<あのころ>「山びこ学校」刊行 無着成恭氏指導の文集 1951(昭和26)年3月5日、無着成恭編「山びこ学校」が出版され反響を呼んだ。山形県・山元中学校の生徒43人が貧村に生きる家族を克明に記録した「生活つづり方」文集。戦後民主主義教育の典型と評価されベストセラーに。映画にもなったが、地元の恥をさらしたと批判され無着氏は村を去った。(共同通信・2022/3/5)
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「やまびこ学校」が出版されてから、すでに七十年が過ぎました。これまでにもいろいろと批判の的になってきたともいえますが、今からみて、いったい「やまびこ学校」とは何だったのだろうという視点が必要になってくるともいえます。ぼくは、「教師の真似事」を始める前から、この実践記録は知っていました。単純に、いいとか悪いとかいうことができない問題を含んでいるという感想を抱いていました。戦後の「劣島総貧乏」時代、それも山形県の山中の寒村での教育実践、しかも、それが師範学校を出たばかりの若い教師によって達成されたというので、多くの関心を集めたことは事実でしょう。新制中学校(「九年間の義務教育」が実現したのです)という「初めての現場」で、破天荒ともいえる教室運営を行い、これまでに見ることのできなかった「新しい教育」がそこに花開いたというような、もろ手を挙げて受け入れる風潮があったと、ぼくは考えています。一青年教師は、大げさではなく「時代の寵児」となってしまったのです。
さらに言えば、教育・実践というのは、一人の教師と子どもたちの交わりの中で生じる、両者の共同作業であり、それは一面では「たった一回きりの出来事」でもあるのです。新米教師が三年かけて作り上げた子どもたちとの共同作業、それが「やまびこ学校」でした。その文集の中には、たしかに貧しい家の事情が赤裸々に描かれていた。それに対する強い批判があったの当然でした。しかし、それを超えて、この無着さんの仕事が評価されたのは「民主主義と教育」という積年の課題に対する一つの、疑いようのない解答であったという、多くの関係者の賛同が、思わない反響を呼んだということもできそうです。
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◎ 無着成恭【むちゃくせいきょう】=教育家,僧侶。山形県生れ。山形師範学校,駒沢大学仏教学部卒業。1948年山形県山元村立山元中学校教師となり,生徒の生活記録文を編集した《山びこ学校》を1951年に刊行し,生活綴方の再興と評された。1956年私立明星学園勤務,1970年《続・山びこ学校》を刊行した。1983年千葉県の曹洞宗福泉寺住職。〈新教育〉に基づく社会科学習の非現実性を批判するなど独特な教育評論でも知られ,著書に《無着成恭の詩の授業》(1982年),《無着成恭の昭和教育論》(1989年)などがある。1927年生まれ。(マイペディア)
◎ 山びこ学校(やまびこがっこう)=中学生の生活記録集。無着成恭(むちゃくせいきょう)編。1951年(昭和26)青銅社刊(1956年『新版・定本山びこ学校』百合出版刊)。山形県山元村(現上山(かみのやま)市)山元中学校の学級文集『きかんしゃ』の作品を中心に編まれた実践記録文集で、学級全員43名の散文、詩、日記、版画などが収められている。日教組文集コンクールで文部大臣賞を受賞した江口江一の作文『母の死とその後』などが代表的。貧しい山村の実生活のなかで、子供たちが感じる疑問を率直に取り上げ、学級で話し合い、ときにはデータを調べて書いたもので、担任の無着成恭は「あとがき」で「私は社会科で求めているようなほんものの生活態度を発見させる一つの手がかりを綴方(つづりかた)に求めた」「貧乏を運命とあきらめる道徳にガンと反抗して、貧乏を乗り超えて行く道徳へと移りつつある勢いに圧倒され」たと述べている。綴方を書くことによって自分たちの貧しい生活や現実社会に対する鋭い洞察力と論理的な思考力を養い、豊かな村づくりを目ざして率直に自分の考えを述べ合う子供たちを育て上げたところに、綴方教育を超えた人間教育があったと評価され大きな反響をよんだ。生徒の一人佐藤藤三郎(とうざぶろう)(1935― )は農業問題評論家、地域のリーダーとして活躍。(ニッポニカ)
◎ 山びこ学校=1952年公開の日本映画。監督:今井正、脚本:八木保太郎、撮影:伊藤武夫。出演:木村功、岡田英次、金子信雄、和澤昌次、河崎保、西村晃、杉葉子ほか。教育者、無着成恭による中学校の学級文集『山びこ学校』を題材とするヒューマンドラマ。(デジタル大辞泉プラス)





上の記事によると、「地元の恥をさらしたと批判され無着氏は村を去った」ということになっていますが、その要素はあったことは間違いないでしょうが、それ以上に、無着という青年教師は、山中の学校は自分の活動の場ではない、あるいは世界が狭すぎると考えて、思い切り羽ばたきたくなったのではなかったか。そんなに単純な話ではないことはわかった上で、田舎にとどまることができない情念が無着さんの心中に生じていたのでしょう。当時の生徒たちの何人かが、異口同音に「先生は、俺たちを捨てた」というような発言を残しています。これと同じようなことが、ずいぶんと後になって、関西のある地域の小学校教師についても起こったと、ぼくはみています。
これもどこかで触れましたが、灰谷健次郎さんは苦労されて教師になった。神戸だったかの小学校教師になり、優れた実践を記されました。ぼくも彼からはいろいろと教えられた。時期的に、鹿島和夫さんと重なっていました。子どもたちも心を開き、灰谷さんに、安心して寄りかかっていた、そんなときに、彼はいくつかの理由をあげて「教師を辞めた」のです。その時、一人の子どもが「先生、何すんねん」といった。子どもを二階に挙げておいて「はしご」を外したんやな、そう言いたかったのでしょう。灰谷さんには積年の願望があった、それは作家になること。それを果たしたおかげで、ぼくたちは彼の残した多くの作品を読むことができました。
では、無着さんの年来の宿願は? これについて、ぼくがとやかく言うことではありません。その後の彼の描いた「軌道」を丁寧に眺めれば、あるいは見えてくるかもしれません。ただ、灰谷さんについても、無着さんについても、同じような教育実践に対する思いがあったように、ぼくには想像されます。わかりやすく言えば、骨身を削るような仕事、同じことは二度と不可能」、そんな教育に対する深い感慨があったのではないでしょうか。

「やまびこ学校」という教育、子どもと教師の共同作業は、たった一回限りの、あの時期の、あの学校でしか生まれるものではないことを、当たり前ですが、無着さんは知っておられた。だから「逃げた」のか、「村を追い出された」のか、それは受け取る側の判断によります。ある意味では逃げたのであり、一面では「村におられなくなった」ともいえますが、さらに言うと、彼はもっと広い世界、それが東京であったのは偶然だったかどうか、つまりは「新天地」を求めたのです。山元村という狭い村の教育に渾身の力をふるって、無着さんは思いのほか、素晴らしい実践ができた。彼は村の「土俵(教育の現場)」が褪せまいとみなし、もっと広い土俵で勝負を懸けたかったのでしょう。ぼくに言わせれば、どこであろうと「土俵の広さ」=教育の難しさは変わらないものであることを、まさか失念していたのではなかったと思います。しかし、無着先生は故郷を後にして、再び戻ろうとはしなかった。
その後の彼の仕事に、ぼくは長く関心を持ってみてきました。しかし、彼の中にあった「夢よもう一度」は生み出されなかったのです。「夢」とはなにか? 東京という都会における「やまびこ学校」の再現ではなかったか、ぼくはそんな間の抜けた推測をしていました。しかし教育が成り立つ(成り立たない)条件が、あまりにも違いすぎたということではなかったか。ぼくなりに、無着先生の「悪戦苦闘」の姿を見ていました。思うに任せない、周囲の無理解もあったのでしょう。彼は現場を放棄して、別の道を歩き出したのでした。今の時代に、願わしい教育は不可能だという、そんな感想めいた発言が近年の無着さんの口から出ていたように思います。その言辞は、何を意味しているのでしょうか。
子供の心見える 綴方のススメ(略)以前、TBSラジオの「全国こども電話相談室」の回答者をしていましたが、平成に入った頃から子どもたちの質問がつまらなくなった。問題意識を持たない子どもが増えたからでしょう。例えば、家にいてもスイッチを押せばすぐに電気がつくが、なぜそうなるのか大事なところは全部壁の中に隠されている。内部構造を知らなくても、スイッチ一つで自分が望む状況にできる。そうした環境が疑問を持たない子どもを生み出しています。 生活綴方は内部構造を見えるようにする教育です。今の日本の教育は、子どもを機械の部品のように育てるシステムになっている。 私たち坊さんは人間を「じんかん」と読みます。人と人との間、つまり関係が人格を作るんです。でも今は、子どもとさえも関係を築けない親が多い。 ヒトは犬や猫と違い、人格を持つ「人間」になれますが、餓鬼にもなる。犬や猫は欲望が満たされればそれでおしまいですが、ヒトは死んでからも財産を残そうとするなど徹底的に欲求を満たそうとする。金もうけして何が悪いと言った投資家がいましたね。日本の教育は今や餓鬼を大量生産するシステムになっている。餓鬼にならないためには何をすべきか、人間になるにはどうしたらいいのかを考える力をつけるのが綴方なんです。 綴方に取り組む教師が減っているそうですね。教師が忙しくなりすぎているし、個人情報にうるさくなり、子どもに家庭のことを書かせづらくなったのもあるでしょう。「山びこ学校」ができたのもあの時代だったからで、家庭のしんどい部分が全部暴露されている。たまに読み返しますが「オレはここまで書かせたのか」なんて思うこともあります。 でも、心ある教師は綴方をやるべきです。作文を書かせることで、子どもがどんな気持ちで生活し、授業を受けているのか見えてくる。「そんなこと考えてたのか。ごめん、ごめん」と謝りながら作文を読む。子どもの気持ちが見えないと自分の側からしか言葉を発することができない教師になってしまう。 書かせるべきですね、教師は。子どもに作文を。(朝日新聞・2016/04/24)(http://www.asahi.com/area/osaka/articles/MTW20160425280700001.html)
「内部構造を知らなくても、スイッチ一つで自分が望む状況にできる。そうした環境が疑問を持たない子どもを生み出しています」「生活綴方は内部構造を見えるようにする教育です。今の日本の教育は、子どもを機械の部品のように育てるシステムになっている」「日本の教育は今や餓鬼を大量生産するシステムになっている。餓鬼にならないためには何をすべきか、人間になるにはどうしたらいいのかを考える力をつけるのが綴方なんです」「心ある教師は綴方をやるべきです。作文を書かせることで、子どもがどんな気持ちで生活し、授業を受けているのか見えてくる」
無着さんの「片言(かたこと)」「片言隻語(へんげんせきご)」に類する言辞をとらえて、何か批判をしようというのではないのです。無着さん自身が、「やまびこ実践」とは、時代や環境の質的な違いとでも言いたいような変貌を知悉しているからこそ、学校教育や教師にないものねだりをしているのです。まるで、ぼくでもいえそうな「空想的教育実践論」を述べておられるのではないでしょうか。教師たちの苦しみがどこにあるか、時代や環境と、両親を持って闘うには、まったく条件の悪い立場に追い込まれているのです。もちろん、この時代に「やまびこ学校」が無用であるとは言えません。それどころか、汲めども尽きせぬ「泉」のように、暗示は無尽蔵にあると、ぼくは考えています。その「泉」から何をく汲み出すか、それこそが個々の教師、そして教師集団にかかっているのだと言いたい気が、いつだってぼくの中に募っているのです。
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