしれません。その間に、ウクライナの蛮行・凶行が終息の方向に進んでいることを待望しています。雑文の程度がさらに低くなっているのも、実はパソコンの不良のせいにしてみたい気も。我ながら、困ったもの、自らの無能をパソコンのせいにして。自動車事故を起こしておいて、車が悪いというくらいに、捨てておけない言い草ですから。調子の悪い車でもなんとか乗りこなすのが、そして無事に修理を終わらせるのが、運転する者の責任ですからね)(猫たちと付き合うのも、それなりに時間も手間も金もかかります。あるいは人間以上かも。とくに、医療費がバカにならないほどに高いですね)

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投稿者:

dogen3

 語るに足る「自分」があるとは思わない。この駄文集積を読んでくだされば、「その程度の人間」なのだと了解されるでしょう。ないものをあるとは言わない、あるものはないとは言わない(つもり)。「正味」「正体」は偽れないという確信は、自分に対しても他人に対しても持ってきたと思う。「あんな人」「こんな人」と思って、外れたことがあまりないと言っておきます。その根拠は、人間というのは賢くもあり愚かでもあるという「度合い」の存在ですから。愚かだけ、賢明だけ、そんな「人品」、これまでどこにもいなかったし、今だっていないと経験から学んできた。どなたにしても、その差は「大同小異」「五十歩百歩」だという直観がありますね、ぼくには。立派な人というのは「困っている人を見過ごしにできない」、そんな惻隠の情に動かされる人ではないですか。この歳になっても、そんな人間に、なりたくて仕方がないのです。本当に憧れますね。(2023/02/03)