本日は3・11、十一年目を迎えます。昨日は七十七年前の「東京大空襲」の日でした。いつも言ったり思ったりしているのですが、この島の長い歴史を考えると、一年の中のどの一日も、何かしらの「記念日」になっているのです。人為的に、あるいは商売上に設けられた「休日・祭日」あるいは「語呂合わせの記念日」などは、遊びとしてわきへ置いておくとして、この出来事を風化させてはならない、忘れてはならないという「特異日」は、毎日のように詰まっているのでしょう。だから、ぼくたちは、自分の人生を生きていると同時に「歴史を生きている」ともいえるのです。歴史を離れてぼくたちは一日も生きられないと言い換えてもいいでしょう。
(下の写真は東京新聞・2021年2月14日)この写真を見ながら言っておきたいのですが、「東日本大震災」は未曽有の地震であり、それがもたらした災害規模の大きさも類例を見ないようなものでありました。ぼくが、怪訝に思うのは、ともすれば、それと切り離されて「福島原発事故」が、二次的に扱われているということです。いまだに、「なぜ原子炉は爆発したか」について公式の見解はあいまいなままです。明らかな政治的意図がみとめられる)

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その「周年記念日」は時間の経過とともに、人々の記憶から消えていく(忘れ去られる)、それは一面ではしかたがない、あるいは自然の成り行きであるともいえます。今日、「東京大空襲」を記憶にとどめている人はどれくらいおられるでしょうか。自らを含めて「被害」にあったという人の存在は確実に減り続けています。だからこそ、「歴史を学ぶ」という作業(行為・追体験といってもいい)は、っそれなりに間違いを少なくして生きていくためには欠かせないのですが、学校における「歴史教育」の頼りなさは、ぼく自身も長く経験してきただけに、実に心もとなく思われます。「満州事変」などは、今では記録(資料・史料)の中にしか残されていない状況です。いずれ「東北大震災」も、記録に留められて、思い出されるのは、同じような「災害」が起った時だけという事態になるはずです。この三年ばかり、散々に傷められてきた「コロナ禍」も同じでしょう。それは当たり前ですが、単に「事実の羅列」「存在した事実の集積」だけでは決して「歴史」にはならないということです。しかし、単に「事実」といっても何でもかんでも事実ということではない。そこにはおのずから「事実の選択」が行われます。それが徐々に歴史の事実からは遠ざかっていくことも大いにありうることです。「事実の変貌」ですが、これを歴史の改竄ということもできます。

面倒なことをいうようですが、事実をいくら集めても「歴史」にはならない。ぼくたちが知らない、人跡未踏の地でどれだけ雨が降ろうが、大震災が起ろうが、火山爆発が発生しても、それは自然の運動(摂理)でしかないのです。ところが、何日も降り続く大雨のために生活が壊されたり、人命が損なわれたりして、初めてその事実は「歴史」になりうるのです。もっと言うなら、「あの地震・災害を、私はこのように経験した」という人々が存在して初めて「震災は歴史である」ということができるのでしょう。一人の思想家は「あそこに、一本の松が立っている。という人がいなければ、それは世界ではない」といいました。あるいは「松」問い植物に名前を付ける人間がいて、はじめて人間の社会になるのでしょう。人間がそこに関わらなければ、歴史は生まれないと言ってもいい。なにもこういったから、ことさらに人間の優位性を言うのではない、そうしなければ、人間はこれほど長く存在してこれなかったからです。
犬や猫も、人間と同じような時間を生きています。しかし、彼や彼女たちは「歴史」を持っているかというなら、どうでしょう。人間が使うのと同じ意味合いで「歴史」を持たないのかもしれないし、彼や彼女に独特の「歴史」があるともいえます。それはしかし、人間の用いる「歴史観念」とは比較できません。優劣の問題ではなく、「種(自己)保存本能」の質的差です。優劣ではないことは、だれの目にも明らかです。犬猫などの動物は、弱者を殺すのに、核や核ミサイルは断じて使わない、いや、そもそもそんな危険なものは彼らには不要だったのです。人間が優れていると言えるのは、「「優れている」と判断する人がいるからです。人間の世界に限定してのみです。「ロシアは偉大だ」「ロシアは偉大でなければならぬ」という殺人鬼がいるから、目をふさぎたくなる地獄絵が展開しているのです。偉大な殺人狂(と言われたがっている権力亡者)は、犬猫に勝るのでしょうか。
つまらないことをいうようですが、記録するか記憶する(あるいは記憶の伝達を含めて)行為があって、はじめてぼくたちは「歴をを生きる」条件を備えるともいえるのです。3・11から十一年が経過したと、経験者が語り、記録が示しているから、ぼくたちはあの甚大な災害と被害者に思いを寄せることができるのです。これが百年以上たったら、「災害・被害」の実体験者は皆無となります。すると、残された「記録」と「記憶(の伝達)」だけが、歴史を知る・見る・生きる「資料」になるはずです。その資料がどのように残され・編纂されるか、それは「歴史」の問題を考えるうえで極めて重要な条件となるでしょう。そのような資料・史料には幾多の種類があります。それを細大漏らさず網羅することは不可能でありますから、ぼくたちは身に合ったものの裡に「歴史」や事件・事故の痕跡を見るのです。

若いころ、一人の文学者が「歴史は思い出である」ということを言ったのを、はっきりと記憶しています。道端に幼児の靴が転がっている。それを見ただけでは歴史にはならない、その靴は事故に遭った「私のこ子どものもの」といって、それを手に取る母親がいて初めて、この靴は歴史を語るのです、一個の靴を手にするだけで、母親には、深い悲しみとともに「亡き子」がよみがえる、生きていた姿が髣髴とする。それを「思い出」といっていいだろうということでした。「思い出す働き」がなければ、単なる物質であるもの、だれも見向きもしなければ、一個の靴はゴミでしかないかもしれない、と考えると、残されたもの(遺品というか遺物というか)にいのちを吹き込み、それをよみがえらせる働き(感情)が「歴史を作る」といってもいいでしょう。ぼくは、土台無理かもしれないし、それはあり得ないことだとも考えながら、「歴史」をそのようにつかみたいと苦闘してきたようにも思っている。「思い出す」人がいなくなれば、歴史は消えるのか。消えた歴史は何と呼ぶのでしょうか。資料(史料)なのか、それとも記録されなかった何かなのか。こんな問題ですら、ぼくたちにはまともに応えられないんですね。
もう少し続けたい気もしますが、面倒くさいという気分もあります。じつは、ここでは一本の映画のことを材料にして、歴史とか歴史の記録なるものを考えたくなっただけです。それも面倒なことになりそうなので、ことは簡単に済ませたい。歴史資料・史料の中に、当然文学や音楽、あるいは映画などの「芸術」も入ります。映画を見ることにかけては、ぼくはまったくの怠け者でしたから、何も言う資格もないのですが、「ぼくはこの映画を、このように観た」ということぐらいは許されるかと判断して、勝手な感想を述べて終わりにします。こんなろくでもないことを考えさせてくれたのが、下の「コラム」でした。映画のタイトルは「ひまわり」。1970年だったかに公開されました。ぼくはいつ観たのか。絵画を記憶するのと同じように音楽も映画も、ぼくはほとんどまともに記憶できた試しがありません。
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【南風録】1970年公開の映画「ひまわり」は、戦争で引き裂かれた夫婦の悲恋をイタリアの名優マルチェロ・マストロヤンニとソフィア・ローレンが演じた。エンディングで映し出される広大なヒマワリ畑が印象深い。▲旧ソ連が舞台で、このシーンはウクライナの首都キエフの南約500キロのへルソン州で撮影されたとされる。現地の日本大使館はホームページで、今も7月下旬ごろには一面に咲きわたると紹介している。▲さて、今年はどうだろう。深刻さを増すウクライナ情勢である。13万人規模とも言われるロシア軍が侵攻を続けている。民間人の犠牲も後を絶たず、国外に逃れた人は200万人を超えた。▲周辺国の駅などにたどり着くのは女性や子どもが目立つ。祖国を守るため、多くの人が、夫を、息子を故郷に残してきたからだ。着の身着のまま手荷物だけを抱え、うちひしがれた人たちの姿を伝えるニュース映像に心が痛む。▲岸田文雄首相が避難民受け入れを表明し、鹿児島県内に落ち着いたケースもある。祖国を脱した家族との再会を心待ちにする鹿児島市在住の女性もいる。安らかに過ごせるよう手を尽くしたい。▲先週の本紙に青空を背にした開聞岳とヒマワリ畑の写真が載った。青と黄色のウクライナ国旗に見立て、平和の祈りを託してロシア出身の女性が撮った。心置きなく花をめでることのできる日を一日も早くと願う。(南日本新聞・2022/03/10)
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◎ソフィア ローレン(Sophia Loren)1934.9.20 - =イタリアの女優。ローマ生まれ。本名ソフィア・シコローネ〈Sofia Villani Scicolone〉。1950年ナポリでの海の女王コンテストに入賞、同年の「クォ・ヴァディス」のエキストラ役で映画デビュー。’52年、芸名をソフィア・ラッザーロからソフィア・ローレンに改名。’54年の「河の女」で世界的名声を獲得し、「黒い蘭」(’59年)でベネチア映画祭主演女優賞、「ふたりの女」(’61年)ではアカデミー主演女優賞、カンヌ映画祭主演女優賞を受賞。作品は他に「ひまわり」(’69年)、「プラス・ターゲット」(’80年)等多数。私生活では大プロデューサーのカルロ・ポアンティとの結婚が重婚罪で訴えられ、9年後に正式に結婚成立。(二十世紀西洋人名辞典)
◉ デ・シーカ(De Sica, Vittorio)[生]1902.7.7. ソーラ [没]1974.11.13. パリ イタリアの映画監督,俳優。初め俳優だったが,1940年代以後は監督としても数々の名作を発表,ネオレアリズモ映画の代表的監督となった。リアルな映像にあふれる香り高いヒューマニズムは,世界の映画人に大きな影響を与えた。主要作品『靴みがき』 Sciuscia (1946) ,『自転車泥棒』 Ladri di Biciclette (48) ,『ミラノの奇蹟』 Miracolo a Milano (51) ,『ウンベルトD』 Umberto D (52) 。(ブリタニカ国際大百科事典)

◉ ひまわり(I girasoli)=1969年製作のイタリア・フランス・ソ連合作映画。チェーザレ・ザヴァッティーニCesare Zavattini(1902―1989)脚本、ヴィットリオ・デ・シーカ監督の戦争メロドラマ。第二次世界大戦中に東部戦線で行方不明となった夫のアントニオ(マルチェロ・マストロヤンニ)の生存を信じ、ソ連まで捜し求めて行った妻のジョヴァンナ(ソフィア・ローレン)は、彼がロシア娘のマーシャ(リュドミラ・サベーリエワLyudmila Savelyeva、1942― )と新しい家庭を築いているのを知る。ローレンの夫であるカルロ・ポンティCarlo Ponti(1912―2007)が製作を担当し、モスフィルムの協力を得て、旧ソ連国内で初めてロケーション撮影を敢行した西欧映画として話題となった。地平線まで広がるひまわり畑の風景に流れるフランコ・マンニーノFranco Mannino(1924―2005)の主題曲も印象的だった。(ニッポニカ)

*「ひまわり」: Loss of Love – Sunflower (Mancini) (Piano)・Theme from “Sunflower” (I Girasoli) (1970)=(https://www.youtube.com/watch?v=bo3O_yF2ycU)
(右の写真は、左からマストロヤンニ、ソフィア・ローレン、デ・シーカ)
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コラム氏は「戦争で引き裂かれた夫婦の悲恋」と言っているけれど、ぼくは悲恋を装った「喜劇」といいたいほどに、この映画は「荒唐無稽」でした。それをどうこう言うのではなく、「戦争」に関わると(関わらなくても)、人生は「荒唐無稽」になり、ありそうもない生活を余儀なくされるものでしょう。映画の内容を批評するのではありません。この映画で、ぼくがもっとも強く感じさせられたのが、主人公の「アントニオ」(マストロヤンニ)が、徴兵忌避行為を演じてロシア戦線に送られ、そこで真冬の戦闘で自軍が壊滅し、彼は死線をさまよう。残された妻のジョバンナ(ソフィア・ローレン)は、夫の生存を信じて帰還を待ち、ついにはソ連に赴き、たった一人で「夫」を探す。時代がいまではありません、一枚の夫の写真を手にして尋ね歩くのです、見も知らぬ、行きずりのロシアの人々に。場所がどこだったか、モスクワだったか地方だったか。詳しいことは忘れました。
ついに夫の居場所を突き止めたが、そこには夫の「家族」がいた。失意のうちに彼女は故郷(ナポリだったか)に帰る。直後に夫が会いたいと言って、やってくる。これは喜劇でなくて何でしょうと言いたいほどです。ぼくのいう「荒唐無稽」は、戦争とその後遺症といってもいいもので、だれにでも、いくらでも引き起こされるのでしょう。妻は再婚している家に、元の夫が来る。(元妻の現夫は「夜勤」で留守だという、うまくできているんですか)そこには、妻と再婚相手との間の子どもがいて泣いている。「この子の名は?」と元夫が聞くと、「アントニオ」とこたえる。「ぼくの名前を付けてくれたのか」という夫に、ジョバンニは「聖アントニオからよ」と、実に微妙な表情で答えた。この映画でもっとも印象に残った場面です。喜劇ですね。元夫は、一緒にどこかへ行こうと誘うのは、いかにもデ・シーカ監督らしいというべきか。まじめに演技しているからなおさら、喜劇の色が強く出る。イタリア映画の面目というものですか。
「ひまわり」というタイトルは、何の暗示なんでしょうか。あまり深い意味があるとは思われません。墓地を管理している女性だったか、広大なひまわり畑の墓地をさして、このひまわりの下には「ロシア人と他の国の人々の遺体が埋まっている」といったように記憶しているのですが、そんなをこといえば、人間の住んでいる地面を掘れば、かならず遺骨がでてくるのですから、とりわけひまわりの下(日本の作家は「満開の桜の下に死体が埋まっている」という小説を書いています)という必要もないように思うのです。

(戦争とそれがもたらした運命の行方(ゆくえ)を考えるときに、以前にも触れたかもしれませんが、石原吉郎という詩人を想起します)
◉ 石原吉郎( いしはら-よしろう)=1915-1977 昭和時代後期の詩人。大正4年11月11日生まれ。昭和14年応召,敗戦でシベリアに抑留され,28年帰国。鮎川(あゆかわ)信夫らにみとめられ,30年「ロシナンテ」を創刊。39年抑留体験に材をえた「サンチョ・パンサの帰郷」でH氏賞。48年エッセイ「望郷と海」で藤村記念歴程賞。昭和52年11月13日死去。62歳。静岡県出身。東京外国語学校(現東京外大)卒。【格言など】痛みはその生に固有なものである 死がその生に固有なものであるように(「北条」)
ぼくが、いいたいのは、この元夫婦に起ったような運命のいたずらというか、神の「思し召し」というか、戦争に駆り出された兵隊のだれにも、そのような悲劇や喜劇、つまりは人生の不思議が生じていると考えると、この映画は、別の一面を持っていると言いたくなるのです。ぼくは「戦争映画」なるものを好まない。あるいは「戦争ドキュメント」も好きになれない。そこに描かれているのは、一方の当事者の視点だったり、歴史観だったりするのがすべてといっていいほどだからです。つい先日にも触れた「僕の村は戦場だった」でもいえることです。戦争の非人間性を描くのに、大量殺りく兵器を使う必然性も必要もないのではないでしょうか。「ひまわり」という映画は、デ・シーカ監督作品のものでは評価は高くないのは当然ですね。ただ劇中に流れる「主題歌」は、いいものでした。

例によって、この駄文には結論はありません。「戦争」や「大震災」などの大事件や大災害から時間が経つにつれて、事件の内容や事実の意味合いが変わってくる、いや変えられてくるということをしみじみ感じさせられています。3・11後の復興がどの程度進んだのか、全体が見通せませんから、確かなことは言えませんが、これが五十年も百年も過ぎたならどうなっているのか、それをしきりに考えるのです。「ひまわり」公開はは、戦後二十五年です。もうすでに「歴史事実の風化」は避けられなかった。その証拠に「ひまわり」があると言えば、映画ファンには石を投げつけられるでしょうね。今も地球上のあちらこちらで行われている「戦争」は、言葉で言い表せない運命によって、人々の生活そのものを翻弄しているということ、それは敵も味方も含めて、戦争に参加させられている無数の人々の「人生」を狂わせているのです。ぼくたちは、テレビやネットを通して、お茶を飲みながら、あるいは会食しながら、被弾したり殺戮される映像を見ているとするなら、それは自らに許してはいけない「退廃」であり「「堕落」であると、ぼくは受け止めているのです。それに、あらためて気づかせてもらったという点では「ひまわり」鑑賞も、ぼくには意味があったというべきです。(映画を記憶するということは、ぼくには本当に困難なことです)
映画の中で主人公は、自分の命を救ってくれた、現地の女性と結婚したことを、元の妻に詰(なじ)られて、弁解する。「戦争は残酷だ。私は死んだ。そして別の人間になった」と。そう言いながら、自らの行いを正当化しようとします。それが本当であるとは信じられないのは、彼はイタリア人だからか。これはイタリア人への偏見になるのかどうか。そうまで言っていながら、互いに、つれあいや子ども(家族)がありながら、「このままどこか遠くへ行こう」と永六輔さんみたいなことを言う。このあたりの演技は「抜群」だったね、マストロヤンニさん。喜劇ですね。戦争は喜劇ではない、悲劇中の悲劇だけれども、それを後から振り返れば、「喜劇にしたい」「笑い話で済ませたい」そんな人が腐るほどいるんじゃないでしょうか、この島にだって。
戦争は認めるわけにはいかない、しかしその「戦争を始めた奴」は断じて許せない、そんなことを「ひまわり」の音楽(ヘンリー・マンシーニのピアノ演奏)を聴きながら、しきりに想っていました。もし「思い出」というものが「歴史」になるなら、ずいぶんと手前勝手な、独善的な「歴史」が幅を利かせるのでしょうね。過去の栄光を祭り上げ、、過去の過ちを消去してしまう、こんな歴史があってたまるかという怒りのようなものも、ぼくにはあります。
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