賽は投げられ、ルビコンを渡ってしまった

 
 【水や空】ルサンチマンの亡霊 ウクライナ侵攻開始をロシア国民に告げるプーチン大統領の目には暗い「ルサンチマン」の炎が燃えているように見えた。ルサンチマンとはフランス語で、弱者が強者に抱く積もり積もった恨みや復讐(ふくしゅう)の感情を意味する▲演説するプーチン氏は憤っていた。北大西洋条約機構(NATO)の拡大はロシアの安全を脅かすと米欧にずっと警告してきたのに「侮辱的、軽蔑的な態度」であしらわれた、と▲ソ連崩壊後に「冷戦の敗者」として扱われてきたとの恨みが、米欧が主導する現在の国際秩序を破壊しようとする蛮行に駆り立てるのか▲まるで100年前を見るようだ。当時は第1次世界大戦の戦勝国がベルサイユ体制と呼ばれる国際秩序を主導し、脇に追いやられた国々の不満が鬱積(うっせき)した。特に敗戦国ドイツは巨額の賠償金にあえぎ、社会不安が増大し、新秩序の確立を叫ぶナチスの台頭を許した▲そうしてナチスが再び大戦を引き起こし、5千万人の命が失われた。勝者と敗者を分かつ世界は恐るべきルサンチマンの温床となる▲ロシアの侵攻は止まる気配がない。今こそ国際社会が一丸となり、武力を用いぬ制裁で暴挙を食い止めねばならない。再び現れたルサンチマンの亡霊を制し、3度目の大戦を回避できるのか。人類の理性と結束が試されている。(潤)(長崎新聞・2022/03/06)

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 トルストイというロシアの作家は「戦争と平和」という大長編小説を書きました。それは「《Viona i mir》。1868年―1869年に6巻構成の単行本として出版。1812年のナポレオン軍によるロシア侵攻を中心にすえ,その前後十数年のロシア社会を,〈戦争〉と〈平和〉の両面から壮大な規模で描きだした歴史大作」(マイペディア)と評されています。また、ベートーベンの交響曲第三番は「英雄」としてよく知られていますが、「ナポレオンに捧げるつもりで書き進めたが,彼の皇帝就任とともに予定を変更し,副題は単にエロイカEroica(英雄)とのみ記入された」(マイペディア)作品です。いずれの作品も、実際に生じた「ナポレオン戦争」を創作の動機として、それぞれの構想を持って書かれたものです。

 「戦争と平和」、あるいは「平和と戦争」というように、二つの状況が並列され、対置されて語られることがほとんどですが、それはまるで異なる「概念」でもな明ければ「観念」でもないと、ぼくはいつも話してきました。当たり前のことですが、「平和の中に戦争が」存在し、「戦争にも平和が」含まれるということを深く考えたいのです。社会集団においても、個人間においても、平和でなければ戦争だ、と言ってみたり、戦争の反対は平和であると言ってみますが、そのようにいうだけのことで、実際には、両者は分かちがたく「絡み合って」存在しているのです。

 健康でなければ病気である、病気の人は健康ではない、そんなことを言いたくなるし、現にそうも言うのですが、現実には健康体にも病的部分はあるのだし、病気の人にも健康な部分はいくらでも認められます。上に、無作為で何枚かの写真を並べましたが、武力侵略をする者、それによって住む場を追われるもの、その「侵略」を熱烈に支持する勢力。「平和の祭典」(というのは、極めて怪しいのですが)といわれる「北京パラリンピック」の場に参加を拒否される選手(特定の国々)がいれば、侵略されたものとして「参加」する選手たちもいる。

 今回の事態に対して、人によって取りうる立場はさまざまです、こうでなければならぬと言うつもりは、ぼくにはない。しかし、こと「殺戮」「無差別殺人」が問題になるとするなら、何をおいても、そのことに断固反対すべきだと言いたいのです。「自分は反米であるから、ロシアの仕掛けた戦争を支持する」というのは、まともな感覚の人間がとる選択ではないでしょう。ぼくは政治というのを、単純に考えている。それは権力行使であり、ある域を超えると間違いなく、「暴力」そのものに化します。このことについては、この駄文収録の中で繰り返し言ってきました。だれがどんな行いをしているか(言っていることではなく)、それだけに基づいて判断することが何よりも大事であり、それをするために、付和雷同するのではなく、自ら「ことの善悪」を知るための学習・考察が求められるのです。「あの人のいうことだから、間違いない」とか、この新聞が書いているから「間違った報道である」というのは、権威主義と、その裏返り、別個の権威主義です。

 今回の「武力侵略」のどこを掘り返してみても、「大義」や「正義」に類する部分はまったくないと、ぼくは判断しています。それ故に、何よりも「武力行使」を止めるべきであるといっても、既に「賽は投げられた」のです。賽を投げた人間を排除するほかないのではないでしょうか。あるいは「ルビコン河を渡った」軍隊(に命令を出した者)を、元に戻す方途は失われたと思うのです。「停戦交渉」あるいは「和平交渉」は成り立っていません。「屈服しなければ、攻撃を止めない」という交渉があるでしょうか。人倫・人道という価値の基準に基づいて、事の理非曲直を決することが求められているのではないでしょうか。

 物事の判断基準には、白か黒か、その二色しかないのではありません。誤解されそうですが、今は「黒」だと判断していたが、それが「白」に変わることはいつだってあります。あるいは黒が間違っていたと気づくこともある。今の瞬間の判断で「正しい」と思っても、やがてそれが「正しくなかった」ことが判明する場合もあるのです。だから、いつの場合でもぼくたちの判断は「さし当たって」「当座」の判断であって、永久に真理であるということは考えられないことです。「過ち」に気が付けば、改めるほかありません。それが人間の最良の行為です。ただし、人命を奪う、自由を抑圧するなどという大義や名分のつかない「暴力」には賛成することはありえない、それは明らかです。主義主張ではなく、人倫(これも、一面では怪しいものですが、さし当たっては、それに依拠するほかないのです)、その「規矩(きく)」(コンパスとさしがね=基準になるもの)に「悖(もと)るかどうか」、それに照らして、その判断に自らの全体重を懸けるべきでしょう。

 余話です ただ今同時進行で、中国で「パラリンピック」が、ウクライナで「侵略戦争」が強行されています。平和(の象徴とされる)と戦争が並走するというのは、いかにもグロテスクです。例えば、「病気と健康」といった時、ぼくたちがなすべきは、病気の部分を可能な限り小さくし、健康体を維持すること、そのための精進(養生)が求められるはずです。戦争と平和という場合には、「戦争」の残忍、悲惨な部分を可能なかぎりで防止。除去する、その反対に平和の状況をできるだけ強固に維持する、そのための政治であり、国際交流ではないでしょうか。この相反する動きが「併存・並走」しているのを見て、顰蹙を買いそうな表現ですが、「重篤な患者のいる病院」の隣で、飲めや歌えの「大祭り」をしている、そんな奇想天外な図が、一瞬の間、脳裏に浮かびました。慌てて、この不謹慎な「もの想い」を打ち消した次第)

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