「ラスコーリニコフ」は死んでいなかった

◎ 罪と罰(つみとばつ)реступление и наказание/Prestuplenie i nakazanie=ロシア作家ドストエフスキー長編小説。1866年『ロシア報知』誌に発表。世界文学の最高傑作の一つ。近代都市の様相を帯び、作中に登場する小官吏マルメラードフのいうような「どこへも行き場のない」人々にあふれるペテルブルグの裏町が舞台である。/ 貧乏学生ラスコーリニコフは病的な思索のなかで、ナポレオン的な選ばれた強者は人類のために社会の道徳律を踏み越える権利をもつとの結論に達し、「しらみ」のような金貸し老婆を殺すことでこの思想を実践に移す。だがこの行為は、思いがけず罪の意識におびえ「人類との断絶感」に苦しむ惨めな自分を発見させる。敏腕の予審判事ポルフィリーの嫌疑には論理的に立ち向かいながらも、罪の重荷に耐えきれなくなった彼の心情は、自己犠牲と苦悩に徹して生きる「聖なる娼婦(しょうふ)」ソーニャを罪の告白の相手に選び、また情欲を絶対化する背徳者スビドリガイロフの謎(なぞ)めいた生と死に自己の理論の醜悪な投影をみて、ついに自首を決意し、シベリアに送られる。/ 作者はキリスト教的信仰の立場から西欧合理主義、革命思想を断罪しようとしたかにみえるが、作品はそうした意図を超えて、時代の閉塞(へいそく)状況のなかでくすぶる人間回復への願望を訴えるヒューマニズムの書となっており、また「魂のリアリズム」とよばれるこの作家独自の方法は、犯罪を媒介にこの小説を人間存在の根本への問いかけとした。/ 全編が精密なからくり装置にも例えられる構造をもち、神話、フォークロア、古今の文学が文体を通して一つの作品に反映されるみごとさは、この作品を近代小説形式の最高の達成ともしている。(ニッポニカ)

◎ ドストエフスキー Dostoevskii, Fëdor Mikhailovich [生]1821.11.11. モスクワ []1881.2.9. ペテルブルグ=ロシアの作家。 16歳でペテルブルグの工兵学校に入り,卒業後陸軍中尉として工兵局に勤務したが1年足らずで退職。 1845年処女作『貧しき人々』を完成,作家的地位を確立した。 49年,空想的社会主義者のサークル,ペトラシェフスキー・グループに参加したかどで死刑の宣告を受け,処刑直前に減刑されてシベリアに流刑。 59年ペテルブルグに帰還。 61年,兄ミハイルとともに『時代』誌を創刊。長編『虐げられし人々』 Unizhennye i oskorblënnye (1861) と『死の家の記録』 Zapiski iz mërtvogo doma (61~62) を連載し,文壇に復帰。その後『時代』誌の発禁後に刊行された『世紀』誌に『地下室の手記』 Zapiski iz podpol’ya (64) を発表,以後の作品の方向を決定した。代表作『罪と罰』『悪霊 (あくりょう) 』『未成年』『カラマーゾフの兄弟』など。ほかに文集『作家の日記』がある。(ブリタニカ国際大百科事典)

◎ プーチン(ぷーちん)Владимир Владимирович Путин/Vladimir Vladimirovich Putin(1952― )=ロシアの政治家。レニングラード(現サンクト・ぺテルブルグ)市生まれ。レニングラード大学(現サンクト・ぺテルブルグ大学)卒業後の1975年に旧ソ連国家保安委員会(KGB)入りし、冷戦時代の5年間を旧東ドイツで諜報活動に従事した。1991年のソ連崩壊後は、サンクト・ぺテルブルグ市副市長などを経て、1996年からロシア連邦大統領府に勤務。実務家として辣腕(らつわん)をふるい「影の枢機卿」と異名をとる。1998年に連邦保安長官となり、1999年8月首相に就任すると、「テロリストの殲滅(せんめつ)」と「強いロシア」を唱えて、チェチェン共和国への軍事介入を指導し国内の支持を得た。同年12月、引退するエリツィン大統領から大統領代行に任命され、2000年3月の大統領選挙に当選、5月第2代ロシア連邦大統領に就任した。一貫して「強い国家」の建設を政策目標に掲げる。行政機構改革として連邦全土に七つの連邦管区を設置(チェチェンは直轄統治)して中央集権化を推進する一方、積極的に外国を歴訪し、CIS(独立国家共同体)諸国をはじめ、ヨーロッパ、アメリカ、中国、北朝鮮、中近東などと活発な首脳外交を展開する。2004年再選。大統領として2000年(平成12)に二度、さらに2005年と2009年にも訪日。2008年5月大統領2期目の任期を満了し、与党「統一ロシア」党首、首相に就任。さらに2012年3月の大統領選挙に立候補し当選した(就任は5月)。趣味は少年時代から始めた柔道。(ニッポニカ)

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 いまどき、どのようにして「罪と罰」は読まれているのでしょうか。あるいはあまり読まれなくなっているのでしょうか。ぼくが大学に入ったころは、「罪と罰」でもちきりだったというのは大げさですが、先を争って読んだものだし、読んだところを誰彼に披瀝したくて、毎日のように友だちの家や下宿先におしかけ、夜を徹して話し込んだものです。もう六十年近く前になります。誰かが「ソーニャ」に愛と希望を託したかと思えば、「ラスコーリニコフ」の面妖な思想ともいえないものにはまって、精魂を傾けて、自らを彼に擬するようなものもいました。そのような友人の過半は早くに亡くなったりしました。プーチンがエリツィンの後継に任じられた段階では、彼の正体はほとんど知られていませんでしたが、その後、一気呵成に権力の頂点に上り詰める姿を見ていて、ぼくはしばしば「現代のラスコーリニコフ」を想像したりしていました。彼がどのような環境で育ったか、まったくわからなかったが、ともかく「権力の階段」を上り詰める、その姿勢には細心の注意が払われていると思えたほどでした。さすがにKGBの中核にいた人でした。(今でも、彼の最側近は「KGB」によって構成されているとされます)彼が本領を発揮し、名実ともに「首領」になった時、つまりは2000年3月に大統領になったときでしたが、彼は明らかに政治姿勢が変わったように、ぼくには見えた。「敵は殺せ」、「敵はいない」、この身勝手な原則を貫く男として、そこに立っていた。

(ドストエフスキー生誕200年を期に改装したモスクワのドストエフスキー博物館をオルガ・リュビモワ文化相の案内で視察するプーチン大統領 2021年11月11日 Mikhail Metzel/TASS via Reuters Connect)(https://www.nippon.com/ja/japan-topics/g02019/)

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 簡単にいえば、大露西亜の栄光を取り戻すのは、自分しかいないという確信(盲信)であり、その確信(盲信)に基づいた政治手法でした。「強いロシア」は、まさに「強いプーチン」の象徴だった。そこまで彼の「無敵」「無比の存在」観(感)は肥大していたのでした。彼が、というよりロシアの若い人がドストエフスキーを今でも読むのかどうか、ぼくにはわかりませんが、プーチンはきっと読んだでしょう、殊に「罪と罰」は。彼は独ソ戦で、軍人だった父親と、二人の兄を失っています。母親一人で育てられ、青年期は苦学した。身体的な面で劣等感を抱いていたのか、彼は、いまでいう「いじめ」にもあっていました。そのために、いろいろと格闘技を始めようとしたが、柔道に適性を認めて、それに執着した。彼のスタイルは「復讐型」だと、誰が言ったわけでもありませんが、やり返す武器として柔道にはまったともいえます。「私はプーチンさんとは昵懇の仲」などと言っていた、チャラい日本人が、たくさんいましたが、今となれば、友だちでも何でもなかったと、彼との「深い交流」を否定し出しています。JOC会長だったり、元総理大臣だったりは、手もなくプーチンに捻られたも同然だったというほかありません。「北方領土返還」は目前であり、自らの首相在任中に、必ず実現すると、プーチンに手玉に取られたのも気がつかないで恥をかいた元総理も何人かいました。この輩は「売国奴(a traitor)」というべきです。

 要するに、プーチンはあらゆる手段を尽くして権力を手中にし、いったん手に入れたが最後、まずそれを手放すことはあり得ないと自らに誓っていたことが、今回の「国家ぐるみ」の暴力行使のうちに見て取れます。赤子を殺そうが、政敵を毒殺しようが、外交を自らの権力強化の手段に使おうが、あるいは国家そのものを火中に放り込もうが、彼は痛痒すらも感じないだけの、「鉄面皮」になっていたともいえます。彼には、政治思想などという面倒なオタメゴカシや方便は無用だった、ひたすら「暴力」によって「敵を打倒する」「力を誇示する」、それはもはや思想などとは呼べないのです。おそらく、今回の侵略は、当初は数日で、クリミア侵略と同じように、版図を広げられると読んでいたし、その通りを実施しようとした。しかし何かの見落としや計算違いが生じ、今は「冷静であり得ない」状態だと、いくつかの論評が明かしています。現代のラスコーリニコフらしく、すべてを「道連れ」にするのか、あるいはドストエフスキーの書いた「ラスコーリニコフ」のように、「正義」「人道」の軍門に下るのでしょうか。それはあり得ないことだという判断がぼくにはあります。だからこそ、一刻も早く、彼を確保すべく「包囲網」を張り巡らす時期でしょう。「オルガルヒ」の一人は、彼に懸賞金をかけた、生死は問わず、一千万ドルで、とニュースがありました。真偽は定かではないでしょうが。

 プーチンの親は誰であったのか、その親に似ない子は「鬼子」と言われてきました。あるいは稀にみる「魔性」の権力政治の開陳であり、それは、これまでの誰よりも「凶暴さ」を内在させている政治格闘家ではあります。

 何十年ぶりかで、「罪と罰」思い出しています。あるいはドストエフスキーという作家も。

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文豪ドストエフスキー生誕200年 プーチン氏、博物館視察―ロシア

11日、モスクワにあるドストエフスキーの博物館を視察したロシアのプーチン大統領(EPA時事)

 【モスクワ時事】「罪と罰」や「カラマーゾフの兄弟」などの重厚な作品で知られる19世紀のロシアの文豪ドストエフスキー(1821~81年)の生誕から11日で200年となり、プーチン大統領は記念事業の一環として改装されたモスクワにあるドストエフスキーの博物館を視察した。/ プーチン氏は2016年、ドストエフスキーの「祖国と世界の文化への顕著な貢献」を踏まえ、生誕200年を国家レベルで祝うよう指示する大統領令に署名。11日はモスクワや作品の舞台となったサンクトペテルブルクで記念行事が催されたほか、国営テレビが文豪に関する特集番組を放映した。(時事通信・2021/11/12)

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 【斜面】プーチン政権の罪と罰 ドストエフスキーの長編小説「罪と罰」は帝政ロシア時代の1866年に連載された。主人公の青年は欲深い金貸しを計画的に殺害し、出くわした女性も殺してしまう。犯行を疑う予審判事に青年が独善的な思想を披露する場面がある◆世の中には「生産の材料」でしかない凡人と、新しい何かが言える非凡人がいて、非凡人は必要なら人を殺す権利がある―と。おぞましい選民意識である。一方で、神を信じているとも言った。矛盾に満ちて弱い彼はやがて自首して罰を受け、流刑地へ◆自首を勧めた判事が言った。思考の方向が違えば「一億倍も醜悪なことをやらかしていたかもしれない」=亀山郁夫訳。プーチン大統領が始めた戦争で青年や判事の言葉を思い出した。当然の権利のようにウクライナに侵攻し、増える市民の犠牲に何の痛痒(つうよう)も感じていないのか―◆手当てもむなしく幼子が絶命する様子が7日付1面で報じられている。「この光景をプーチンに見せろ」。突き刺さるような慟哭(どうこく)だ。軍に囲まれた街では水も電気も止まった。ロシアの武力は旧ソ連時代から、域内の市民に向けられることが少なくない◆国を統べるのは少数のエリートであり、逆らう者は国民ではなく、同胞でもなく、命を顧みる必要もない…。染み付いた権威主義の冷酷さが見える。人道上許されない暴力をどうやって止めればいいのか。プーチン政権が罪と向き合うだけの罰を加え、戦場にされた国の民を守るしかない。(信濃毎日新聞・2022/03/08)

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投稿者:

dogen3

 語るに足る「自分」があるとは思わない。この駄文集積を読んでくだされば、「その程度の人間」なのだと了解されるでしょう。ないものをあるとは言わない、あるものはないとは言わない(つもり)。「正味」「正体」は偽れないという確信は、自分に対しても他人に対しても持ってきたと思う。「あんな人」「こんな人」と思って、外れたことがあまりないと言っておきます。その根拠は、人間というのは賢くもあり愚かでもあるという「度合い」の存在ですから。愚かだけ、賢明だけ、そんな「人品」、これまでどこにもいなかったし、今だっていないと経験から学んできた。どなたにしても、その差は「大同小異」「五十歩百歩」だという直観がありますね、ぼくには。立派な人というのは「困っている人を見過ごしにできない」、そんな惻隠の情に動かされる人ではないですか。この歳になっても、そんな人間に、なりたくて仕方がないのです。本当に憧れますね。(2023/02/03)