
◎ 僕の村は戦場だった(ぼくのむらはせんじょうだった)(Ivanovo detstvo)=ソ連映画。 1962年作品。監督アンドレイ・タルコフスキー,脚本ウラジミール・ボゴモロフ (原作も) ,ミハイル・パパワ。イワンという少年の目を通して,戦火に踏みにじられた故郷を描く。タルコフスキーの処女作だが,新鮮な映像感覚によって一躍国際的な注目を浴び,62年のベネチア国際映画祭でサン・マルコ金獅子賞を受賞した。(ブリタニカ国際大百科事典)
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もう六十年も前になりました。旧ソ連時代の映画「僕の村は戦場だった」のことを、この一週間ほどの間しきりに想い出しています。「僕の村」は町になり、都会になって変貌してしまったが、しかし、そこでは侵略者が爆弾やミサイル発射を場所を択ばず、くり返して破壊を拡大しているのです。卑劣であり、卑怯であることをはるかに超えている「蛮行」です。今は六十年前の映画のことに触れることはしません。しかし、ドイツ軍の侵略で、両親と妹を殺された「イワン少年(十二歳)」は、ウクライナの山野や都市部で、時間を追って生みだされているのでしょう。「独ソ戦」時に比べるべくもないほど「野蛮」で「残虐」な殺害を目的として開発された武力・軍備が、あらゆる「いのちそのもの」を破壊しているのです。「僕の村は戦場だった」という映画の内容は、ぼくには難し過ぎて十分に理解が行き届かなかったことを覚えています。内容や描写に関しては、悔しかったけれど、受け入れられなかった(受け入れ損ねた)ことを白状しますが、その「タイトル」だけは、年々歳々強烈な「印象」を育ててきたのです。戦争は、いつでもどこでも、誰かの「村が戦場だった」し、これからもそうなるに違いありません。ここでいう「村」とは故郷であり、安息することのできる場所でもあったでしょう。船なら「港」です。それをミサイルや高射砲などで破壊されることは、とりもなおさず、「ふるさと」を殺すことであり、故郷につながる「いのち」を壊すことなのです。
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【日報抄】ロシアによるウクライナ侵攻が始まって以降、驚かされたのはロシア国内で大規模な反戦デモが起きたことだ。当局の手で鎮圧され、多数が拘束された。それでも弾圧されるリスクがある中で多くの人が声を上げたこと自体、思いがけないことだった▼プーチン大統領は着々と政敵を葬ってきた。政界からは蛮行をいさめる声は聞こえない。侵攻の直前、ウクライナ東部の親ロシア派の独立承認について政権幹部が議論した会議の映像は、強烈な印象を残した▼「いいえ、私は、私は…」。プーチン氏から独立の承認について意見を求められた幹部の一人は口ごもった。「はっきり答えて」と詰問されると、独立を「ロシア編入」と取り違え、プーチン氏から「そんな話はしていない」と苦言を呈された。異論を挟むなど許されないような雰囲気にのまれたのか▼ほかの幹部は独立承認で口をそろえた。プーチン氏がイエスマンに囲まれていることが、あらためて浮き彫りになった。この状況を見るにつけ、ロシア国内で政権批判をすることがいかに勇気のいることか想像できる▼一部のスポーツ選手ら著名人も反戦のメッセージを会員制交流サイト(SNS)に投稿した。今後は当局の締め付けが厳しくなるかもしれない。それでもロシアにも戦火を憂う人が数多くいることは世界を勇気づけた▼プーチン氏の権力基盤はそう簡単には揺らぐまい。だが、その足元には反戦の水脈が間違いなく流れている。闇を照らす小さな一灯だと信じたい。(新潟日報・2022/03/02)
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「戦争」はいつの時代でも、誰かの住んでいる土地を「戦場」にします。時代が下るにつれて、一都市はおろか、一国のすべてを興廃の渦にしなければ止むことのない戦争であるのでしょう。今回の「侵略」で、ぼくは即座にアフガニスタン戦争を想起しました。同時に、ベトナム戦争を改めて思い出しているのです。その根っこには「満州事変」がありました。アフガンとベトナムという他国に土足で入り込み、「正当性のかけら」もない戦争を仕掛け、幾多の犠牲者を出し続けてきた、その当事者の「二つの国家」が、いままた、自らの領土ではない「村」や「町」を戦場にして、一方は「愚劣な殺人行為」「環境破壊行為」を現実に強行ていますし、他方は「陣中勢力を頼んで」「戦争も辞さず」と、自己宣伝にかまびすしいのです。結局のところ、戦争の動機は「権力者」の独占欲であり、支配欲に尽きるのであって、人民の幸福などはみじんも考慮・視野に入れられていないのです。

映画の中で、ロシアの大佐だったかが、なんどかレコードに針を落とす場面がありました。そこで流れてきたのが「マーシャは川を渡れない」というロシア民謡でした。歌っていたのが、なんとシャリアピン(1873-1938)だった。これには言いようのない驚きを抱きました。彼はロシアのバス歌手として最も成功をおさめた、最初期の人でもあった。(余談です。「シャリアピンステーキ」の由来は彼で、1936年に来日して帝国ホテルに滞在、食事時には「歯痛」がひどく、柔らかい肉料理を」と注文したそうです)また「マーシャは川を渡れない」という民謡にも、何か知らの寓意が込められているのでしょう。マーシャという一人の女性が映画に登場していて、小さくない役回りを示していました。
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古い映画のことを想い出しているうちに、兼好さんの文章で気になる「章段」が、おもむろに蘇ってきたのです。他者にはなんでもないことでしょうが、少し立ち止まって考えてみたくなりました。
明日は遠き国へ赴くべしと聞かん人に、心静かに成すべからん業(わざ)をば、人、言ひかけてんや。俄(にわ)かの大事をも営み、切(せつ)に嘆く事も有る人は、他の事を聞き入れず、人の愁へ・喜びをも問はず。問はずとて、「などや」と恨むる人も無し。然(さ)れば、年も漸(やうや)う長(た)け、病にも纏(まつ)はれ、況(いわん)や世をも遁(のが)れたらん人、また、これ同じかるべし。 人間の儀式、いづれの事か、去り難からぬ。世俗の黙(もだ)し難きに従ひて、これを必ずとせば、願ひも多く、身も苦しく、心の暇(いとま)もなく、一生は雑事(ざふじ)の小節(せうせつ)に障(さ)へられて、空しく暮れなん。日、暮れ、道遠し。我が生(しょう)、既に蹉駝(さだ)たり。諸縁を放下(ほうげ)すべき時なり。信をも、守らじ。礼儀をも、思はじ。この心をも得ざらん人は、物狂ひとも言へ、現(うつつ)無し、情(なさけ)無しとも思へ。謗(そし)るとも、苦しまじ。誉(ほ)むとも聞き入れじ。(「徒然草 第百十二段」・文献、既出)
まず上の文章の前段です。明日は遠くへ出かけようとしている人に、なにかと口をきいて、心を静かにしていないとできない話を言いかける人がありますか。突然の大事や嘆き悲しみが深くなっている人は、「他の事を聞き入れず、人の愁へ・喜びをも問はず」そんときに、他人の喜び悲しみに一顧だにしないと言って「などやと恨むる人も無し」なのだ、「なぜあいさつしない」という人はいない。ここまではその通りですが、ぼくが気にかかったのは次の文章です。

「然(さ)れば、年も漸(やうや)う長(た)け、病にも纏(まつ)はれ、況(いわん)や世をも遁(のが)れたらん人、また、これ同じかるべし」年齢を重ね、病気に襲われがちでもある、さらに言えば、「遁世」している人、どっかに引っ込んでいる人も、事情は同じでしょ、と兼好さんは言うのです。ぼくはこれを「明日は遠き国へ赴くべしと聞かん人」、つまりは二度と戻ることのない、長の旅に出ようとしている人間に、と読んでみたくなった。遠くとは、もちろん「西方(浄土)」であり、はっきり言えば、老い先短い人間に何かと世間づきあいを強いるのはどうか、「他人の喜び悲しみにつきあわなくても」「恨むる人も無し」というなら、いかにもありがたいたと、老人としては賛同の意を表したくなります。
後段はさらに切実です。いつまでも世間と付き合っているときりがないではないか。そんなことをしてれば、「一生は雑事(ざふじ)の小節(せうせつ)に障(さ)へられて、空しく暮れなん。日、暮れ、道遠し」と。こまごました、煩いにつきあわされていると、「アッ」という間に日が暮れる、日は暮れても、なお道は遠いのだ、と。兼好さんがこのようにいう真意はどこにあるのか。そこが、ぼくには興味が湧く部分なんですね。彼のいうのは、間もなく人生が暮れようとしている、そんな時期に世間とかかわっていてどうするんですか、「残り少ない日数を胸に」(「高校三年生」の気分です)、何かなすべき大事なことがあるだろう、そのように、あの兼好さんが言いたそうなんですね。

「我が生(しょう)、既に蹉駝(さだ)たり」([唐書、白居易伝]中の文、「日暮道遠、吾生已蹉跎」)この中の「蹉駝(さだ)」とは「つまずいて、進むことができないこと。転じて、不遇で志を遂げられないこと。機会を失うこと。また、そのさま」(精選版日本国語大辞典)とあります。ぼくの好きな言葉の一つで、まさしく、ぼくの拙(つた)ない生き方と、その姿・形としての「人生」(といえるほどのものがあるなら)の有様を明示も暗示もしている言葉だと、ひそかに愛用して来たのです。(左はウクライナ市民義勇軍の訓練)
もう人生も押し詰まっているのに、これまでも散々躓いたり、機会を逃したりして、貧しい生活を過ごしてきた、それだけで十分なのだから、この先ぐらいは、世間とは一切付き合いを断念して、「信をも、守らじ。礼儀をも、思はじ」といこうじゃないか。(そんな自分を見ている)心得のない人間たち(つまりは、世間)よ、「物狂ひとも言へ、現(うつつ)無し、情(なさけ)無しとも思へ。謗(そし)るとも、苦しまじ。誉(ほ)むとも聞き入れじ」と、兼好さんは開き直っているのです。言いたい人は何とでもいえ、毀誉褒貶、「結構毛だらけ猫灰だらけ」、好きに生きてどこが悪い、珍しくも兼好法師殿、そこまで言うのかといいたほど、彼の啖呵は冴えているんです。彼は、この短い「老い先」で「何をも求め」ようとしていたのか、よくは見えない部分ですね。

ここまで来て、ぼくは兼好さんの時代には「ウクライナ侵略」に類する「悪逆非道の暴力行使」はなかったんだ、だから今は事情が違うと言いたくなったのです。舟木一夫さんの歌う「高校三年生」(ほぼ同時期、ぼくの高3のころに流行った)ばりに、「残り少ない日数を胸に」して、世間と没交渉で、己の好き勝手をすべきという兼好さんの忠言もものともせず、「侵略は断じて許さない」「無益な殺生はお止めなさい」とささやかな声を、たった一人であげるのです。非難したい奴は何とでもいえ、「物狂ひとも言へ、現(うつつ)無し、情(なさけ)無しとも思へ。謗(そし)るとも、苦しまじ」と、まさしく、年寄りの「冷や水」ですな、春のうららの、いい陽気に誘われて、さ。(上の「ナージャの村」は本橋誠一さんの監督作品。チェルノブイリ原発事故で「被曝」した「村」、ベラルーシの一農村。ゴメリ州ドゥヂチ村。「原子炉爆発」は人為的災害であり、終わることのない犠牲者を出し通づける。この映画の「静かさ」には、声高には現しようのない「反原発」「反被爆」の断固とした「姿勢(思想)」がありました。1997年公開。ぼくは、これを何回観たことか)
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