人々が社会に対する抵抗の文化を持っていません

 ロシア市民に「真実を」と声明 ベラルーシのノーベル賞作家ら【ロンドン共同】ベラルーシのノーベル文学賞作家スベトラーナ・アレクシエービッチさんやロシアの作家ら17人が7日までに、ロシアのウクライナ侵攻を批判する声明を連名で出し、ロシア語を話す人々に向け「(ロシアの市民に)真実を伝えて」と訴えた。英紙ガーディアンが報じた。/ 声明は「ロシアの国営メディアはうそを繰り返し、ロシア人は何年もうそを吹き込まれてきた」と指摘。ウクライナ市民が殺害されている現状を携帯電話、電子メールなどあらゆる手段を使ってロシアの市民に伝えるよう呼び掛けた。/ アレクシエービッチさんは2015年にノーベル文学賞を受賞した。2022年3月7日 05時36分 (共同通信)(ヘッダーは朝日新聞の記事・2916年4月15日付)

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 彼女のどの仕事(作品)も、実に重量感のある、内容の重さに見合った記録方法であります。彼女の職業を作家と呼ぼうがジャーナリストを呼ぼうが、その程度の「肩書」では表現しきれない存在だと、ぼくは深い敬意をもって後を追いかけてきました。何度も何度彼女の本を読み返し、そこに苦しむ人々の「肉声」が聞こえてくるまで、彼女の記録は掘り下げられながら書かれて来たことがわかりました。ぼくは「チェルノブイリの祈り」だけでも何度読んだか。この記録は、文字通り「苦悩している人間たちの記録」でした。2015年にノーベル文学書を受賞されたと聞いた時も、取り立てての感想はわかなかった。ぼくが受けた印象を言えば、彼女の仕事に比して、ノベル文学賞の「価値」は、まるで風に吹かれる風船のような軽さしか感じられなかった。それはともかく、彼女がこれまでに遂げてきた仕事は、それだけでも、「権力者」には目障り以上の「消したい存在」だったに違いありません。彼女はウクライナ生まれで、つい最近までベラルーシで暮らしていました。そのベラルーシでは、プーチンの盟友であり、権力掌握二十数年のルカシェンコの「独裁」が「最後の輝き」を見せていますです。プーチンに引けを取らない、嘘と毒殺と自作自演の大立者です。その大統領によって、彼女は一昨年秋、国外退去を余儀なくされました。今は、おそらくドイツに住んでおられると思います。

 そのスヴェトラーナさんたちは 「ロシアの国営メディアはうそを繰り返し、ロシア人は何年もうそを吹き込まれてきた」というメッセージを発信しました。国営放送は「事実を報道しない」のは、顕著な独裁国家ばかりとは限らないというのか、国営放送のある国ではすべて「嘘を繰り返す」ということなのでしょうか。おそらくそうなんでしょうね。この島にも(国営というか)「準国営放送」らしきものがあります。ぼくはまったく見ませんが、恐らく、予算から人事から放送内容に至るまで、当局からの「チェック」を受けている形跡があります。多くの民間放送でも、今や「チェック体制」に編入されていないとは言えなさそうです。だから、「お笑い(愚劣)番組」ばかり」が垂れ流されているんですね。この島は、経済システムも含めて、国家社会主義なんでしょう。

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◎ スヴェトラーナ ・アレクシエーヴィッチ(Svetlana Aleksandrovna Aleksievich)=職業・肩書作家,ジャーナリスト
 国籍ベラルーシ 生年月日1948年5月31日 出生地ソ連ウクライナ共和国イバノ・フランコフスク州(ウクライナ)
学歴ミンスク大学ジャーナリズム科卒 受賞ノーベル文学賞〔2015年〕,ライプツィヒ国際ドキュメンタリー映画祭銀の鳩賞〔1983年〕,クルト・トゥホルスキー賞〔1996年〕,アンドレイ・シニャフスキー賞〔1997年〕,エーリッヒ・マリア・レマルク平和賞〔2001年〕 経歴:ベラルーシ人の父親とウクライナ人の母親を持ち、ベラルーシ・ミンスクで育つ。大学でジャーナリズムを専攻し、1970年代初めは地方紙のジャーナリストとして活動。その後、戦争やチェルノブイリ原発事故(’86年)などの大惨事に見舞われた、歴史に名を残さないような人々の生々しい証言を集めたルポルタージュに取り組み、聞き書きの手法を確立。’83年ライプツィヒ国際ドキュメンタリー映画祭で銀の鳩賞を受賞。第二次大戦の従軍女性たちの証言を掘り起こした「戦争は女の顔をしていない」(’84年)はベストセラーとなり、映像化もされた。「アフガン帰還兵の証言」(’91年)は政府批判ともとれる内容で、出版当初、共産党や軍関係者から強い抗議を受けた。チェルノブイリ原発事故やアフガン戦争を、歴史的なものではなく人々との内面の歴史と捉え、その苦しみを代弁した作品が評価され、2015年ノーベル文学賞を受けた。他の作品に「ボタン穴から見た戦争」(1985年)、「に魅入られた人びと」(’93年)、「チェルノブイリの祈り」(’97年)などがある。(現代外国人名録2016)

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 【談話室】▼▽ベラルーシの作家スベトラーナ・アレクシエービッチさんは「小さき人々」の取材を重ねてきた。旧ソ連を歩き市井の人々の証言を記録。そこから第2次大戦やチェルノブイリ原発事故の悲劇を浮かび上がらせてきた。▼▽彼女の記録文学は「苦しみと勇気の記念碑」と評価され、2015年にノーベル文学賞を受けた。受賞記念講演ではロシアの体制について触れている。「1990年代に訪れた希望の時代は、恐怖の時代に取って代わられ、時が逆行してしまった。『使い古し』の時代へと」▼▽そして今、かの国の言論の自由は風前の灯火(ともしび)となり、共産主義時代に引き戻されたかのようである。ウクライナへの侵攻を続けるロシアが国内の統制を強めている。軍に関する「偽情報」を拡散すれば最長15年の懲役刑となる。欧米メディアもやむなく取材活動を停止した。▼▽異論封殺の動きに、アレクシエービッチさんら著名な作家17人が反対する声明を出した。電子メールなどあらゆる手段を使い、ウクライナの惨状をロシア国民に伝えてほしいと呼び掛ける。断片的であっても侵攻の事実が正しく伝われば小さき人々の目は曇らぬはずである。(山形新聞・2022/03/09付)

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The 2015 Nobel literature laureate Svetlana Alexievich speaks during a meeting at the 29th International Book Fair or FILBO in Bogota, Colombia, April 21, 2016. REUTERS/John Vizcaino

 「日本には抵抗の文化がない」 福島訪問したノーベル賞作家が指摘 2015年にノーベル文学賞をj受賞したスベトラーナ・アレクシエービッチさん(68)が11月28日、東京外国語大学(府中市)で講演した。26〜27日に福島第一原発の事故の被災地である福島県を視察した際に、被災者から国の責任を追及する声が少ないとして「日本社会に抵抗という文化がない」と感じたと話した。時事ドットコムなどが報じた。/ アレクシエービッチさんは、チェルノブイリ原発事故で被害を受けた人々の証言を集めたノンフィクション作品「チェルノブイリの祈り」などで知られている。28日には「著作が人類の未来に貢献した」として、東京外国語大学から名誉博士号を授与された。/ 23日の来日後、福島県を訪れて原発事故の被災地を視察し、事故で住居を追われた人々の話を聞いた。11月29日付けの東京新聞によると、今回の講演では福島の原発事故について「チェルノブイリと同じく、国は人の命に全責任を負わない」と指摘した上で、次のように話した。/ 「福島で目にしたのは、日本社会に人々が団結する形での『抵抗』という文化がないことです。祖母を亡くし、国を提訴した女性はその例外です。同じ訴えが何千件もあれば、人々に対する国の態度も変わったかもしれません。全体主義の長い文化があったわが国(旧ソ連)でも、人々が社会に対する抵抗の文化を持っていません。日本ではなぜなのでしょうか」(The Huffington Post・2016年11月29日)

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 「福島で目にしたのは、日本社会に人々が団結する形での『抵抗』という文化がないことです」「全体主義の長い文化があったわが国(旧ソ連)でも、人々が社会に対する抵抗の文化を持っていません。日本ではなぜなのでしょうか」

 このような問いは、講演の聴衆である、主として大学生に向けられたものでしょうが、実は、学生を通してぼくたちにも投げかけられたのでした。ぼくはこの講演を直後に聞きましたので、なおさら「問われたもの」という意識で、この問題を受け止めました。ぼく自身も、いつだって「無抵抗の文化」に異を唱えてきた人間ですが、それは真に中途半端だった。日本語に「半信半疑」というj未熟成語があります。半分信じて、残りの半分は疑っていると。そんなことはありえないことだというのに、この言葉を使うんですね。このいい加減さが、この社会の、日々の種々(くさぐさ)は「他人事」だから(いわゆる「民事不介入」、という意識を増長させてきたのではないでしょうか。逆からみれば、自分主義であり、せいぜいがマイホーム主義という程度で、他人にはかかわりたくないという、勝手な態度がおそらく染みついてきたのでしょう。もっと言うなら、いくらじたばたしたって「日はまた昇る」という楽天主義だったかもしれない。親方日の丸か長いものに巻かれろか、どっちだって行けよ、自分には関係ないから、さ。

 「抵抗の文化」、そんなものがあったのかといわれそうですが、個別の問題としてはいくらでもあったと言えます。煩わしいので一々は取り上げませんが、「利害が身に及ぶ範囲」での抵抗でしたから、ある人には利害が絡んでも、他の人(たいていは、圧倒的多数です)は傍観か無関心であるのがほとんどではなかったか。いつかは「害が及ぶ」という自覚というか、理解がなさそうなんですね。「秋深き隣は何をする人ぞ」、と詠んで、芭蕉は二週間ほどして亡くなりました。この時、元禄七年九月二十八日、芭蕉は五十一歳でした。大阪の知人宅で病に臥せっていた。それは「死の床」でもありました。芝柏(しはく)という俳人が主催した俳句会に出る予定でしたが、そこに出られず、気にしながら床に横になっていたのでした。違った意味で、彼らはどうしているか、気になって仕方がなかった。もちろん、芭蕉には身を賭して対峙しなければならない「敵」はいなかったでしょうから、気になる隣人ではあっても、およそ「抵抗」とは関係ありませんが。

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