だから ぼくはとうだいのこどもです

 【斜面】せんせいあのね「わたしのせんせいはてつぼうを/10かいさせます/せんせいは/いっかいもやりません」。小学1年生の鋭い指摘に担任だった鹿島和夫さんは苦笑しただろう。家で詩を書いて先生に渡す「あのね帳」は子どもが心を開いてゆく窓のよう◆昭和50年代半ばの神戸の小学校。鹿島さんは「あのね帳」の詩を集めて、教室で撮った写真と合わせて「一年一組せんせいあのね」という本にした。当時も子どもたちが背負う事情はさまざま。悲しい話もあるけれど、学級には確かな結び付きが見える◆全国の公立校で今、教員が足りないという。休職者が増えて、補充も難しい。県内は昨年4月時点で5人の不足だ。そもそも教員志望の人が減った。かつて県内で2千人を超えた小中、特別支援学校の志願者は今春採用の試験で1500人を割り、倍率は小学校で3倍を下回った◆保護者からの相談、時に不満や苦情に対応し、長引く会議や教材準備…。指示される作業は増えて、労働時間は長い。心を病み休職する人は全国で5千人も。先生が疲れて子どもの心の窓もよくのぞけない教室から、先生に憧れる子が出てくるだろうか◆「あのね帳」で一人一人を見つめ、教師からの一方通行でない関係が成立した―。鹿島さんは子どもと学び合うことを尊んだ。今春、高校を含め県内で約530人が新たに採用される。初めて教壇に立つ人もいる。「せんせいがんばれ」。あえて教職に進む人たちに敬意とエールを込めて。(信濃毎日新聞・2022/02/03)

 「信毎」は一つの理由で(それだけでは決してないのですが)、とてもよく知られた新聞です。ぼくも、人並みにこの新聞を読むことが多かった。とりわけ信州に縁あがるわけでもなかったが、しばしば登山やスキーに出かけたり、友人や知人が当地の出身だったということもあって、他の地域より、ぼくには親しい土地でした。また、後輩で教職についている人もかなりいました。この「斜面」も何十年も前から読んでいました。ある時期、少し読まないでいるきに「斜面」が紙上から消えていた。その穴埋めではなかったでしょうけれども「考」というコラムが続いていた。ぼくにはなじめなかったのは、長野の現実を知らなかったからかもしれない。そうこうしている内に、最近になって「斜面」が復活した。右の表紙写真は「斜面」担当者だった方の著書です。「生きるって素晴らしい」といえる、いいたい、いおう、そんな「コラム」担当者の意気というか使命感が書かせた本だろうと思います。読んで元気になる、気分が改まる、それが活字を読む理由の上位に来るのではないですか。知識や情報を得るというのは、ぼくには二の次で、やはり書いた人の心や吐息、心意気が感じられるものを読みたいと願っているのです。新聞の「コラム」は、まさしく、その注文にかなう機会の多い読み物です、ぼくにとっては。だから「当たり外れ」は当然あります。

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 さて、久しぶりに鹿島和夫さんの名前を目にしました。ご健在なのかどうか。ある時期まで、この人や、早くに亡くなった灰谷健次郎さんに、ぼくは教育という「畑」、「土」の匂いをかがせてもたったと思っています。教室という畑にはいろいろな種がまかれ、それぞれの時期を得て成長し実をつけ花を咲かせる、それが教師の仕事だったといいたのですが、思いは半ば、花も実もつけないままで、その土地(畑)では枯れてしまった種子もあったでしょう。しかしまた次の畑ではどうなるか、それは誰にもわからないことです。「教育の可能性」ということをしばしばいわれるのですが、それはどんなことを指しているのか。いつだって、育とうとするし、育ちたがっている「種」は、自己生育は困難で、他人の助力を求めるものです。教育の可能性という表現は、本人と教師(他人)との合作の行方を含んだ言い方だったでしょうね。農家の人にとって、育てやすい野菜もあれば、なかなか苦労するが、そのわりにはうまくいかないものもあるでしょう。教師の仕事がそれとそっくりだと言うつもりはありません。しかしよく似ているのは、その種(可能性)にあった地味や土壌の性質を、できるだけ生み出そうとする、整えるところではないですか。この種は「ここには合わん」と植えつけることを捨ててしまってはおしまいです。野菜ならまだしも、それが子どもであれば、…。そんなことを根っ子の方から教えてくれた(ぼくが学んだ)のが鹿島さんや灰谷さんたちの仕事でしたね。

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 「一年一組 せんせいあのね」はどれだけ繰り返し読んだか。その内容は読んで感じ取っていただきたいですね。ぼくはこの本からも学んだし、本の背後にあると想像できた「鹿島和夫」という、生きている書物からもたくさんのことを得たと言えるでしょう。その何ほどを実際の場面で自分の仕事として生かせたかは、実に心もとないのですが、確かに「教育の手ごたえ」を感じ取ったのです。その時期、鹿島さんほぼ同期だった灰谷さんからも同じようなことを得た。彼は年来の志だった、小説家になるために中途で教職を辞したが、生涯「学び続ける」という姿勢を貫こうとしていたと言えるかもしれません。晩年に、ぼくの後輩が沖縄まで彼を訪ねて行った際の話を、しばらく後で聞いたが、文学よりも教育の方が彼の生き方には見合っていたのになあ、そんな感想を持ちました。(それはまた、別の話です)

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 鹿島さん(灰谷さんも)が、相当な貧乏であったことは、教に生活に不可欠な要素を、彼に与えたのではなかったか。軽々には言えませんが、裕福であったり、稼ぐ苦労がいらない人に、教職は向いていないというより、その境遇に見合うような職業ではないと、ぼくは感じてきました。自分から進んで「貧乏」になることは無駄ですが、いつでも、どこかに足りない部分、手に入れられないものを持っていないようでは、教職の大事な部分が見えなくなるような気がするのです。そのことは鹿島さんや灰谷さんたちの仕事ぶりを、あるいは、それ以前の先達(とくに「生活綴方教育」の教師たち)の経験を見ていると、ぼくにはそのように思われてくるのです。それは何か。鹿島さんのように、子どもたちの目線でとか、子どもの位置に立つという無理がいらない、自分の目の届く範囲で子どもたちが存在しているという意味です。子ども目線が何であるか、ぼくにはわかりませんが、子どもが困るのと同じ困難を肌で感じることができる、そんな物心両面の経験があるということです。

(記事は神戸新聞に連載されたもの。2013年1月~2月)

 彼らの時代からみれば、学校や教室は、はるかな場所にまで動いてきたようです。まるで学校という場所から受ける「印象」は様変わりしたと言えます。それは当然のことであり、だれにも、どうしようもない「時の変化」です。時の移り変わりに、無駄な抵抗をすると「時代遅れ」となり「時代錯誤」と非難されます。だから、いつでも時代の要請や要求に歩調を合わせることは必要でしょうが、それを認めたうえで、「子どもの教育」という仕事で何が肝要なのか、それはそう簡単に「時代の変化」に見合ったものでもないと言えます。時代に合わせる「教育」というのは、わかりやすい表現でいえば、それは一種の流行に流されているだけであるともいえるもので、その変化や流行に動かされないもの、表面には見えにくい深部に、いつの時代にも「成長を待つ「素質」というものがあり、それを育てる、あるいはそれを踏みつぶさない、そんな繊細な心配りが、教師には大切なのではないでしょうか。ぼくは鹿島さんから、強く感じ取れるのはそのことでした。「せんせいあのね」と、子どもたちはいつでも教師に語り掛けたのですね。確かこれは鹿島さんの言葉だったようにも記憶しているのです(あるいは別の人も同じようなことを言っていたが)。

 「子どもにとって、いい先生というのは、いつでも子どもが手紙を書きたくなる」、そんな先生なんだと。表現は違っていたが、「一人でいる時、先生はなにをしてるかな」「風呂に入っていると、先生はどうしてるやろ」と、心のどこかに先生が住み着いているというものでした。確かに、そのような気持ちを持つことができる人間というのは、そんなにいないでしょうね。灰谷さんが学校(教師)を辞めると知った時、何人かの子どもたちが「何すんねん、俺たちを放っておくのか」といったそうです。裏切られたと感じたのでしょうか。子どもたちから、そんな言い草が出るのも、一面では教師冥利に附合するともいえますが、やはり貫徹しなかったのはどうしてかという疑問が、ぼくにも残りましね。これはあくまでも個人の判断でしたから、他者がとやかくは言えないことです。

 「今春、高校を含め県内で約530人が新たに採用される。初めて教壇に立つ人もいる。『せんせいがんばれ』。あえて教職に進む人たちに敬意とエールを込めて」とコラム氏。激励を送るというのですね。でもどうなのかな、なんで「せんせいがんばれ」なのか。「あえて教師になる」というからには、なかなか容易ではない職業を選んだというりかいはもっておられます。しかしいったい、何を頑張るのか。挫折しないようにがんばれや、こどもに負けないようにがんばれや、というのか。とにかく、「がんばれ」が多すぎますね。子どもを育てるのに「がんばれ」はないですね。それこそ、ゆっくり歩こう、アンダンテで。(ここでいうことではありませんが、念のために。「せんせい あのね」は子ども(たち)と鹿島さんの共同作業が生み出した作品です)

 「鹿島さんは子どもと学び合うことを尊んだ」というなら、「がんばれ」ではなく、子どもと歩こうよ、そういったら、どうですか。(お節介のようですが、いわずもがなの一言を。思わず飛び出す「がんばれ」が目に余ります)

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 私を永遠にお使いになりたいのかも

(ミャンマー北部カチン州ミッチーナで、警官にデモ参加者を傷つけないよう懇願する修道女のアンローズ・ヌトーンさん。ミッチーナ・ニュースジャーナル提供(2021年3月8日撮影、9日提供)。(c)AFP PHOTO / Myitkyina News Journal)(ヘッダーの写真は「ミャンマー・ヤンゴンでミン・アウン・フライン国軍総司令官の写真を道路上に並べ、軍クーデターに対する抗議デモに参加する医療関係者や学生(2021年3月5日撮影)。(c)STR / AFP」(「後悔してない」 軍事政権に抵抗し逃亡生活送るミャンマー市民 2021年6月30日 8:00 発信地:バンコク/タイ [ タイアジア・オセアニア ])

 警官にひざまずいた修道女「今でも体が震える」 ミャンマー、クーデターから1年

【2月1日 AFP】ミャンマーで軍がクーデターを起こしてから1日、1年を迎えた。反クーデターデモの参加者を撃たないようひざまずいて警官に懇願した修道女、アンローズ・ヌトーン(Ann Rose Nu Tawng)さんはAFPのインタビューに対し、当時のことを思い出すと今でも体が震えると語った。/ 北部カチン(Kachin)州ミッチーナ(Myitkyina)で、カトリックの修道女が警官にひざまずき、両手を広げて発砲しないよう懇願する様子を捉えた写真は世界中に拡散された。/ 写真が撮影された昨年3月、カチン州ではデモ参加者2人が射殺された。ヌトーンさんはけがをした子どもを病院へ運んだこともある。/ 混乱の中、写真を撮られたことにも気付かなかった。「家に着くと、家族や友人がとても心配していたので気付いた」と話す。母親からはなんて危険なことをしたのかと、涙ながらに怒られた。/「人々が銃撃から逃げ惑っている状況の中で、自分が人々の命を救おうとそこにいたことが信じられない」

 ヌトーンさんは、牧師の父と教師の母の間に生まれた。少数民族武装組織と軍の衝突が長年続いてたカチン州では、軍を避けるのは子どもの頃から常識だった。/ 9歳の時には、兵士から逃れるため家族で避難せざるを得なくなった。その際の恐怖感は脳裏に焼き付いており、今の子どもたちも同じような目に遭うのではないかと心配している。/ 国内の監視団体によると、軍による弾圧でクーデター以降、市民1500人以上が殺害され、1万人以上が逮捕された。/ ヌトーンさんは、軍に公然と立ち向かった代償を払わされている。治安部隊に何度も拘束され、携帯電話を調べられ、写真を撮られた。/ 政治的な活動はしていないが、怖くて一人で外出できない。「もはや自由はない」/ 看護師の研修を受けたことがあるヌトーンさんは、現在はカチン州内の国内避難民キャンプで働いている。/ 信仰が希望と目的意識を与えてくれると言う。「神の御加護で生きています。私を永遠にお使いになりたいのかもしれません」 (c)AFP(2022年2月1日 13:00 発信地:ヤンゴン/ミャンマー [ ミャンマーアジア・オセアニア ])

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 下に同じ場面を撮影した別の構図があります。跪いたのは彼女一人ではなかったのは、ある意味では当然であったかもしれません。この写真を時に眺めながら、軍や警察権力がいかなるものであるか、その暴力性それ自体が一つの「権力」であり、その別種の権力が、既存の権力を奪取するのを「クーデター」というのでしょう。「国家秩序維持」という名目のための「暴力装置」が国家権力を簒奪したのが、昨年のミャンマーの「政治的革命」でした。権力の首座・首領が誰であろうが、それは人民の幸福にはみじんも関係ないということ、国家権力といえども、みずからの権力(暴力)の秩序を維持するためには「自国民=人民」に銃口を向けるどころか、その銃口から銃弾を吐き出して、その命を消し潰すということです。

 一人のシスターの果敢な行為は、まさしく「勇気」と「生命尊重」への行動の重さと、その困難さを明示しています。彼女のこの行為が無駄であったとはいえない。それどころか、「反軍事政権」への絶えることのない抵抗が今もなお継続していることに、その意味を求めることができると、ぼくは確信しています。暴力をほしいままにしている「軍事力」を他の勢力(他国の軍事力)が物心両面で支援しているからこそ、この暴力の首謀者たちの「政権掌握」は今なお続けられているのです。世界の覇権を握ろうとする「頂上独占」競争が、あらゆる地域で、ある種の「代理戦争」をもたらし、あろうことか「国内合戦」「国内戦争」という愚劣でありながらも、それを否定できない戦いが生じているのです。そこから、無数の無辜の民の犠牲が果てしなく続くのです。

ロイターによる、その時の録画が閲覧できます。(https://www.reuters.com/video/watch/idOWjpvC4SVP9FMP6G0QUK3TMBX827DNM

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 ミャンマーの人民による「抵抗の一念(一年)」をどのように見るか。この悪夢の(「内戦」)状態が一日でも早く終わるために、ぼくたちに何ができるか。ささやかながら、その思いを、当地の「抵抗する人々」につないでいきたいと念じているのです。このような事態は、決して「対岸の火事」、他国の惨事とみることはできません。いつなんどき、ぼくたちの頭上に銃弾や爆弾が炸裂するかもしれない、そんな火薬庫や地雷原の上に、ぼくたちは「日常」を暮らしているのです。軍備や暴力に守られて維持される「平和」「安全」というものを、ぼくたちは根底から作り変える、そんな意識と行動を求めて、それがいかに微細・微力であれ、生きることを願っている。

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 「#いーそーぐゎちでーびる」「#ソーグヮチ」

 <金口木舌>旧正月をウチナーグチで祝う あなたにとって今年はどんな1年でしたか?と書くと、1カ月遅れの文章だと思われそうだが、今日は旧暦12月29日。トゥシヌユールー(大みそか)だ▼新型コロナの影響で、行事などは簡素化されるはずだが、糸満市やうるま市浜比嘉島、南城市久高島など、ウチナーソーグヮチ(旧正月)を祝う地域は今日は新年を迎える準備をしているだろう▼ウチナーグチで新年のあいさつは「いーそーぐゎちでーびる」(いい正月ですね)。今年はこの言葉を口にしたり、SNSに書き込んだりする人が増えそうだ。ツイッターで「#いーそーぐゎちでーびる」「#ソーグヮチ」とツイートすると、トラの絵文字が出現する仕様になっている▼日本で旧正月を祝うのは沖縄の一部地域だが、東アジアでは旧正月が主流。ツイッターではこれらの国の新年を祝う言葉にもトラの絵文字が表示される▼中国語、韓国語、ベトナム語など各国の言葉とウチナーグチが並ぶのは誇らしい。旧正月をしない地域も明日は「いーそーぐゎちでーびる」とあいさつしよう。(琉球新報・2022/01/31)

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 「いーそーぐゎちでーびる」(いい正月ですね)と、ぼくは言ったことはありません。しかし、まだ幼児の頃や小学校に入った頃の正月風景は、「旧正月」行事に比して、どこか形式的であったような気がします。お寺にもお宮に参ることもなく、ぼくはこれまでも「大晦日」も「元日」も、普段の過ぎゆく「一日」であるという、そんな付き合い方をしてきました。慌てもしなければ晴れやかに着飾ることもなく、当たり前の明け暮れに終始していたものです。学生時代に「民俗学」なるものに興味をもち、柳田国男さんや宮本常一さんを筆頭に、もろもろの研究者から、それこそ雑多な「民間伝承」「年中行事」などを学んだ。その大半は、今は影も形もなく、歴史の深淵に沈んでいったようですが、時には、まじかに迫った「旧正月」のあれこれを、殊に東南アジアの各地にみるようになると、なんだか「先祖返り」したような心持になるのです。「みなさん、お変わりありませんか」、と挨拶したい気がしてくるのです。

 もつれた記憶の糸をたどれば、おそらくぼくが経験した「旧正月」にかかわる行事のほとんどは、農耕栽培に結びついていたものであり、これは「農山漁業」の生活に刻まれた「はれとけ(ハレとケ)」が織りなす生活模様であり、その最大の節目が「(旧)正月」だったように思われます。その根本は、一家一同の息災と家内安全、あるいは地域の幸運など、それぞれが生活の基盤である土地の「神(産土・うぶすな)」への祈願と感謝の意思表示ではなかったか。さらに、その根を掘り起こすと「先祖を祀る」という、決定的な契機となった「家の神信仰」にたどりつく。そのことに関して、東南アジア各地の行事の華やかさにばかり目を奪われてしまいがちですが、じつは、その行事の核心部分は、基本的にはこの島にももたらされたものであり、いまでも、その原型のいくばくかの要素は嗅ぎ取ることができるというものです。これは人間集団のさまざまな場面で共通して認められる事柄でもあるのです。「家」「先祖」というものが風前の灯火と化し、すでに消えてしまった時代に、「産土」も「家の神」「年神」もあったものではないでしょう。これもまた、留めようのない「時の仕業」でもあるのです。初詣も、豆まきも、歴史の深淵に沈没してしまった(文化)の形骸であり、たんなる浮遊物にすぎないんですね。そこには金儲けの神はいても、民衆の幸福と幸運を託しうる神は不在です。

OOOOO

◉ ハレ(民俗学)はれ=日本民俗学の基礎概念として、(褻、毛、気)に対比する内容を示す語である。一般にはハレとケは民俗文化を分析する用語として使われている。ケが日常的側面を説明しているのに対して、ハレは非日常的側面を説明する。ハレは晴、公の漢語に置き替えられる例が多い。晴は天候の晴天に通じ、公は公的な儀式に表現されている。したがってハレ着という場合には、普段着ではなく公的な儀式に参加する際に着用する盛装や礼装に当てはまる。人が誕生してから死に至るまでに何度もハレの儀礼に出会う。宮参り、七五三、成年式、結婚式、年祝いなど冠婚葬祭が基本にある。また1年間の行事においても、正月、、神祭りなどもハレの機会である。 ハレは衣食住に顕著に表現されており、ハレ着のほかにも、食事が普段と異なり特別の作り方をする例に示される。神祭りに使われる神饌(しんせん)や、供物を人々が食べ合う直会(なおらい)などの食事、餅(もち)や赤飯、赤い色をつけた食物をカワリモノとしてハレの食物にしている。/ ハレはケを基本にして成り立っている。ケである普段の生活、日常生活が維持できなくなると、それとは別のリズムをもった生活が必要になる。非日常的な側面が強調されるのであり、それは精神が高揚した晴れやかな気分に満ちた時間と空間をさすことになる。私的な部分よりも公的な部分が顕著なのであり、ケに対するハレが公式の儀礼に表現されてくることになる。(ニッポニカ)

OOOO

 細かいことは省きます。こういうものの言い方は誤解されるのが落ちですから、あまり言わないほうがいいのでしょう。その一例になるかと思われるのが、「稲作の伝播」の問題です。この島に、どのようにして「稲作農耕」が伝わってきたか、それだけでもいまなお議論が決着していない、悠久の歴史の提出する宿題でもあります。少なくとも、この島で独自に、あるいは単独で「稲」「稲作」「水田稲作」等々が展開されて来たのでないことは明らかです。ではそれが、いかにしてこの島にもたらされたか。それを携えてきた人々がいたからです。今風の「海外渡航」ではないわけで、生活・文化・歴史をすべてを身にまとって、この東アジアの端っこの島にやってきた人たちの集団がいたのです。その人々は、けっしてひとかたまりでやって来たのではなく、地形的にいっても、南から西から北から東から、海を交通の要衝として渡来し、そのことが気の遠くなるほど繰り返されて、やがて、この地に生活の基礎を築く人々が固定され、いつの日か、(後に日本と呼ばれるようになる)「島社会の住人」の元祖となったのでしょう。

 今日の海外旅行のように「旅行鞄」「キャリーバッグ」を持ってやってきたのではありません。おそらく数日、あるいは数年滞在したら、生まれ故郷に帰るという人たちではなかったのです。今なら、家財道具一式をすべて背負って、最後まで、この地に住み着くことを考えた人々でしたろう。つまり、生活も文化も歴史も、ひとまとめにしてこの地にやってきて、住み着くようになったのです。反対に、住み着こうとはしなかった、もとの仲間の人々も、基本的には、集団から抜け出して渡来して行った人々と同じ生活圏にいたとするなら、「生活・文化・歴史」を共にしていたのですから、今となれば、東西に、あるいは南北に離れ離れではあるけれど、根っこの部分では同じ生活意識を持っていたことになるでしょう。多方面における文化や伝統(行事)の類似性や共通性は、このことを証明しているととらえられます。

 文化圏あるいは生活圏というものを、どの程度の範囲でとらえるか、今でも容易ではありませんが、少なくとも「農耕」「漁業」「林業」などの第一次産業といわれるものに共通して認められる特色は、拡大された姿で、「年中行事」や「「正月のしきたり」などに見ることができるのではないでしょうか。

 昨日も書きましたが、ぼくは「旧正月」人間です、少なくとも「年賀状」を書くという点においてだけは。年初にいただいた賀状の返信を、立春前後に出すことになってから、かなり時間がたちます。ぼくは「旧暦の人間」でもあります。俳句などを楽しもうとすると、どうしても、今日の暦では実感も理解も働かないことおびただしいのです。参考になるかどうか。一茶には「立春」を詠んだ句がたくさんありますが、その一、二を。

・春風のそこ意地寒ししなの山    ・春立や弥太郎改一茶坊   ・春立や菰(こも)もかぶらず五十年 

 なんということもない句なのでしょう。しかし、ぼくの感覚からすれば、そこに著されている「春」は「一月一日(元旦)」ではなく、やはり「立春」の近くではないか、一茶の句だからそういうのだろうと言われれば、その通り。否定はしませんが、梅が咲く、鶯が鳴くという季語・季題も「立春」に結び付けなければ、その味わいは難しいのではないですか。

 ともかく、ぼくは「いーそーぐゎちでーびる」と口には出さないし、こっそり「祝う」ということもしません。けれども、まもなく鶯が鳴くだろうというとき、あるいは初鳴きに出会うと、まぎれもなく「新春」を迎えた気になるのです。(右は「どんど焼き=小正月(こしょうがつ)に行われる火祭り」)

 今の世も鳥はほけ経鳴にけり (一茶「おらが春」)

HHHHHHHHHHH

◉ 旧正月(きゅうしょうがつ)=暦(太陰暦)の正月。1872年(明治5)政府は太陽暦を採用し、従来の太陰暦(正確には太陰太陽暦)を廃止したから、従来の暦は旧暦とよばれるようになった。その際、東京・滋賀などわずかの例を除き、正月や盆をはじめとする民俗的な年中行事は、大半旧暦で行われ続けた。年中行事は年間の生産労働の営みと密接な関係があったからである。ことに正月行事は、大正月(おおしょうがつ)(元旦(がんたん)中心)・小正月(こしょうがつ)(15日中心)の区別もあり、内容が多岐にわたる民俗行事であったから、容易に新暦に移行することはできず、旧暦の正月(旧正月とよばれた)が各地に長く維持され、長い年月の経過のうちにしだいに移行するほかなかった。過渡的に1か月遅れ(月送りともいう)の正月行事を続けていた土地も多い。(ニッポニカ)

◉ どんど=〘名〙 (「とんど」とも) 小正月の火祭。正月一四~一五日に門松、竹、注連縄(しめなわ)などを持ちよって火を燃やすこと。左義長。とんどう。どんどや。どんどやき。《季・新年》※俳諧・炭俵(1694)上「御茶屋のみゆる宿の取つき〈利牛〉 ほやほやとどんどほこらす雲ちぎれ〈孤屋〉」(精選版日本国語大辞典) 

◉ 左義長(さぎちょう)=小正月(こしょうがつ)を中心に行われる火祭り。正月の松飾りを各戸から集めて、14日の晩方ないしは15日の朝にそれを焼くのが一般的な方式である。社寺の境内、道祖神のそばや河原などで行われる。トンド、ドンドンヤキ、サイトウ、ホッケンギョなどさまざまによばれており、いまなお広く行われている。サギチョウというのは、すでに平安時代の文書に「三毬打」または「三毬杖」としてみられるが、3本の竹や棒を結わえて三脚に立てたことに由来するといわれている。火の上に三脚を立てそこで食物を調理したものと考えられている。(もち)などを焼いて食すことはその名残(なごり)かもしれない。いずれにしても、木や竹を柱としてその周りに松飾りを積み上げるものや、木や藁(わら)で小屋をつくって子供たちがその中で飲食をしてから火を放つものなど多様である。関東地方や中部地方の一部では道祖神祭りと習合しており、燃えている中に道祖神祭りの石像を投げ込む事例もある。長野県地方のサンクロウヤキは松飾りとともに、サンクロウという木の人形を燃やす。また九州地方ではオニビとよばれて7日に行われている。多くの土地では、火にあたるとじょうぶになるとか、その火で焼いた餅を食べると病気をしないなどという火の信仰が伝承されている。なお、中心の木を2方向から引っ張ったり、あるいは燃えながら倒れた方向によって作柄を占う、年占(としうら)的な意味をもつようなものもある。(ニッポニカ)

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 目出度さも中位なりおらが春(一茶) 

 昔、たんごの国普甲寺ふこうじといふ所に深く浄土をねがふ上人ありけり。としのはじめは世間祝ひごとしてさゞめけば、我もせんとて、大卅日おおみそかの夜、ひとりつかふ小法師こぼうしに手紙したゝめ渡して、あすの暁にしかじかせよと、きといひをしへて、本堂へとまりにやりぬ。小法師は元日のあした、いまだ隅み隅みは小闇おぐらきに、初烏はつがらすの声とおなじく、がばとおきて、教へのごとく表門おもてもん丁々ちようちようたたけば、内より「いづこより」と問ふ時、「西方弥陀仏さいほうみだぶつより年始の使僧つかいそうに候」と答ふるよりはやく、上人裸足にておどり出で、門の扉を左右へさつとひらきて、小法師を上坐にしようじて、きのふの手紙をとりてうやうやしくいただきてよみていはく、「その世界は衆苦充満に候間そうろうあいだ、はやく吾国に来たるべし。聖衆しようじゆいでむかひしてまち入候」と、よみ終りて、「おゝおゝ」となかれけるとかや。この上人、みづからたくこしらへたる悲しみに、みづからなげきつゝ、初春の浄衣をしぼりて、したゝる涙を見て祝ふとは、物に狂ふさまながら、俗人に対して無常をのぶルを礼とするときくからに、仏門においては、いはひの骨張こつちようなるべけれ。それとはいさゝか替りて、おのれらは俗塵に埋れて世渡る境界きようがいながら、鶴亀にたぐへての祝尽しも、厄払ひの口上めきてそらぞらしく思ふからに、から風の吹けばとぶ屑家くずやはくづ屋のあるべきやうに、門松立てず、すすはかず、雪の山路のまがりに、ことしの春もあなた任せになんむかへける。

 目出度 めでたさもちう位也くらいなりおらが春  一茶

     こぞの五月生まれたる娘に一人前の雑煮膳を居(す)へて

 這へ笑へ二つになるぞけさからは  

    文政二年正月一日

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 一茶は多くの人から好まれてきました。それだけの人望があったのかどうか、ぼくにはよくわかりません。しかし、彼は人並み以上に苦労をして生きてきたという点では、ぼくは親しみを早くから覚えてきました。もちろん、彼の作る「小さいものへの慈しみ」が、幼心に、やさしく語りかけてきたという事情はあるでしょう。彼の死後に出された句文章「おらが春」をこよなく愛読するものです。詳細は省きますが、彼自身が生きてきた軌跡を、晩年に近い「一年」を切り取って描き出した文であり、句であります。

 これが一茶の句であると、だれからも愛でられたもののかなりの句がこの集に収められています。まず冒頭の一文に添えられた句は、目出度さも中(ちう)位なりおらが春 について、一茶はこう述べています。

「おのれらは俗塵に埋れて世渡る境界きようがいながら、鶴亀にたぐへての祝尽しも、厄払ひの口上めきてそらぞらしく思ふからに、から風の吹けばとぶ屑家くずやはくづ屋のあるべきやうに、門松立てず、すすはかず、雪の山路のまがりに、ことしの春もあなた任せになんむかへける」貧乏人は貧乏人らしく、陋屋にて「春」を迎えるのだ、と。この句文集の末尾には「ともかくもあなた任(まか)せの年の暮 (五十七歳)一茶   文政二年十二廿九日」と記(しる)しています。

 この島では一時期、国民がすべて「中流意識」を標榜していたことがありますが、一茶のいう「中位」は、それと似て非なるものでしょう。「俗塵に埋れて世渡る境界」にふさわしい「正月」をして「おらが春」というのです。決して「人並」「世間並み」ではなかったことは、彼の仕事(作品)がよく示しているところです。「中位のおらが春」から始まった新年(新春)も、ついには「あなた任せの年の暮」と韻を踏んで、一年の記録を閉じている。この「ともかくもあなた任せの年の暮」という句にはじめて出会った時、なんという句だろう、俳句だろうとぼくは訝(いぶか)しく思った。雀や蛙に思いを寄せる一茶は、それなりに「ちゃらんぽらん」な人だという、まるで、わが同士を得た気がしたのも、一茶にあきれた理由でした。じっさいに「あなた」はだれだったのか、「ともかくもあなた任せ」という一茶の「あなた」は誰だったか。それを知るために、一茶を少しは勉強してみようという気になったのかもしれません。手元には「一茶全集」(信濃毎日新聞社刊)しかありませんでした。(ヘッダー写真は黒姫高原スキー場:https://www.shinano-machi.com/spot/255)

 これからも、折りに触れて、一茶の「あなた任せ」の宗教心と、「中位なりおらが春」の自己認識に寄り添っていこうと考えています。本日は、その前触れ(前宣伝)であります。

 本日は二月一日、来る二月四日は「立春」です。旧暦の「正月」「新春」でもあります。どれくらい前からか、ぼくは年賀状をいただいても、返信は「三が日」や「松の内」には出さくなりました。大変な無礼でもあるのですが、どうしても気持ちがしっくりこないまま「(暮れに)本年もよろしく」とは書けませんでした。その思いは相当昔から萌していたのですが、世の習いに抗することはなかなか困難を感じていたのでしょう。しかしもう十年以上にもなるか、ぼくには「立春」こそが「正月」だという、「古人の感覚」が戻ってきたのでした。以来、豆まきや立春の前後に「本年も何卒よろしく」と書くにいたったのです。年賀状の返事を出さない無礼者と、大声で叱られはしませんでしたが、多くの人は怒ったはずです。それも仕方がないと感じつつも、今でも考えあぐねています。

 「目出度さも中位なりおらが春」という気分を、わがものにしたのも一茶のおかげだったかもしれません。(今日あたりから、年賀状の返信の準備に入っているのですが、最近はパソコンの調子がすこぶる悪くて、ゆっくりと「修復」やらソフトの「インストール」のやり直しなどをしています。加えて、印刷機の動きもおかしい。本人同様に、相当に「ガタがきている」のです。つまらない文章を腐るほど書いているせいですね。機器も、まちがいなしに、使う人間に似てくるのでしょうから、この「不具合」はあるいは、ぼくの手に負えないのかも、とダメならダメで、賀状の返信は「春のお彼岸(春分の日)」あたりころまでにしようかとも愚考しているところです。

(右の写真は「漂泊の俳人・小林一茶は流山の商家・秋元三左衛門(俳号・双樹)のもとをたびたび訪れたことから、流山は一茶の第二のふるさとともいわれています。市では、この由緒ある「小林一茶寄寓の地」を市指定記念物(史跡)に定め、庭園や建物を整備して、一茶双樹記念館としてご利用いただいています。流山市HP:https://www.city.nagareyama.chiba.jp/institution/1004311/1004320/1004322.html) 

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 以下は「解説」になります。

  俳人小林一茶の生涯 小林一茶は、1763(宝暦13)年、長野県の北部、北国街道柏原宿(現信濃町)の農家に生まれ、本名を弥太郎といいました。3歳のとき母がなくなり、8歳で新しい母をむかえました。働き者の義母になじめなった一茶は、15歳の春、江戸に奉公に出されました。奉公先を点々とかえながら、20歳を過ぎたころには、俳句の道をめざすようになりました。

一茶は、葛飾派三世の溝口素丸、二六庵小林竹阿、今日庵森田元夢らに師事して俳句を学びました。初め、い橋・菊明・亜堂ともなのりましたが、一茶の俳号を用いるようになりました。/ 29歳で、14年ぶりにふるさとに帰った一茶は、後に「寛政三年紀行」を書きました。30歳から36歳まで、関西・四国・九州の俳句修行の旅に明け暮れ、ここで知り合った俳人と交流した作品は、句集「たびしうゐ」「さらば笠」として出版しました。/ 一茶は、39歳のときふるさとに帰って父の看病をしました。父は、一茶と弟で田畑・家屋敷を半分ずつ分けるようにと遺言を残して、1か月ほどで亡くなってしまいました。このときの様子が、「父の終焉日記」にまとめられています。この後、一茶がふるさとに永住するまで、10年以上にわたって、継母・弟との財産争いが続きました。

一茶は、江戸蔵前の札差夏目成美の句会に入って指導をうける一方、房総の知人・門人を訪ねて俳句を指導し、生計をたてました。貧乏と隣り合わせのくらしでしたが、俳人としての一茶の評価は高まっていきました。/ 50歳の冬、一茶はふるさとに帰りました。借家住まいをして遺産交渉を重ね、翌年ようやく和解しました。52歳で、28歳のきくを妻に迎え、長男千太郎、長女さと、次男石太郎、三男金三郎と、次々に子どもが生まれましたが、いずれも幼くして亡くなり、妻きくも37歳の若さで亡くなってしまいました。一茶はひとりぽっちになりましたが、再々婚し、一茶の没後、妻やをとの間に次女やたが生まれました。

家庭的にはめぐまれませんでしたが、北信濃の門人を訪ねて、俳句指導や出版活動を行い、句日記「七番日記」「八番日記」「文政句帖」、句文集「おらが春」などをあらわし、2万句にもおよぶ俳句を残しています。/ 1827(文政10)年閏6月1日、柏原宿の大半を焼く大火に遭遇し、母屋を失った一茶は、焼け残りの土蔵に移り住みました。この年の11月19日、65歳の生涯をとじました。(一茶記念館:http://www.issakinenkan.com/)

◉ おらが春(おらがはる)=小林一茶(いっさ)の代表的な文集(くぶんしゅう)。一茶死後25年たって、弟子の白井一之(いっし)が上梓(じょうし)。1819年(文政2)、一茶57歳の1年間の随想見聞、句作だが、ちくりと皮肉を仕込んだ見聞にも、この年、長女さとを痘瘡(とうそう)で死なせて、その悲嘆の情をありていにつづった文章にも、一茶の円熟が感じられる。そして、重なる子供の死(3年前に長男死亡)を通じての、浄土真宗門徒一茶の如来(にょらい)信仰の成熟が目をひく。一之がこの題を選んだ句文集最初の句「目出度(めでた)さもちう位也(くらいなり)おらが春」を、集末尾の句「ともかくもあなた任(まか)せのとしの(くれ)」と照応させつつ、「自力他力」の「小(こ)むつかしき子細(しさい)」を超えた、「あなた任せ」の境地を一茶は熱っぽく述べている。[金子兜太](ニッポニカ)

◉ こばやし‐いっさ【小林一茶】=江戸後期の俳人。通称、彌太郎。本名、信之。信濃柏原の人。三歳で実母に死別し、八歳以後継母の下に育てられる。一四歳の時、江戸に出る。のち二六庵竹阿(ちくあ)の門に入り、俳諧を学ぶ。全国各地に俳諧行脚の生活を送ったが、晩年は故郷に帰り、俳諧宗匠として安定した地位を得た。しかし、ようやくにして持った家庭生活は妻子に死なれるなど不幸であった。その作風は鄙語、俗語を駆使したもので、日常の生活感情を平明に表現する独自の様式を開いた。著に「おらが春」「父の終焉日記」など。宝暦一三~文政一〇年(一七六三‐一八二七(精選版日本国語大辞典)(一茶は房総の各地に足跡を残しています。右は市川市の葛飾神社内)

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